●嵐山駅前の変化、その366(自転車道路)
段のとおりに事が運ぶとは限らない。それがわかっているので、より算段を尽くすが、そう先々のことまで考えても仕方がないので、人によって算段の考えが違う。そこで算段とは無縁の賭けに熱中する者がいる。



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長い目で見れば絶対に損することがわかっているが、ごく短い間であれば、得したままで足を洗うことが出来る。だが、そう考える人は最初から賭けをしない。先ほどTVで元力士が相変わらずギャンブル依存症だと診断されていて、どんな病でも重くなれば完治しないことを納得させた。その元力士はこれまで5億円ほどを賭け事で費やしたそうだが、その分アドレナリンがほとばしって快感が得られたのであるから、本人は残念には思わないのだろう。そうであるからまた手を染める。誰でも何かひとつくらいは依存症に近いことがあると思うが、先の力士は父親が2500万円の札束を持って帰ることがれば、また1億円の借金を作るなど、やはりギャンブル依存症で、息子はその血を引いたことになる。だが、父親が大酒飲みであれば子どもはその反対になる場合があって、両親に何もかも似るとは限らない。醜い姿を反面教師とすることがあるからだ。筆者は子どもの頃、よく母親から言われた。父に似れば商売人になると。ところがその気はさっぱりなく、金儲けに関心がない。というより、下手だ。それでもこうして還暦過ぎまで生きて来られたことを、先ほど家内がぽつりと言った。つまり、筆者は妻をせっせと働かせて自分は気楽に生きて来ることを考え通したとのことで、算段が上手ということだ。多少当たっているかもしれない。家内は趣味というものがなく、昔姉に言われたことがある。「郁さんの趣味は大山さんやな」。これは夫依存症ということになるが、この場合、依存して養ってもらうのではなく、その反対にせっせと夫に尽くすことで、たまに家内はそのことに気づいて「嵌められた」と思うようだが、もうお互い60を越えたのでは遅い。ま、そんなことで、筆者は金儲けは下手だが、それなりに算段上手であるかもしれない。この算段のことを夢への旅路と言い代えれば面白い。賭け事の好きな人は、何十億得たとしてもさらにのめり込むだろう。金儲けが第一の目的ではなく、儲けた瞬間の喜びを味わいたいのだ。昨日書いた銅版画家のシュマイサーは、作品を次々に生むことが人生の最大の目的であったのだろう。その作品で有名になり、金をたくさん儲けるということは副次的なことで、まずは納得行く作品を生み出したかった。作家とはそういうものだが、そうでない人も大勢いる。それに、むしろ有名になって金を多く得る作家でなければ作品はつまらないと断言する人もある。それは食べて行くために必死になれば、それだけ破格のエネルギーが作品に付与されがちで、自己満足の呑気さとは違うとの考えによる。家内は筆者のことを後者とは思っていないようだが、さりとて前者では絶対にあり得ないということは、先ほどの言葉からわかる。もっと食べて行くのに必死になってほしいということだ。だが、年々食べる量は減るから、食べることに必死にはなれない。その食べることとは意味が違うのはわかるが、生きて行くのに最も大事なことは文字どおり食べることで、それがとりあえず満たされれば積極的に金儲けしなければという気が起こらない。富士正晴は老齢に近くなるまで金に苦労したが、酒に不自由しないほどに金が入って来るようになった時、すでに老境で、ほしいものはさして何もなく、酒ばかり飲んで70半ばで死んだ。アルコール依存症であったかもしれない。ま、酒に不自由しない晩年を迎えられてよかった。
d0053294_173765.jpg 筆者は何依存症であるか。こうして毎日駄文を書いているので、筆記依存症と傍からは見えるかもしれないが、自分でよくわかっていて、いつでも無理して書いていて、依存症では全くない。何かひとつくらい依存症がなければ他人から面白い奴と思われないが、筆者の物事に対する依存の程度は底が浅い。それでこれからの余生を何か依存するものを見つけてやろうかと思うと、それは無理な話で、若い頃から続けていたことでも辞めて行くのが常識で、暇を持てあましてあくびばかりするようになるかもしれない。従姉の旦那さんは先日書いたように、自転車で遠出したり、市バスであちこち行ったりして、一種の放浪依存症になっているが、それは昔から車で遠出していたことの延長だ。依存は趣味と言い代えてもいいところがある。同じ趣味を持っている者同士は話が弾みやすいが、その同じ趣味にしても幅が広く奥行きもあるので、話が弾みやすいことばかりではない。むしろ意見の相違などでいがみ合う場合もあって、依存、趣味もほどほどにしておく方がいいと思うことがしばしばだ。それで最近筆者がよく思うのは、趣味を持っていてもあまりそれについて喋らないことだ。同じ趣味を持っている人でも対立があるからには、その趣味に無関心な人に話題を出せば迷惑だ。この考えを進めると、誰に対しても自分のことはあまり話すなということになる。これは正しい。それよりも相手の依存しているものや趣味を聞き出すのがよい。そう言えば筆者はそのようにして初対面の人ともよく話す。相手が筆者のことを訊けばそれに答えるが、そうでない場合は押しつけになるので自分の好みの話題を出さない。それはこのブログについても言えるかもしれない。趣味について滔々と語る人は滑稽で、「ああ、深刻な依存症だな」と筆者は内心思う。それでも当人がそれで気分がいいのであるから、文句を言うべきことではない。ギャンブルで5億も使ったと淡々と語る元力士を見ても、「はあ、そうですか」と思うだけで、本人が悔いていなければそれでいい。それに、後悔しても過去はどうにもならない。賭け事に熱心な人は普通の人より算段が出来ないかと言えば、そうも言えるが、算段し尽くしても先のことはどうなるかわからないことも事実で、算段は無意味と考える立場もある。話が堂々巡りになるようで、話題を変える。今日の写真は1年と1日前に撮った。昨日投稿してもよかったが、シュマイサーと自転車道路工事のどちらを優先するかとなれば当然前者だ。この自転車道路に携わった人たちはその後すぐに別の現場に行ったであろう。食べて行くためには働かねばならない。そして、多くの人が利用する目に見えるものが出来上がるのであれば、工事現場で働く人は作家より自惚れてもいい。だが、彼らは芸術家のようには称えられることはなく、いくらでも代わりの人材があって、使い捨て同然に思われてもいる。そして、体を壊すか、仕事がなくなれば、釜ヶ崎のような場所に行く。そこで「釜ヶ崎大学」で自己表現の醍醐味を味わって新しい人生を見出すことは、アルコールやギャンブルの依存症よりかはましだろう。今まで知らなかった世界が見え始めるのはどんなことでもわくわくするものだ。筆者が求めているのはそれかもしれない。
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 算段があって、そのとおりに工事が進み、竣工する。日当がいくらか、材料がどれだけかかるか、そういう細かい算段のうえに工事は成り立っている。そのため、たいていの人は工事に気を配らない。知らない間に工事は始まって終わる。それを定点撮影し続けるのはよほどの依存症だ。このブログのこのカテゴリーは筆者のそういう依存症ぶりを示す。普通の人にとってはどうでもいい工事現場の写真を載せ、それにほぼ無関係なことをこうして書くことは、食べることとはあまりにもかけ離れた行為で、自己満足がはなはだしい。誰も読まなくて当然であり、また読んでも前述したように趣味を共有する人同士でも話が合うとは限らないことから、必ずしも好意的に読んでもらえることはない。工事現場は目障りなものだ。誰でもそれが早く終わってほしいと思う。その伝で言えば、この投稿は最初からどうでもいいことで、時間と労力の無駄と言えるが、依存症を形容すればそれであって、筆者を作文依存症とみなしていいかもしれない。そしてこうして書きながら、算段をそれなりにしていて、時間と労力を費やして何かを得ようとの思惑はある。それはほとんど自己満足と言ってよいが、ブログというものはだいたいがそうだ。さて、今日の写真を説明すると、最初はこれまでと違って、2枚を左右につないでパノラマにした。その理由は、右手に写る茶色の距離標だ。これは以前の投稿では4枚目すなわち舗装された自転車道路の最終点にあった。今回の工事で道路は150メートルほど延長されたので、それに伴って終点かつ起点を示す標の移動が必要となった。写真からはよくわからないが、この柱の地面に近いところに木津八幡の起点からの距離が黄色で記されている。それを昨日確認すると、45.0kmとなっていた。150メートルほど延長されたのであるから、その分を足さねば正確ではないが、45キロであれば覚えやすい。それに、以前の位置に立っていた時にはその黄色の文字があったのだろうか。その記憶がない。また、「45.0」の上には透明シールが貼られていて、一部剥がれかけている。これは以前の標を移動しただけではなく、新たに文字を入れたのだろう。ともかく、その標を見せたいためにパノラマにしたが、撮影しながら思ったことは、道路の右ではなく、桂川の支流すなわち橋に近い左側になぜ設置しなかったかだ。どちらにも一長一短があるが、橋に近いと紛らわしいと考えられたか。それなりに算段があってなされたことで、筆者以外には誰もそのことは考えなかったであろう。それはそうと、前回まで4枚目に写っていたこの標の柱がそのまま持って来られたかと言えば、サイズや材質は同じようでも、文字が違い、また全体に新しいようで、造り変えたかもしれない。せっかく道路がきれいになったのに、肝心の標を使い回しすることは考えにくい。標1本程度の算段はたやすいものだ。
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by uuuzen | 2015-06-05 23:59 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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