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●薔薇の肖像、その12
えたぎるような猛暑だが、日陰に入ると多少はましだ。今日は12日に伊丹で撮影した薔薇の花の写真を全部載せるが、今日を逃すとあまりに季節外れになってしまうからだ。



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もっと早く投稿するつもりが、12日の深夜、布団に横になってからか、そのために用意した4枚1組の写真5枚が、どうもおかしいことに気づいた。同じ写真を使っていたのだ。それが1枚だけならまだしも2枚だ。そんな間違いは自分では絶対にしないと思っているのに、2枚も同じ写真を使ってしまった。それでその2枚の代わりに使うべき写真は白と朱色の薔薇で、朱色の方はピントが呆けていて250×250ピクセルに縮小してもそれが目立った。それでも濃い朱色の薔薇はそれだけなので、使うつもりでいた。ところがだ。肝心の4枚1組の写真に加工する段階で、それを無意識に省いてしまった。白の方は今日の最初の写真の左上と同じように見える花で、これも気になっていた。それら2枚は使いたくないとの無意識の思いが作用したのかもしれない。気づいたのが投稿して2,3時間後で、翌朝慌ててゴミ箱行きにした薔薇の写真全部を確認しようとすると、普段はめったにしないのに、ゴミ箱を空にしていた。画像復旧ソフトを使っても無駄で、使うべき白と朱色の薔薇の花の写真はもう取り戻せない。もちろんスマート・メディアの中も同じで、どういうわけかその2枚は復元出来なかった。こうして書いていて筆者の脳裏には鮮明に蘇るのだが、後の祭りだ。で、4枚1組が5枚ということは、伊丹で撮った薔薇は12日の投稿以外に2回に分ける必要をぼんやり思っていたが、その5枚には同じ薔薇の花がふたつあって、その2枚は使うわけには行かない。つまり、4枚1組の写真は作り直しだ。だが、合計で20枚から2枚を差し引くと18枚で、これは4の倍数からすれば4に2枚あまる。つまり、筆者のうっかりで使うことの出来なかった2枚のほか、もう2枚を没にしなければならない。4枚1組に合成した写真を1枚ずつに分解し。それを白から順に並べて、そこから2枚を減らす。それが終わってからまた4枚1組に合成で、その合成加工の方法は以前書いたように、それなりに厳密だ。その法則を崩したくないので、5枚のうち写真がだぶらないものをそのまま使うことは考えられない。誰も気にしていないことはわかっているが、筆者なりの規則、儀式があって、それにしたがう。だが、ここ12日以降連日とても忙しく、また本当はやらずに済んだ行為をしなければならないという自分のうっかりを思い出すのがいやで、なかなかその再加工をしなかった。それをしたのは一昨日だ。そして、4枚1組の写真をばらして行くと、新たに気づいたことがあった。だぶりの写真は2枚だけと思っていたのに、もう1枚見つかった。12日の加工の際は本当にどうかしていた。それはともかく、20枚からだぶりの3枚を減らすと、もう1枚を使わねばいいことになって、17枚からその1枚を選ぶことは比較的簡単であった。その1枚はどういう薔薇であったかと言えば、今日の1枚目の右下と形はそっくりで、またその花の淡い桃色をごくうすい紫にしたものを思えばよい。その花を13種のどこに位置させるかをかなり迷った。その結果、それだけ迷うのであれば、それを省けばいいことに気づいた。それにその花はどこかさびしげで、中途半端と言えばいいか、13種の中では一番目立たなかった。その薔薇の写真をゴミ箱に移動させながら、それが人間で言えばどういう女性かをふと思った。
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 さて、今日は2週間ぶりに右京中央図書館に自転車で走った。正午に家内と家を出て、帰宅したのは3時だ。最も暑い時間帯を右京を走り回った。最後は梅津のトモイチに行き、そこで寿司を買って休憩所で無料の茶を何倍も飲みながら食べた。家に帰って昼食の用意をするのも大変で、涼しいトモイチで済まそうと思ったのだ。家内はそこの休憩所は本当は嫌がる。油臭さが強く、衣類にそれが移ってしまうことと、労務者風の中年以上の男女が暇を持てあまして座っているところをよく見かけるからだ。気位が非常に高い家内は、そういう場所で買ったものをすぐに食べるということが我慢ならない。それで家内が食べたのは海苔巻1個とおはぎ1個だ。ま、それだけでも家内の小さな胃袋では満腹になるだろう。家内に店内の買い物をしてもらっている間、筆者は休憩所の片隅に座って店内を見わたしていた。夏休みに入ったために、中学生も目立ち、彼らはアイスクリームやかき氷を食べている。筆者がもっと気になったのは、筆者の目の前に後ろ姿を見せて座って女性だ。小柄で、背丈は家内と同じくらいだが、年齢はたぶん70くらいだろう。鼻が西洋の魔女のように大きく、また曲がっていた。口元や顎の垂れ具合は完全に老婆だ。だが、長い髪をきれいに染め、また靴やアクセサリー、衣類はどう見ても30代くらいで、両手には薔薇色のマニキュアをしていた。ファッションにこだわりがあるようで、全体に安物だが、調和は取れていた。途中で立ち上がって無料の茶を汲みに行ったが、座っている時から感じていたことが確信が持てた。背中が少し曲がっていて、胴が短い。昔はよく見かけたせむしだ。だが、それがとても目立つというほどではない。彼女は4人座りのテーブルに筆者を背を向けてひとりで座っていたが、何かを食べる風でもない。彼女の右のテーブルに、50代と60代の男が向き合って座っていて、彼女をからかっていた。話の内容まではわからなかったが、子どもを扱うような態度で、彼女が茶を汲みに立ったのはそのふたりの命令であった。だが、それを言われた時、彼女は気安そうにふたりに「いい加減にしいや」と笑いながら言い、楽しそうであった。そして、そういう彼女を見て、ふたりの男はさらにからかい続けた。顔見知りであったのか、その日初めて出会ったのか知らないが、女の方は男から声をかけられるのを期待している様子があり、筆者はきっと彼女が独身で、また男に深く愛されたことはないのだろうと思った。男でも女でも一生独身のままであることはいつの時代でもある。だが、本当は愛し愛されて結婚生活を送りたかったのに、それがかなわずにずるずると30、40、50代と年齢を重ねてしまう。筆者の前に座っていた彼女は、ふたりの男が最後のからかい言葉を発してテーブルを離れた後、5分ほど同じ格好でその場にいたが、やがてテーブル上の帽子を被り、荷物をまとめてトイレに去って行った。その後筆者はもう彼女のことは思わなかったが、彼女の横顔は、大き過ぎる鼻を覗けば、どちらかと言えば楚々とした美人系で、若い頃はそれなりに恋愛もしたことが想像出来る。ところが、全体から滲み出る雰囲気は、いかにも毒々しく、またそれが高齢であるから一種異様に目立った。先に70くらいと書いたが、そう見積もりながら筆者は筆者と同じくらいかもしれないとも思った。女の年齢はわかりにくい。彼女の場合は、いかにも独身で、男と長年縁がなかったことが老けて見えさせているのではないかとも思った。岸恵子が80代にもかかわらず、あれほど美しいのは、若い男に不自由していないからだと、MIHO MUSEUMからの帰りのバスの中で大志万さんと意見が一致したが、女も男も老いるほどに若い異性を求めるのが本能か。それはさておき、トモイチの休憩所で筆者の目の前に座っていた女性に目が行ったのは、上に着ていた体にフィットした長袖のTシャツの色合いが、それが藤色、つまりうすい紫で、それが腰に巻いた金色の細い鎖と合わさっていかにも水商売風であった。下は緑色のスパッツで、靴は紅色の半ブーツ、帽子は昔ヨーコ・オノが一時着用していたアメリカの警察官が被るような大きなキャップで、デニム製だ。全体に子どもの玩具箱のような色合いで、老け込んで普通の老婆になることを拒否宣言している。だが、現実はスーパーの涼しい休憩所に陣取って、暇を持てあましている。その彼女の姿は、前述した筆者が採用しなかった白地に藤色をほんのり染めた薔薇を思い出させる。
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 阪急の新伊丹駅前の小さな半円形の薔薇園で写真を撮りまくったが、計算すると、1枚撮るのに1分かかっていない。無我夢中でどれがいいかを順に探し、代表的なものを撮った自信はある。だが、どれもがうまく撮影出来たのではなく、没にしなければならなかったものが何枚かある。それに誤って消してしまったものもある。その結果、今日の16種となったが、薔薇であるので全体に華やかなのはあたりまえで、また色合いは万遍なく揃っていると言ってよいだろう。それが不満と言うのではないが、万遍なく揃うというのは、無難で月並み、個性がないことだ。つまり、選ばれて当然のような健康なものばかりだ。世の中はそういう人が目立ち、そういう人たちが動かしていると言ってよい。だが、世間には暑さ凌ぎにスーパーを訪れ、その無料休憩所で安い食べ物で満足する人がいる。家内が帰宅して言ったことはそれに似ている。「ついにわたしたちもあそこの仲間になったようやね」。筆者はそれには答えなかったが、それは、家内の言うとおりで、またそのことが別段悪いこととは思っていないからだ。筆者はエリート意識はないし、またエリートと呼ばれる資格もない。さらには、在野と呼ばれるほどの存在感もなく、全くトモイチの休憩所でぼんやり過ごすことが似合っているし、またそれは楽しい。その無料休憩所では酒は禁止されているが、まだそうなっていない頃に発泡酒を買って飲んだことがある。そんな筆者は家内からすればみっともないが、梅津のスーパーで気取ることもない。それに居酒屋で気炎を上げることとさほど変わらないことではないか。人間をよく花にたとえるが、誰もが薔薇と思うことも出来る。貧者でも富者でも1本の薔薇と思ってみることだ。どの薔薇もそれなりに香しく、きれいな形をしている。筆者が好きな薔薇は白か真っ赤で、自分ではそのどちらかと思うことにしている。さて、薔薇園で気になっているのは中之島公園がある。筆者は行動範囲が狭いので、そのほかはほとんど思い出せない。京都の植物園で昔写生したことがあるが、管理が行き届いたところの花はあまり面白くない。在野しか似合わない筆者と思っているので、どうしても忘れられたようなところにひっそり咲いているのに惹かれる。そうそう、在野で思い出した。「在野一兔」というペン・ネームをいつか使う気になっている。「ありのいっと」と読むが、筆者の干支は兔で、一匹狼ならぬ、簡単に蹴散らされるか弱い兔で、それが野に一匹いるというイメージだ。また、「一兎」は「一途」に引っかけている。イメージという言葉を使ったが、昨日書いた記憶の海から突如飛び出す昔の空気感は、イメージではない。今日はそのことを最初に取り上げて話を継ぐつもりであったのに、もうその余裕がない。少しだけ書いておくと、その突如蘇る記憶は、筆者という領域からはるか離れたところにあるもので、そういう記憶が蘇ると、筆者は今の自分、これまでの自分とは違った生き方が出来る可能性があったのに、絶えず選択を重ね、今に至っていることを思う。選択を重ね続けるほどに、毛細血管の細い道に入り込むようなもので、自分という枠がこわばって小さくなって行く。それは悲しいことで、老人がそうであるのは、そのせいだ。それで、その何気ない拍子に思い出される遠い過去の空気感は、昨日書いたように記憶していつでも思い返すことは出来ないものだが、そういう記憶が蘇ることは筆者の脳のどこかに保存されているからで、そのことを忘れない限り、今の自分を狭いところにいると思わずに済む。選択を重ね続けて来て今にいるのは誰しも同じだが、過去に囚われる必要はないということだ。とはいえ、それは社会から見ればかなり危険な思想だ。そのことがわかっているだけに、なおさら在野の自由を満喫したいと思う。
●薔薇の肖像、その12_d0053294_0213581.jpg

by uuuzen | 2015-07-25 23:59 | ●新・嵐山だより
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