人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●「SUMMERTIME」
は張っておらず、黒人度が100パーセントという顔をしていないので、筆者には今ひとつ印象に強くないエラ・フィッツジェラルドだが、彼女の歌がいいという意見を耳にしたのは30代半ばであった。



●「SUMMERTIME」_d0053294_1473834.jpg

レコードを毎月貸し合いしていた大阪の江見君の奥さんがジャズ・ヴォーカルはエラがいいといったようなことを雑談の中で話した。当時筆者はエラの歌声を知らず、また「ふーん」と思っただけでレコードを買う気にもならなかった。今もそうだが、1枚だけエラの歌声が入っているCDを持っている。それが今日取り上げる『ポーギーとベス』で、エラの歌とルイ・アームストロングのトランペットと歌がフィーチャーされている。LPでは2枚組で出たものをCDでは1枚に収めている。日本での発売は1987年で、筆者が買ったのは10数年前と思う。『ポーギーとベス』はこれとは別にマイルス・デイヴィスとギル・エヴァンスのものを持っているが、前者は1957年、後者は58年の発売で、2作とも年代を感じさせない。聴き比べると同時代に全く違うジャズがあったことがよくわかる。もちろんどちらも作曲者ガーシュンの曲のアレンジで、その妙が楽しいということになる。エラとルイのは名盤で、これ以上のアルバムはもう生まれないだろう。とはいえ、筆者はオペラの『ポーギーとベス』を通して聴いたことがない。エラとルイの盤は、オペラで言うアリアのみまとめたもので、「序曲」を除いて14曲が収められているが、オペラに登場する順ではない。この点はマイルスの盤も同様だ。CDの解説はどちらも青木啓が書いていて、エラとルイの盤(以下、本作)では簡単にオペラの筋書きもある。それからかいつまんで書くと、物語の舞台はサウス・カロライナ州のチャールストンの黒人居住地区だ。当然貧しい人々の物語で、切った張ったの生活が描かれる。原作の小説はチャールトン生まれのデュボース・ヘイワードで、最初から作家ではなく、他の職業をいくつか携わった。『ポーギーとベス』は1925年に出版され、ガーシュインは翌年に読んで早速オペラ化を申し込んだ。そして多忙な年月が過ぎた1933年にチャールストンに行って2週間滞在、翌年再訪して長期滞在することで、黒人の生活その他を深く知る努力をした。オペラの台本はヘイワードが書き、全3幕9場として1935年に完成したが、あまり成功しなかった。1937年にガーシュインは死に、その後再評価され、彼の最高傑作と言われるようになった。1959年に映画化もされたが、YOUTUBEで見ることが出来る。オペラは長いので、本作のように語り抜きの歌だけのものが聴きやすい。LP2枚では盤を引っくり返したり、取り替えたりする手間があるが、CDではそれがないのでさらに聴きやすい。そして本作は聴くほどに名作であることを痛感するが、その魅力を一言すれば、エラとルイの歌声にある。特に後者は温かみが強く、この悲しい物語を活力のあるものにしている。エラの声はとても洗練され、またきれいで、黒人らしくない。そのため、いいのはいいが、筆者にはやはり印象に残りにくい。アクのようなものがないからだが、これは彼女の歌をもっとたくさん聴くとわかるものなのだろう。一方のルイの声は誰でもよく知っているもので、それほどに個性が強いが、その彼がこのオペラに登場する男の歌を引き受ける。それはポーギーだけはないが、本作で最も印象的なのは最後に収録される「おお主よ、私は祈りの道を」で、これはポーギーが誘惑されて男とニューヨークに行ってしまったベスを追いかけることを決心する時の曲で、オペラでは第3幕第3場すなわち大詰めで歌われる。解説を読んでびっくりするのは、ポーギーは「いざり」であることだ。そのため、ベスをニューヨークまで追いかけるのは、山羊に引かせた荷車に乗ってのことで、その様子を想像すると、滑稽やら悲しいやらで、無事にニューヨークに着くことすら疑わしい。ところがこの曲はとても陽気で、ルイの歌声であるのでなおさらそれが強調される。去った女を這ってでも追いかける。そのことを決めたからには前進あるのみで、勇気を振り絞るという感じだ。そのポーギーの姿に観客は何が大切かを知る。
ポーギーが歌う第2幕第1場の「俺らはないものだらけ」も同様で、車も騾馬もないが、物をたくさん持っている連中がドアに鍵をかけて心配するのに対して、自分は女はいるし、歌もあるので一日中天国で不平はないと歌う。経済的には最下層の暮らしでも、満たされているというこの思想は現在の日本では受け入れられるだろうか。釜ヶ崎に住む無職の人たちは生活保護があるので、どうにか食べることは出来るが、本作のポーギーやベスは掘立小屋でその日暮らしだ。今時の日本でそれがあまりに非現実的だと思う人は想像力が足りない。ガーシュインはアメリカ的な音楽を書こうとして、黒人の音楽を研究したが、それはヨーロッパにないものを考えれば当然の結果と言える。本作のオーケストラを率いるラッセル・ガルシアが、ガーシュインのオペラとしての作曲を本作用にどのように編曲したか知らないが、エラとルイの本作を聴くことなく世を去ったガーシュインが本作を聴くと、絶賛したのではないかと思う。ラッセルは1956年に『ポーギーとベス』のジャズ・ヴォーカルによる完全版を編曲し、本作で売れっ子のエラとルイを起用したが、本作でルイはトランペットを吹いているので、56年の完全版とはその点も含めて違いがあるのではないだろうか。それはともかく、本作はガーシュインの楽譜のよき部分を全部使いながら、より色鮮やかにしたものであるはずで、ガーシュインは黒人音楽の本質をよく理解していた。そうであるから彼の代表作と言われ、また本作の中で最も有名は「サマータイム」は数多くのミュージシャンによって演奏されて来ている。この曲があまりに有名で、『ポーギーとベス』をよく知らない人が多いと思うが、この曲以外に名曲がいくつかある。そのひとつは先日「ST.JAMES INFIRMARY」で触れた「IT AIN‘T NECESSARILY SO」(そうとは限らない)で、この2曲をザッパはつないでギター・ソロ曲として発表している。本作でそのほかに筆者が好きな曲は、悲しい響きだが、「MY MAN’S GONE NOW」で、この題名が歌詞の内容をそっくり表わしている。当然エラが歌っている。もう1曲挙げれば「A WOMAN IS A SOMETIME THING」で、ルイが軽快に歌う。本作を最初から順に聴くと、曲の配置がなかなかうまく考えられていることに気づく。アルバムとしての起伏を考えてオペラとは違う順にしたのだろう。ただし、だいたいはオペラ順で、LPという制約から違う順になったことも考えられる。あるいは、曲調に変化を持たせるためにわざと順序を少し入れ換えたか。ガーシュインは物語にしたがって作曲したから、曲順に関しては半ば仕方がないと思っていたところがあったかもしれない。つまり、アルバムとして収録するには、ある程度曲順を変更してもいいということだ。
「サマータイム」を意識して聴いた最初は20歳前後であった。誰の歌か忘れたが、聴き取りやすく、歌詞を書き留めると貧しい黒人の子守歌であることがわかった。それでなお記憶に留めることになった。ガーシュインの天才ぶりがうかがえるが、チャールストンに滞在し、あるいはそれ以前から黒人の歌をたくさん採譜していたはずで、それらが着想の源になったのは間違いがない。この曲は「時には母のない子のように(SOMETIME I FEEL LIKE A MOTHERLESS CHILD)」を参考にしたと言われ、確かに似たところがある。「時には…」は60年代末期に日本のカルメン・マキが歌って大ヒットさせた曲の題名と同じだが、歌詞もメロディも別物だ。そのことは当時から言われていて、筆者も知っていた。そして題名は黒人霊歌から取ったものであることも知っていたが、その曲を実際に聴いたのはずっと後のことで、またその時はそれがガーシュインの「サマータイム」にヒントを与えたことは知らなかった。今聴き比べると、ガーシュインの曲は色気が強く、「時には…」は悲しさが強い。色気が強いということは、それだけ流行になりやすく、多くの人に知られる何かが大きいということで、これはガーシュインの才能に帰結する。流行になりやすいと書けば、俗受けするとの意味に取られるかもしれないが、そうとは限らない。ジーザスがスーパー・スターであるというミュージカルがアメリカで流行ったが、それと同じで、普遍的な価値を持つものは、それ相応の目立つ色気があるからで、その素質は生まれながらにして持つものだ。ガーシュインという才能は、過去の黒人の曲をいろいろと参考にしながら、『ポーギーとベス』を書き、そしてその中で「サマータイム」を最も有名な曲とすることが出来た。これは同じように他の作曲家が「時には母のない子のように」を参考にしても、「サマータイム」を書き得ないということだが、では「サマータイム」が「時には…」を越えたかと言えば、それはない。ガーシュインもそのようには思わなかったであろう。「時には…」の歌詞に込められた悲しみはガーシュインには想像するだけのものだ。またそうであれば黒人に限りなく同情こそすれ、彼らの魂の叫びとしての霊歌を剽窃しようなどとはよもや思わなかったはずで、「時には…」を敬いながら、「サマータイム」のメロディを序曲とする『ポーギーとベス』をブロードウェイで成功させ、そのことによって自分たちの経済的成功だけではなく、黒人の生活や置かれている位置を広く世間に知らせたいと考えたのであろう。そこには歌詞を書いた2歳年長のアイラ・ガーシュイとヘイワードの力があったが、白人3人が黒人の社会を描いたオペラが世界的人気を得た一方で、本作がエラやルイの存在抜きではあり得ないことを思えば、アメリカでは白人と黒人が両輪となって黒人の芸術を高めているように思える。ただし、ルイは常に笑顔を絶やさず、それが白人社会で生き抜くための一種の卑屈な仮面で、そこにルイの悲しみを見るといった意見があり、そのことからすれば、本作を絶賛しない黒人はいるかもしれない。そこで思い出すのがたとえばボビー・ブランドで、彼はどこまで白人を信用していたのかと思う。また、白人は黒人が生み出す音楽を常に横取りして大儲けすると考えるミュージシャンはいて、今でもアメリカでは白人と黒人は融和し切っておらず、これからもそうだろう。それでガーシュインは日本で言えばどのような人物かと思えば、たとえば朝鮮や沖縄の芸術を称えた柳宗悦に近いかもしれない。また、アメリカの音楽家で言えば、ザッパも黒人の音楽がなくては活動出来なかったし、黒人も白人から学んでいるところがあって、廃仏棄釈と同じく、白と黒を分けることは無理だ。つまり、「サマータイム」は白人と黒人の区別なく、アメリカの芸術ということだ。
by uuuzen | 2015-05-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
●嵐山駅前の変化、その365(... >> << ●不退寺への道は退くな、その5

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?