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●嵐山駅前の変化、その371(マンション)
に出来ていると見えてきわめて脆いのが人間だ。わずかな気温の範囲内で生きていることからもそれがわかる。「風風の湯」のサウナで12分を4回入ることに慣れたので、今年の暑さは苦にならずに克服出来そうな気がする。



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だが、まだ本格的な猛暑の日が続かないのでそう思っていられるだけで、もうすぐ根を挙げたくなる日々が到来する。猛暑が続けば冷たい物を食べたり涼しいところに行ったりするのは本能で、夏休みには避暑に出かけるのがだいたいの子どもを持った家族の行動だ。遠くに出かけずとも、近くに手頃な場所があるのは幸いで、先日起こった静岡での電気柵による感電死、そんな行動に水を差すような理不尽な事故で、どこに危険が潜んでいるのかわからないことを改めて思い知らせた。そんな水辺の事故で言えば、昔家内が働いていた会社でのことを思い出す。たまに家内はその事件を思い出すらしく、今日もその話になった。夏休みになると思い出すのだ。その会社には、気性の強い、ぶっきら棒な年上の女性がいた。最初の頃、家内はよくいじめられたらしい。旦那さんは大工で、子どもは高校と大学の男子ふたりという家族だ。夏休みに入ってすぐ、ちょうど今頃の季節か、会社に電話があって、その女性が呼び出された。高校生の息子さんが琵琶湖で水死したというのだ。その女性は信じなかった。琵琶湖に行くと言って出かけたのではないからだ。宇治のプールに友人と行ったはずで、琵琶湖で死ぬとはきっと人違いだ。そう思ったのだが、警察は確かだと言う。それで血相を変えて帰宅した。息子さんは宇治に行くつもりが、急きょ琵琶湖になったらしい。そして水に入ってすぐに死んだ。それからその母親は人が変わったように家内に優しくなったそうで、筆者と家内との間に息子がひとりしかいないことを心配し、もうひとり産んでおくようによく言われたらしい。それから数年後に会社が倒産し、建物は別の人の所有物になって家内は別のところに働きに行くようになったが、息子さんを失くした女性はその後ほどなくして亡くなったとの報せが、同じ会社の別の人から連絡があった。死因はわからないが、踏切で死んだので、自殺であったかもしれない。あまりに呆気ないその女性の死に、筆者も驚いた。写真でもあれば顔がわかるのだが、家内に言わせると日本人形のような美女で、そういうきれいな顔立ちであるのに、一言すればヤンキー育ちで、そのギャップが面白かったそうだ。家内は人が変わったように家内に優しくなってからのその女性の思い出を大事にし、それ以前にきついことを言われたことは思い出さないようだ。死者を悪く言うのは悪趣味で、なるべくいいことだけを思い出すべきだろう。そうしたところで死者にはわからないが、筆者は家内から聞いたことだけでその女性のことをいろいろと想像し、面白い人物であったように考える。夫が大工さんで、自治会では当然のごとく、体育振興委員を長年やっていたらしい。そして、人がよく集まり、そのたびにビールを出すので、かなりの出費であったらしい。もちろんそんなことをその女性は笑いながら話すのだが、そのように同じ自治会の住民の溜まり場のようであった家が、息子さんが亡くなり、数年後にその母親もあの世に行ってからは、もうその家に出入りする近隣の住民はぱたりといなくなったろう。そうそう、確かその奥さんが亡くなる前にご主人も死んだ。呆気ないものだ。それを言えば先日感電死した家族も全くそうで、事故死は予期しない時に突然やって来る。
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 それにしても電気柵で囲っていたのはどこにでもある紫陽花で、そんな植物を大切にするのに人間が即死する電気柵を設置することがわからない。鹿がその紫陽花を食べるのだそうだが、野菜を育てて売っているのとは違って、どこにでもある紫陽花ではないか。その花を守るために人間が即死した。残された家族は今後紫陽花が大嫌いになるだろう。また、鹿が先に感電死していれば、電気柵の不備が改められたであろうが、今まで鹿が感電死したことはないのだろうか。電気柵はホームセンターで売っていて、簡単に設置出来るらしいが、今後も同様の事故が起きるだろう。田舎はのんびりしていて安心と思っていると、都会にはない感電死が待ち受けている。大きな悲鳴が聞こえたそうだが、アメリカの電気椅子の死刑の際にも同じような悲鳴が上がるのかどうか。電気椅子は日本には無関係と思っていたのに、電気柵での感電死はもっと酷い。筆者はアウトドア派ではないのでそのような時期に遭う確率は少ないだろうが、家の中にいても死ぬ時は死ぬ。誰にとっても自分がどのようなことで死ぬのかわからないが、自殺の場合はそうではない。新幹線の中で焼身自殺をした人は、それを思いついた時にかなりいいアイデアで内心微笑んだのではないか。もともと抗議のための自殺で、なるべく大きな話題になる方がよい。ところが、肝心の年金が少ないという抗議の理由は、ほとんど話題にならなかった。それどころか、若者は充分もらっているではないかと考える者が少なくなかった。年金があるだけましで、江戸時代の人たちはどうのように老後を暮らしたか。寿命が短かったが、粗食で却って長生きするし、そういう人は粗食であるからあまり家族から厄介者扱いされないかと言えば、『楢山節考』の物語では生き過ぎた親を山に捨てに行く。親も充分生きたのでそうされても文句を言わない。江戸時代はそれほど貧しかったかと言えば、貧富の差があるのは今も昔も同じで、あるところには今で言う億単位の金があった。その一方で行き倒れて餓死する人もあって、江戸末期にはそういう人が増えて米蔵の打ち壊しが頻発する。どうせ飢えて死ぬなら、金持ちから米を奪うというのは当然だろう。それに米蔵を持っている連中は、餓死者が多く出ると米の価格が上がるので、なおさら売り惜しみする。金のためには他者がどれだけ多く死んでもかまわないと考える連中がいることは、江戸時代も今も同じだ。それでも法律に反しているのではないので本人は罰せられることはないと高をくくっている。人間としてどうかという道徳がそういう連中には通用しない。それでも人生は短いから、そのうちそういう人も死ぬ。どうせ死ぬのであるから、莫大な金は全部使い切ればいいのにと思うのは貧乏人の発想で、大金を残して死ぬことが美徳であり名誉であると金持ちは信じている。そういう人でも家族があって、死ねばそれなりに悲しまれる。そしていいことだけを思い出してやろうと言う人もある。面白くないことを書いている。その自覚があるから、話題をここらで変える。そういう場合に便利なのは、写真の説明をすることだ。今日の写真は去年の今日、7月23日の撮影だが、ゴミ回収車が写っている。付近の住民がちょうど工事現場の車がやがて出入りすることになる場所にゴミを出す。現在は4枚目の写真で言えば、少し場所が移動し、パッカー車が停まっている背後にゴミ袋が出される。だが、それもマンションが建つまでの間だ。高級分譲マンションであるから、付近の住民が自分たちのマンションの前にゴミを置いてもらっては大迷惑だと言うに決まっている。それで言えることは、誰も住んでいない場所があると、そこがゴミ捨て場に利用されることだ。文句が出るまでそのようにされる。みんな自分の家の前に出すことは嫌なのだ。
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 ゴミで思い出した。先日家内と松ヶ崎の工芸繊維大学の資料館に展覧会を見に行った。家内と行くのは初めてだ。地図で確認し出かけたはずなのに、いつものごとく道を間違い、数百メートルから1キロほど多めに歩いた。だが、そのために初めて歩く道を経験し、それなりに思うところがあった。松ヶ崎は医者や弁護士、大学の先生が多く住む地域で、筆者はその日まともに初めて歩いた。以前同大学に展覧会を見に行った時は車で門の前まで送ってもらい、帰りは東に歩いて賀茂川に出た。今回は同大学の北から西をたっぷり迷って歩き、大きな家、屋敷をたくさん見た。印象に残ったのは、同大学の南西角の門から西へ真っ直ぐ続く長い道を歩いた時のことだ。その日はゴミの回収が遅かったのか、午後3時頃でもまだあちこちゴミ袋が出ていた。京都は分別回収をしているが、その日は瓶類の回収日であった。とある屋敷の前の電柱際に出されていたゴミ袋は、中に酒の瓶が20本ほど入っていて、そのどれもが筆者が知らない銘柄のシャンパンやワイン、ウィスキーなどであった。透明な袋なので、丸わかりなのだが、どれもいかにも高級そうで、そのことを家内に言った。高級住宅地ではゴミまで高級に見える。それは当然で、貧しい人とは違う食生活をしている。だが、筆者は羨ましくはない。あまり食べることに興味がないからと言えば聞こえがいいが、収入のない者が食べ物に文句を言う資格はないと思っている。それでも猛暑の季節になると、毎夕ビール1缶は飲みたい。発泡酒で充分なので、まあ100円程度だ。松ヶ崎の住民からは笑われそうだが、まあ仕方がない。先に書いた家内と同じ職場にいた女性は、ご主人と一緒に毎晩ビールを飲み、自治会の人が集まればまた飲むという生活であったのに、死んでしまえばビールも飲めない。そう思うとビールくらいけちらずに毎晩飲めばいいが、なければないで平気なので、やはり飲食にあまり関心がない。最近は御馳走と呼ばれるものを想像しただけで、それが毒に思える。だが、粗食を好んでいると、長生きし、さりとて姥捨て山はないから、家の中であれこれ夢想し、ある日死んでしたということになりかねない。あるいはそれはまだましで、年金の少なさに次第に耐えられず、どうせ死ぬなら世間を驚かせてやろうとばかりに目立つ自殺を企てるようになっているかもしれない。脆いようでいて剛に出来ているのが人間で、新幹線で焼身自殺した男性は、そうとう意志が強かった。世間の抗議もあったのだろうが、生きていてももう面白くなくなったのだ。それは年金の少なさが最大の理由だろうが、それだけではない、もう先が見え、どっち道何も変わらぬまま死を迎えることがわかったのだ。それは老人特有の精神の病で、筆者がそうならないとは言えないが、今のところは身も心も剛に出来ていて、やりたいことはまだまだある。ただし、そんなことを思っている人が、水死したり感電死したりする。
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by uuuzen | 2015-07-23 23:59 | ●駅前の変化
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