●嵐山駅前の変化、その363(自転車道路)
は股に含まれるから股の簡体字みたいなものかと思いたくなるが、名字では「猪股」も「猪又」もあってなおさら又と股は同じように使われて来たように思う。



d0053294_229764.jpgそれはさておき、漢字を次々に学んで行く小学生で「又」を学校で教わったかと言えば、漫画で覚えた気がする。そして、気取りではないが、「また」と書くところを「又」と書いたこともあったが、いつの間にか「又」は使わなくなった。何でも漢字を使えばいいものではないと知ったからで、その思いは今も続いている。で、今日もまた「風風の湯」の前に去年5月に本格的に工事が始まった自転車道路延長の工事現場を定点撮影した4枚の写真を載せるが、午後6時少し過ぎで、作業員がみな帰ったところを見計らっての撮影だ。3枚目の写真では筆者の影が右手に写っているが、コンクリートが流し込まれた型枠を乗り越えてのことで、作業中であればとても撮影出来ない。作業員が帰った後でも撮影は憚られるようだが、背の高い柵で囲まれておらず、人が出入り出来る細い隙間があって、そこを利用した。業者にすれば道路工事であり、さほど危険ではないとの判断だろう。犬を連れて散歩している人がちらほらいる時間帯だが、そうした人が途切れた頃にさっと撮影位置に走り、そして撮った。定点撮影にこだわるからだが、それなりに気を使っている。それに、撮ってすぐに投稿であれば業者がこのブログを見れば気分が悪いだろうし、また抗議して来るかもしれない。それで1年遅れで載せていると言えなくもない。もちろん、ちょうど1年前の5月19日の撮影で、今日は写真と同じような天気で、またほとんど同じ時間帯に同じ場所に行ったこともあって、撮影した時のことをはっきりと思い出すことが出来る。そして「また同じ陽射しやな」と思うが、1年経てば自分の身にそれなりに変化がある。また、加齢による疲れをより感じるようになっているので、「また」という思いには「退屈」が色濃く混じっている。披露のせいにしたが、晴天の5月19日の午後6時頃の空気は1年のうちにその時限りのものだ。そういうごく微妙な空気の味わいを1年ぶりに感じて、「また」と思うことは、生の充実と言い得ることでもある。今日はそれをまず感じたと言い代えた方がよい。そしてその一方で、確実に1年経ってのその「また」の味わいであって、そこにキリコが描こうとした憂愁が含まれている。それは筆者のような還暦過ぎの世代だけが感じるものではないかもしれない。同じ天候の同じ時間帯の同じ陽射しないし曇天、雨天でもいいが、「ああ、これと同じことは前にも感じたな」と思うことは、子どもでもあるだろう。そういうデ・ジャヴ感には憂愁が張りついている。それがことさら感じられるようになった頃、すなわち充分生きたと思える頃が、この世とおさらばするには絶好と言えるかもしれない。というのは、毎年の毎日、毎時にデ・ジャヴ感を覚えるようになれば、退屈で仕方がない。とはいえ、それはまだ幸福で、そのうちそのデ・ジャヴ感をすっかり忘れる認知症がやって来るかもしれない。それはさておき、5月中旬は午後6時ではまだ夕方ではなく、昼間と言った方がよいが、今日はそんなことを思いながら、ちょうど午後6時に家内と「風風の湯」を訪れ、いつものように2時間利用して8時に待合室で落ち合った。昼間のような明るさから少しずつ日が暮れて、空の色が藍から紺色に変わって行く様子を露店風呂で確認するのは気分がよい。それに今日は火曜日で、半額の金曜日とは違ってとても空いていて、2時間で10人ほどしか見なかった。地元住民とはほとんど顔を合わさず、この1年少々で3、4名で、それぞれが1度切りしか会わなかった。近くに温泉があるというのに、京都人はケチなのだろうか。自治会内でも一度も訪れていない人がほとんどで、裸になってまで顔見知りと会って挨拶のひとつでもするのが嫌なのだろうか。筆者としてもよけいな気を使わずに済むので、地元住民が来ない方がよい。最もよく話すというより、ほとんどひとりしか顔見知りはいないが、それは金曜日によく会うOさんだ。大覚寺北の住民で、渡月橋より南のわが自治会住民とは筆者以外に知り合いがないので、話していて気が楽だ。
d0053294_2292168.jpg 「またそれ聴いてるの?」と家内からよく言われる。筆者は面倒臭がり屋で、ステレオでCDを聴くことがめっきり減って、ここ1年はほとんどパソコンで聴く。しかもCDを聴くよりYOUTUBEが多い。ただし、宣伝で途切れるのが嫌で同じ音楽はCDで聴く。こう書くと不思議がられるかもしれない。CDを持っているのに、YOUTUBEでそのCDと同じものを聴くのだ。映像がついているとの理由からではない。映像は見ない。YOUTUBEは筆者にとって完全なBGMで、音のみでよい。もちろんCDの方が音質はいいが、小さなスピーカーで聴くので大同小異だ。YOUTUBEでたいていのCDを聴くことが出来るので、もうCDを買う必要がないようなものだが、YOUTUBEやその他で気に入った音楽に出会うとCDを買う。それでもよく聴くのは限られている。しかもこのブログで取り上げた曲か、作曲家のもので、それで家内が「また同じものを聴いている」と思う。同じものを盛んに聴くのは、半分は別のCDを棚から見つけるのが面倒であるからで、もう半分は聴きたい気分であるからだが、ここ数日聴いているのはボビー・ブランドの『DREAMER』とテリー・ライリーの『ALEPH』の2枚組で、後者の作曲家は別の曲を何年か前に取り上げた。前者は聴くたびによいと思いが増し、また伴奏の細かな部分に聴き耳を立てて、入念に構成されていることに感じ入る。そしてそこに酔うのだが、今日は「風風の湯」の露店風呂で音楽のことを考えた。先日K先生の個展に行き、そこに「オマージュ」と題する作品があった。グレン・グールドの有名な椅子に座ってこちらを向く写真のシルエットを染め抜いたもので、先生はグールドがスタジオ録音しかしないことに熱弁をふるい、グールドのCDを3枚持っているともつけ加えた。グールドのことをヴェンダースの映画で知ったとのことで、筆者はその映画のことを知らないが、ヴェンダースの映画を見なくなって久しいので、知らなくてあたりまえかもしれない。だが、音楽を多少でも知っている人はグールドのそういったエピソードは知っていて当然で、筆者も昔からグールド狂とでも言える人には何度か会ったことがある。先生はそこまでは熱心ではないだろうが、「オマージュ」と題して作品を作るほどには心酔している。ヴェンダースが出たので、「ヘルツォークはどうですか」と訊くと、「大山くんに教えてもらって見たけど、暗いなあ」と言われた。教えたのは10年もっと前で、どの作品を見て暗いと感じたのかそこまでは訊かず、代わりに「3年ほど前にファスビンダーのDVDセットを買って見ているところです」と言ったが、先生が頼る街中のレンタル屋ではファスビンダーのDVDはまず置いていない。それにファスビンダーはヘルツォークより暗いと言われるだろう。そう思うとそれ以上話が進まなかった。それはいいとして、露店風呂に浸かりながら考えたことは、グールドのことだ。とはいえ、筆者はグールドのファンではない。有名はバッハの『ゴルトベルク変奏曲』のCDは持っているが、20代半ばで最初に買ったのがリヒター演奏のLPでしかもチェンバロであったから、その音に馴染んでしまい、グールドの演奏は好きになれない。それに彼の顔が好みでない。グールドの『ゴルトベルク変奏曲』の最初の録音は1956年で、アメリカの抽象表現主義絵画に衝撃を受けたK先生としては、グールド好みになるのは理由がないではない。そんなことを話すと面白かっただろうが、当日は大勢の人が会場にいて、筆者と言葉を交わす時間は少なかった。それもいいとして、グールドがコンサートをしなくなったことは、その後ビートルズがそうしなくなったことと似て、レコードという媒体を信頼したからだろう。そこで思ったのがザッパの即興演奏だ。ザッパもレコードをたくさん作ったが、それ以上にライヴ演奏をこなした。そのため、ザッパのレコードは半分以上がライヴ録音すなわち即興演奏だ。グールドは今までにはないバッハの解釈をしたが、それでも楽譜にしたがう作業であって、即興の試みはあっても、レコードになるからには同じ演奏として固定される。つまり即興を本質的に好まなかったことになる。筆者は好きな音楽家や画家その他の芸術家が多いが、K先生のように「オマージュ」と題してその芸術家の姿を自作に表現することは好まない。そのため、K先生の「オマージュ」は少しおかしかった。そこにはグールドがあまり好きではない感情が混じっているかもしれない。そして、先生に今さらザッパのことを知ってもらうのは難しいし、またたぶん理解してもらえない。なぜこんなことを書くかと言えば、ここ数日前期のボビー・ブランドやテリー・ライリーのCDとは別に、ザッパのギター曲をよく聴くからだ。CDを取り出すのが面倒なので、パソコンにCD1枚分ほどの好きな曲を選んで入れてあって、それをたまに聴きたくなるのだ。
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 筆者がザッパを聴いていると、家内は「またザッパ聴いてるね」と言う。その「また」というのが面白い。家内にすれば筆者がザッパの曲を聴くのは、何か特別の心境になった時と考えているようだ。確かにそうかもしれない。ボビー・ブランドのブルースは落ち込んだ気分でいる時によく似合い、また慰められる。テリー・ライリーの『ALEPH』は2枚聴くと2時間以上あって、BGMとしてはとてもよいが、たまに耳にこびりつくメロディがあって、どういう音階なのかとても気になる。音までは拾わないが、東洋的な音階で、テリー・ライリーらしい。それはどうでもいいが、ザッパのギター曲にボビー・ブランドも歌っている「ST.JAMES INFIRMARY」(聖ジェームズ病院)がある。アメリカの黒人の葬送曲だ。先日奥さんを亡くした男性から電話があったことを書いたが、救急車で病院に運ばれた時はもう手遅れだったのだろうか。ボビー・ブランドが歌う同曲の歌詞はルイ・アームストロングのヴァージョンと違ってかなり言葉が少ないが、病院に駆けつけた時には愛する女性が瀕死の状態で、彼女が逝ってしまった後、(霊となった)彼女はどこにでもいられて世界中を探すことが出来るが、自分のような男は絶対に見つけられないぞと歌うところは同じだ。黒人の葬送曲で、愛する人の死に接するという、どうにもならない悲しい男心が歌われるが、愛する女性がいたことだけでも救いがある。K先生は個展会場での2時間少々の2名との対談の中で文楽の話になった時、どうにもならないことが人生にはあると発言したが、そこには奥さんが10数年前に亡くなられた思いが混じっていたであろう。奥さんの葬式にはモーツァルトの『レクイエム』が流され、そう言えば今回の個展にその題名の作品もあった。そういう重い題名を筆者は自作に用いるつもりはないが、それはまだ身内の不幸に出会っていないからかもしれない。そう考えると、グールドへのオマージュとして作品を作ることも先生なりに切実なのだろう。そして、誰にも切実な思いはあるが、相互の理解が常に得られるとは限らない。それどころか、誤解や偏見、猜疑など、他者とは距離があることを実感することの方が多いかもしれない。そこで最も大事にすべきは配偶者ということになるが、男は妻に先立たれてから愕然とする。「聖ジェームズ病院」で歌われるのもそういう思いだが、歌詞を通じて想像することは子どもでも出来る。そこが文字のすごいところで、心地よい露店風呂に浸りながら、毎晩こうして即興で書くことを次は思いやったが、このブログはザッパの即興のギター・ソロとは違って、筆者の作品と呼べるものではない。そう考えて、こうしてはいられないとばかりに湯船から起き上がり、洗い場に向かったが、また思い出したのはパソコンの前に座ってこうして書き続けて来たからで、今度はデ・ジャヴ感ではなく、多少真剣に新たな気分でこれから先を考える気分になっている。「また」はもうないと思った方がいい。
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by uuuzen | 2015-05-19 23:59 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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