●不退寺への道は退くな、その4
気野郎(ばっきやろう)という言葉は筆者が20代半ばに考え出した。「馬鹿野郎」では生過ぎて面白くないからだ。「曝気」という言葉は下水道処理施設で使う。



d0053294_1491618.jpg学生時代か設計会社に勤務していた頃か忘れたが、下水処理場を見学したことがある。それがどこであったか記憶にない。大阪鳥飼の新幹線車庫基地の下水処理施設を見学した時であったかもしれない。それはどうでもいいが、下水をきれいにして川に流すには、いくつかの沈殿漕をくぐって汚泥を除去する必要がある。下水漕の中に空気を送り込んで汚泥の沈殿を促すことを曝気と呼ぶが、この言葉はほかに使い道があるのか、それとも下水処理が始まって考え出されたものだろうか。「ばっき」から連想するのは「馬鹿野郎」で、その語呂は、馬鹿な奴が下水のようであるとの意味合いを込めている。つまり、汚泥のように近寄りたくない連中を心の中で罵る時、筆者は「ばっきやろう」と呟き、同時に曝気漕を思い出す。今日はなぜこんな話から書くかと言えば、ひとつには昨日の投稿との関連だ。鳥羽伏見の戦いで兵士の死体があったであろう上鳥羽の桂川畔にある下水処理場は、そういう場所としてしか使えないような、あるいはそういう場所として使うには最適であると考えれて建てられたであろう。昨夜書くのを忘れたが、「蹴上のつつじ」のチラシの下3分の1はウェスティン都ホテルの「つつじカレービュッフェランチ」のきれいな写真つきの広告になっている。「鳥羽の藤」のチラシとは大違いだ。これは浄水場と下水処理場の差をよく示しているし、それは土地柄の差でもある。蹴上は歴史のある有名ホテルがあって、近くの浄水場のつつじを鑑賞してもらった後は、ぜひホテルで食事をということで、どちらが目当てか知らないが、つつじとホテルが対になって毎年訪れる人もいるだろう。一方、鳥羽となれば工場か田畑がほとんど占める殺風景な地域で、もちろんホテルはない。そうなったのは、土地柄の違いとして、その土地柄は浄水場と下水処理場が出来てそうなったのではなく、もっと以前から具わっていたものだ。そして、それは後の世代になってもよほどのことがない限り消えないもので、蹴上には浄水場、上鳥羽には下水処理場が造られるようになった。もっとも、その理由は簡単で、蹴上は琵琶湖から導いた疏水があって、そこで飲料水を作るのは理にかなっている。鳥羽は桂川のかなり下流で、洛中から発生した汚水を処理するのにつごうがよい。この下水処理場のさらに南が伏見であるから、伏見は京都市であっても洛中とは無関係な土地ということが出来る。鳥羽伏見の戦いで兵士が衝突し、戦った千本通りは、そこであれば京都の住民になるべく迷惑がかからないとの思いが新政府軍と幕府との間でそれなりに共有されていたためであろう。その思いは昭和になって下水処理場を造る計画にも反映されたはずで、京都の中にあってもあまり近寄りたくない場所という空気を発散している。そのため、曝気野郎な土地との思いが多くの京都市民の中にあるかもしれないが、曝気は下水をきれいにするためにはなくてはならないもので、昨日書いた会津の兵士の死体を始末して埋葬した会津小鉄のように、世間では博徒と呼ばれてはみ出したやくざ者もそれなりに必要であった。浄水場があれば下水処理場が必要で、これは光と影のようなものだ。人間が生きることはあらゆるものを汚すことで、それをきれいにする役割は欠かせない。そして誰しも後者の行為は面倒と思うから、なるべく汚さないことだ。ところが、身分に関係なく、ひどく汚して平気という曝気野郎がいつの時代にもいる。たとえば今大きな事件になっているFIFAの幹部たちだ。そういう連中を曝気漕に放り込んで汚泥と一緒くたにしてやりたいと思う人は少なくないだろう。とにかく、大金が動くところでは汚いことが行なわれる。
d0053294_1493348.jpg 昨日の続きで一段落させるが、今日の投稿と関係のない話ではない。その話の前に「その3」の写真を説明しておくと、2枚目は門前の道が樹木のトンネルになっているのが面白くて撮ったが、シャッターを急いだ。門の光の中に老いた男性の姿が動いていたからだ。写真からは蟻のようなその人影が見えている。これは住持で、70代後半か80代で、足腰が弱っているようで、歩行器に頼っていた。本堂内部や門を入ってすぐ左の受付の前で、合計15分ほど話したろうか。なかなか話が楽しく、いつまでも雑談出来るような面白い住持だ。本堂内部の拝観もいいが、この人物と話が出来るのがとても思い出深いことになるはずだ。筆者らが訪れていた間、他の拝観者はなく、それほどに鄙びていて、観光だけでは経営が困難であろう。堂内は撮影禁止で、また受付で1000円で販売されていた冊子の写真も転載を禁ずると断りがあったが、住持ひとりと受付の40代らしき女性のふたりのみでは、堂内の仏像などのケータイによる撮影をすべて未然に防ぐことは無理だろう。また、そうして撮影された画像がネットに出たりしたので、撮影禁止を厳格にしたのかもしれない。この寺の見物は、堂内の仏像のみと言ってよいほどで、それがネットに出れば訪れる人は減る。そういうことをみんなが理解すべきで、どうしても仏像その他の写真をほしいのであれば冊子を買うことだ。受付窓口のすぐ下に1枚の貼紙があって、先ごろ賑わした油が奈良京都の寺社に撒かれた事件について注意を促していた。住持や受付の女性とその話題になった時、住持は「そういうことをする人は必ず自分に返って来ます」と言われたが、バチ当たりな人間が増えて来ていることへの嘆きが込められていた。それから話は、筆者が去年の5月下旬に寺を訪れたが、閉門30分前なので拝観せずに帰ったことになったところ、住持は閉門時間の30分前にはいつも閉めるとのことで、その理由は、「遅くやって来る者にはろくな人間はいない」で、それにつけ加えて、「早起きは三文の得と言われるが、あれは嘘で、早く起きてもいいことなどないし、早くやって来る者もろくな奴はおらん」と元気な声で話された。それを聞きながら、筆者の脳裏に「曝気野郎」の言葉と下水処理場が思い浮かんでいたが、それには別の理由もある。受付の女性はそこに留まっている必要があるので、拝観者があるたびに住持は本堂内部の仏像などを説明する。まず、本堂に向かって左手奥にある石棺を見るようにと言われるが、順路の立て札にしたがって歩くと自然とそうなる。石棺の写真は「その3」の4枚目に載せた。これは発掘で出て来たもので、8世紀のものであったと思う。住持によれば不退寺の範囲は現在よりもっと広大で、現在の門は中門で、もっと南に大きな門があったのではないかとのことで、そのとおりだろう。堂内の須弥壇には、中央に2メートルほどの高さの聖観音立像があり、その両側に五大明王像が居並ぶが、どれもわずかに彩色が残っている。観音像と五大明王像はちぐはぐな印象が強く、住持は後者はそれのみを祀る別の場所にあったものであろうとのことだ。6体とも重文で、後者の5体は左右対称性が強く、静的な造形で、筆者が最も感心したのは、牛に乗る大威徳明王像だ。明王もいいが、牛の造形がとてもよかった。堂内中央の扉前に住持は陣取ってまるで録音テープのような決まり切った説明を大きな声で述べ始め、それが1分ほどで終わると、後は鑑賞者は堂内を自由に見ることになるが、その間、住持撮影するような曝気野郎ではないかどうかを腕組みしながら背後で監視し続ける。その無言の圧力を感じながらも筆者は平気で、いろいろと質問した。右手奥に涅槃図がかかっていて、その時代を訊くと、江戸時代とのことで、何だかありがたみが一気に萎む。この涅槃図と対になるような須弥壇左奥の暗がりには、在原業平を描いた小さな着色像があるが、光が乏しいので表情はわかりにくい。それをもどかしく思っていたところ、帰りがけに受付で1000円の冊子を繙くと、そこに鮮明な写真が出ていた。いつ描かれたものか知らないが、平安時代ではないだろう。左手背後にはガラスケースがあって、秋里籬島の有名な『大和名所図会』の不退寺のページが広げられていたが、これも江戸時代のものでありがたみはない。そのほか、有名かどうか知らないが、歌人から寄贈された和歌を詠んだ掛軸や、観音の顔をローケツで染めた額絵などもおまけのようなものだ。
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 ガラスの陳列ケース内部には多宝塔の残片があって、その多宝塔はもうないのかと住持に訊くと、廃仏棄釈の折りにでも壊されたのか、今は1階部分のみの形となってすぐそこにあるとの返事で、本堂内部を出て今度はそれを見に行った。とはいえ、本堂のすぐ右手南で、木立に半ば隠れて建っている。木立で言えば、この寺はかなり樹木が密集している。筆者はたまたま今手元に1969年の奈良と京都の寺社を案内する本を手元で開いていて、そこに載る本堂を正面から撮った写真は、「その3」の3枚目とは樹木のみが大きく違う。半世紀ほど前は本堂背後にはほとんど木がなく、空が広がっている。本堂前の小さな植え込みも半世紀でかなり増えた。新緑の季節であるからなおさらそのようになっているのかもしれないし、また植木職人に頻繁に手入れさせるほどに裕福ではないからとも考えられる。多宝塔の脇には業平の歌を彫った石碑がいくつかあって、それを順に見ると塔の奥に導かれ、裏手を通って本堂右手に出て来るが、手入れはあまりなされず、蜘蛛の巣や藪蚊が多い。それに塔の東奥や本堂の北奥はすぐに雑木林となっていて、踏み込むことが出来ない。そのため本堂前の小さな池のある庭を巡るしかない。それほど境内が小さいが、雑木林は寺の領域であるし、それは創建時はもっと広大であったはずだ。受付前で住持と話をしていると、南に面した門の蟇股に目が行くが、これは鎌倉期のもので、室町時代に造られた多宝塔より古い。本堂はもっと新しいだろう。9世紀半ばの創建時の遺品はなく、前述の仏像は平安前期のものだ。在原業平がどう関係するかを手元の書からまとめると、平安京に都が移った後、平城天皇が退位後に営んだ萱の御所を、皇子の阿呆親王と皇孫の在原業平が、847年に寺として聖観音立像を安置し、不退転法輪寺と称したとのことだ。本堂内部から出ようとする時、東寄りの扉前に小さな台があって、そこにチラシが数十枚重ねられていた。堂内で住持から耳にしたが、奈良市は新しくゴミ焼却場を中川寺跡を含む範囲に建てる計画があるらしい。チラシはそれに反対するもので、表は浄瑠璃寺の門前からの写真で、背後の山から白い煙が上がっている。合成写真で、焼却場が出来れば境内からそのような煙が見えるとの予想だ。この焼却場は浄瑠璃寺南方380メートルで、それほどに奈良は場所の確保に困っている。人間が生きることは汚すことで、それは大昔から変わらないが、戦後はゴミは激増した。そして土に返りにくい素材が増え、高温度で燃やさねばならないゴミ焼却場がどの都市でも必要となった。住持は京都東山の焼却場を見学して来たそうで、京都と違って奈良は遅れていると思われたようだ。そして、京都は観光客の誘致に熱心で、知恵も絞っているのに、奈良は「大仏商法」で、じっと座っていても観光客が来ると考えているから、金も儲からないとのことだ。本堂内部で筆者は浄財を集めて多宝塔を元の形に復元する計画はないのかと質問すると、一層当たり1億で、二層では2億必要で、とてもそんな金は捻出出来ないと現実的な答えが返って来た。今以上にどうしようもないが、今以下になってしまえばもったいない。チラシの表にある「未来に残したいものは何だろう。」は、奈良が置かれている現実だ。人口が多くなるとゴミが増える。それを自分たちの自治体でどうにか処理せねばならないが、人里離れた所に持って行くしかない。そしてそういう地域でも奈良は寺やその跡地があって、反対運動が起きる。その点、京都鳥羽の下水処理場はどうにかうまい場所を確保出来ている。京都のゴミ焼却場は山手にあるものが多く、建設の際にどのように近くの住民を説得したかと思う。大阪は舞洲にフンデルトワッサーがデザインしたゴミ焼却場があって、これについては9年前の3月に投稿した。オリンピック誘致を当て込んでフンデルトワッサーにデザインを依頼したが、それはそれでよかったのではないか。大阪はもっとその施設を宣伝し、展覧会も開催すればいい。となれば、奈良のゴミ焼却場も、大阪に倣って仏像を展示する施設を設けるなどして、ゴミ処分以外の積極的な価値をつけるのがよい。鳥羽の下水処理場は藤の花で毎年多くの人を楽しませていて、それはさほど経費がかかることではない。曝気野郎でも関心を抱くような何か楽しい施設にすれば、反対運動ばかりは起こらないのではないか。
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by uuuzen | 2015-05-29 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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