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●切株の履歴書、その7
み尽くせない豊かさがあるだろうか。いくらでも水が湧くような泉でもいつかは涸れる。そう言えば枳殻邸に井戸があった。家内は危ないので近寄らないと言ったが、そっと中を見た。



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深さ1メートルもなく、土で埋められていた。井戸としての用をなさなくなったか、不要になったので埋めたのだろうが、水が湧かなくなったからではないか。人間で言えば意欲だ。家内の姉が最近厭世的な言葉をよく口にする。老化の証拠かもしれないが、誰でもそうではない。これもそう言えばだが、今朝神戸のある染色作家から電話があった。2年ぶりほどか、一方的だが話は弾み、15分ほど話した。もっぱら相手ばかりだ。年齢を訊くと78歳で、家内の姉と同じだが、とても元気で、作品製作に余念がなく、毎日充実していると言う。そして昔筆者にいろいろとお世話になったので、手持ちの白生地を送ると言われた。これは「贈る」の意味で、筆者は「いくらですか」とは訊かなかった。数反あるらしいが、もうキモノを染めることはないので、筆者に使ってほしいとのことだ。残り少ない人生になると、処分しておきたいものが見えて来る。誰でも長生きすると多くの所有物に囲まれる。死ねばほとんどゴミになるので、価値がわかる人に役立ててもらいたい。たいていの人はそう考えるだろう。電話口で筆者もたくさん物を持っているので、ぼつぼつそれらを手放して行かねばならないと言うと、まだまだ若いのでその心配はないと言われた。だが、60代で死ぬ人はよくある。まさか自分はそんなに早く死なないと思っていてもどうなるかわからない。とはいえ、その心配をするあまり、持ち物を整理し始めると、死期が近くなると、筆者が子どもの頃に聞いたことがある。そのため、筆者はあまり整理整頓をしなくなったと言えば何となく理解させそうだが、実際は単なるずぼらで、筆者はあまりどころかほとんど整理整頓をしない。毎日のように本や資料がないと騒いでは、図書館に行くか、新たに買うかするが、その後でひょいと探していたものが出て来る。家内は筆者が死ねば所有物のことが全くわからないので、死ぬ前に全部処分してほしいと口うるさいが、いつ死ぬかわからないし、またきれいに処分した途端に死にそうで、きっとずっと今のままだろう。それに、他人にもらってもらっても喜ばれるもはさしてない。物とはそういうものだ。何だが言葉がごろごろと重なっている。今日はもう長文を書く気力がないので、ヤフーのマイ・ボックスに保存している写真を順に眺め、3か月ぶりで「切株の履歴書」と題して書く。写真を3枚にすれば段落はふたつで済むが、あまり面白くない写真を選んだ。切株の写真で面白いものがあるはずがないが、特に面白くないものだ。切株は残酷なもので、木にすれば首切りと同じだ。ひこばえによって再生することもあるが、たいていは切株のまま死んでしまう。また、そうさせるために切株にしてしまうが、そこで思い出すのは牛や豚の屠殺だ。人間が利用するためには木を伐採し、家畜を屠らねばならない。そのことを人間はほとんど何とも思わないが、切られる木や殺される家畜はたまらない。とはいえ、ではどうすべきかとなると、人間が生きて行くためには仕方がない。人間は汲み尽くせない存在であるべきだとの理由だ。だが、人間のために絶滅危惧種が増加し、何事もすべて汲み尽くせない存在であることは出来ないことを人間は知っている。そして、そのうち人間も涸れることも知っている。あるいは、人間ではない動物になって生き長らえるかだが、たぶんそうなのだろう。そうして登場した新しい人類は相変わらず木を伐採し、家畜を屠るだろうか。それとも、現在の人類を飼って、動物園で鑑賞するか。
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 こうして書いていて浮かんで来たイメージがある。今日は雨の中、家内と梅津に買い物に行った。筆者の自転車はまた後輪がパンクし、それを修理していないので乗れない。それに雨の降らなかった午後3時までは筆者は多忙であった。また、たまには歩くのもいいから、雨でも出かけることにした。松尾橋に差しかかって驚いたが、河川敷に大量のゴミある。バーベキューなど、若者がたくさん集まって食べ散らかしたのだ。だが、今日ほどゴミが広範囲にしかも多く散らばっているのは初めてだ。それを見ながら、楽しみに興じる若者たちの姿を想像した。それはいい。だが、ゴミをそのままにするとは何事か。心が痛まないか。うんざりした気分になったが、昔の人はそういう連中が死んだ後は六道の餓鬼や畜生に落ちると考えてうさを晴らしたのだろう。人間はして来たことの履歴が天に記録されると思っておくのがよいし、昔はそのように大人に教えられた。誰も見ていないと思っても、ちゃんとお日様は見ているという考えだ。ところが、そういうことをわざわざ口にする大人こそ実際はいかがわしいと見られる世の中になって来た。それでも天に唾を吐けば自分の顔に降りかかるのは事実で、誰も見ていなくても見られているという意識は大事だろう。ただしそれも認知症になれば忘れられる。ということは、ゴミを散乱させたまま帰る若者たちは認知症ということで、そう思えば腹も立たないが、散らかったゴミは誰かが片づけなければならない。認知症になれば自分の家の中をゴミ溜めにして平気ということになるが、ならば筆者も認知症の一歩手前で、ゴミ散乱の若者と変わらない。そのことは、このゴミのような文章からも言える。書き散らして平気というのは重症の認知症かもしれない。汲み尽くせないほど毎日書くことが次々と湧いて来ることは、見かけは歓迎すべき、賛美されるべきことのようだが、本当のところはそれだけのエネルギーがあるだけのことで、生きていることはとりあえず「汲み尽くせない」状態ではある。そう思わねば楽しく生きていられない。さて今日の切株の写真、最初の2枚は桜の林で今年3月か4月に撮った。どちらも桜の木で、最初のは危ないので切株にされてしまった。2年ほど前から身長ほどの背丈に枯れてしまい、いつ倒れてもおかしくない状態であった。その憐れな木は筆者が嵐山に来た頃は立派で、写生を何度もしたことがある。それから30年では枯れてもおかしくない。それに無残な姿でいつまでも立っていては気が滅入る。首切りのように根元からばっさりと切られる方がよい。写真からわかるように、内部は腐ってぼろぼろだ。人間で言えば癌か極度の認知症か。2枚目は何年も前に切株にされた。それだけならまだしも、内部に大きな石を詰め込んである。これは酷い。死んだ切株なので、どのように悪戯してもいいようなものだが、切株にもそれなりの尊厳があろう。虫歯に食べカスを詰め込んだようにするのは趣味があまりに悪い。だが、無邪気な子どもがしたかもしれない。絶対に男だ。穴に詰め物をするのは男の本能だ。それはさておき、この切株内の石が無残に思えるならば、取り除けばいいが、周囲にその石を放置する適当な場所がない。ということは、わざわざ運んで来て詰めたものだ。穴が開いていてはつまずいて危ないと思われたか。まさか。河川敷のゴミ放置野郎と同じで、餓鬼、畜生の仕業だ。3枚目の写真は奈良の不退寺に行く途中に入ったレストランの座席から撮った。最大ズームにしてどうにか切株の平らな部分が収まった。これは街路樹で、どの木も高さ2.5メートルほどの高さに切り揃えられていた。それ以上伸びると電線を邪魔すると考えられたようだ。半分ほどの木は長い切株状態になっていたが、写真のものは脇から出た枝が葉をつけていた。だが、それが伸びるとまた同じ高さで切られるだろう。2.5メートル以上に伸びない切株状の街路樹で、それはそれで見物かもしれない。それでも2.5メートルで幹も枝も水平に切り揃えられる並木というのは、イスラム国の兵士が捕虜を並べて一斉に斬首する光景を連想させ、気持ちのいいものでは全くない。それでも木は内部に生きるエネルギーを抱く限りはまた枝を伸ばし、葉をつける。そんな汲み尽くせない力はわが家の裏庭の合歓木で見事に見られる。人間も死ぬまで生きるから、せめて同じように見事でありたいが、合歓木の葉や枝の著しい繁茂を見事とは思わず、迷惑だと見る向きがあるし、それは筆者のこうした駄文も同じことだ。河川敷のゴミの散乱と変わらないような行為はしたくないが、さりとて他人の思いを左右することも出来ない。一丁上がり!
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by uuuzen | 2015-06-11 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
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