●嵐山中ノ島復旧、その56(桂川左岸)
戚との交際は血のつながりのある者より薄いのが普通だが、血のつながりのある者同士が配偶者を得て人生や考え方が違って疎遠になることはよくある。



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遠くの身内より近くの他人という言葉があるように、物理的に遠くにいると交際は少なくなる。人間は孤立してさびしいのは嫌だが、鬱陶しい人と接しなければならないもの嫌で、それは何歳になっても変わらない。定年退職すると時間を持てあまし、地域の輪にでも入って活動しようと考える人がある。ボランティア活動はたいてい歓迎される。だが、長年定年前の肩書き、社会的地位、また大きな家に住んでいるとか、何代も続く家柄といったことは自然と本人の自慢になるらしく、それが顔や態度に出ている。本人がそのことに気づいていないとすればよほどの馬鹿だ。また気づきながらそういう態度をしているのであれば救いようのない馬鹿で、いずれ鼻つまみ者になる。ボランティアであってもありがた迷惑で、人々はその人から離れて行くだろう。そこで思うのは定年過ぎた大人の社会も小学校の低学年のそれと何ら変わらないことだ。そして、血族であれば大喧嘩してもまた仲直り出来ることがあるが、他人ではそういうことがあればそこで関係は途切れる。そう思えば、他人はしょせん他人で、血のつながりのある者ほどには関係を深めることが出来ない、また深める必要がないと考えることは正しいかもしれない。結婚は他人同士が一緒に暮らすことで、親を捨てることは出来ないが、嫁は放り出すことが出来ると考える人がある。産みの親は世界にひとりだが、嫁は何人でも代えられるとの考えで、儒教社会ではそうだ。それで貧しい家から嫁をもらえば我慢して親の世話をしてくれるかもしれないが、韓国ドラマを見ていると、儒教社会でも結婚すれば親と同居しなくなって来ているようだ。かくて老いた親は独居して死後に近隣の人から発見される事態が増えて行くだろうが、子どもの頃にはわからなかった大人たちの身の置き所を筆者もいろいろ見聞しながら、わが身のことを振り返るようになって来ている。昨夜ネットで、京都で有名な医師が90代になり、死ぬことに恐怖を感じているという記事があった。名前も肩書きも、そして人柄もよいと評判の人でさえそれで、老齢になれば何もいいことがない。自分だけは違うぞと思っていても、ゆっくり、ひっそり、そして少しずつ、難儀なことが増えて来る。だが、それは個人の問題で、身内も他人もいわば他人事だ。そこで物を言うのは金で、世話をしてもらえる施設に頼るなどするが、そのことで根本的に難儀なことが解消出来ることはない。川の水が高いところから低いところに流れて行くように、人生を逆流させることは出来ない。川の流れで言えば津波は例外だが、人生にそのような激震があることはまずない。それは意味での激震を言っているが、老齢になってのそれは恋心の芽生えか。老齢芸能人が孫のような年齢の娘と結婚することがままあるが、あれは老人ホームの個人版で、それに遺産すべてを世話になったお礼で与えるというふたりだけの契約がある。それを家内はいいことだと笑って言うが、老いらくの恋をするにも金で、これはあまりにあたりまえのことで、こうして書きながら恥ずかしくなるが、それは金にさっぱり縁がないのにこんなことをわざわざ書くからだ。
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 今日は家内と自転車を連ねて桂川沿いを7キロほど下がった。写真を数枚撮ったが、それをこのカテゴリーに載せるのは来月になる。家内と自転車でそれほど長い距離を走ったのは初めてで、また走った道の半分は初めてであった。自転車道路をなるべく走るつもりが、桂離宮から南はそれが途切れ、土手沿いの道路を自転車が走るにはかなり危ない。それでも仕方ないので走ったが、筆者の後ろを走った家内はトラックがぎりぎり接近して土手の下に落ちるか車に轢かれる恐怖を味わったとぷんぷんしていた。筆者も危ないと思いながら走ったが、走りながらある女性が夫に先立たれて1年少々経つことを思い出した。そして彼女に手紙を出すならば、どのように書けばいいかを考えた。慰めるにしても、筆者が想像出来ない悲しみを経験しているから、筆者の文章力では嘘っぽくなるのではないか。つまり、筆者も彼女と同じ境遇にならなければ言葉をかけることが出来ないように思う。かといって、無言では血も涙もない人間のような気がするが、世の中は喜びと悲しみが半々で、そう思えば悲しみの後に喜びがやって来ると自分を励ますことが出来るのではないか。そのようなことを考えながら、誰もがいつかは独居老人となることを次に思い浮かべた。しかも筆者の年齢になるとそれがすぐにやって来そうな感じがする。4日前に52年前に京都へ遠足で出かけたことを話題にした。今から52年後となれば筆者は115歳で、日本一長命となるだろうから、そんな欲張って長生きすることは夢想していないが、長生きしても幸福を感じられなければ意味がない。なぜこのようなことを書くかと言えば、家内の姉が70代半ばで、最近よく死にたいと口にし、また昔の思いを現実と混同して周囲によく語るらしく、認知症の症状が見え始めて来たからだ。趣味が多く、しっかり者であるのに、近年肉親の死が重なって厭世的になっているのだろう。経済的な心配は皆無だが、そのことと厭世的な思いに陥ることとは関係がない。深刻な心の病を患っているのか、珍しくない認知症なのか、どちらにしても周囲は心配で、しかもどうすることも出来ないから、老齢ということをいろいろに思ってしまう。そして、筆者ももう10年現在と同じような状態でいられれば幸福かと思うが、その保証はどこにもない。そこで何が言いたいかと言えば、今日もどうでもいいことをこうして書く「平常」だ。あたりまえのことがあたりまえに出来ている時が幸福で、現在の筆者は幸福ということだ。こう書いてしまうと、いかにも馬鹿さ加減丸出しで赤面するが、家内の手前、筆者は常に前向きの態度を忘れないようにしている。落ち込んだ姿は伝染する。家内は筆者のことを「自分だけよかったらいいのでしょう」とよく言うが、それは筆者が幸福であることを体から発散していなければ家内に悪いと思っていることに反応しているのであって、結局家内も筆者といて幸福であるはずという確信がある。それこそ家内に言わせると自惚れがはなはだしいが、どんな難儀なことがあっても、またどんなに困窮しても、堂々として物に動じない態度を家内の前では忘れないようにすることが、家内を安心させることと知っていて、それが筆者の出来るせめてもの家内への思いやりだ。そこでまた前述の夫を亡くした女性や家内の姉のことを思い、堂々巡りをする。
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 さて、今日も今月6日に家内と罧原堤を桂川下流に向かって歩いた写真を1枚目に載せる。2枚目は、1枚目の左端に写る河川敷に乗り入れるために土手から新たに造られた重機専用の舗装道路の下り口まで歩き、上流を向いて撮った。桜並木が大きなマンションの前の歩道際に見える。そこは私有地で、桜を植えても文句はない。罧原堤上の歩道は1,2枚目を撮った川沿いと、そこから車道を越えた側の両方にある。数年前に梅津の住民たちが桜の苗木を植えて国交省に元に戻されたのは、川沿いの歩道際だ。筆者はそこにどうにか工夫して植樹すれば、2枚目に見える桜並木と一緒になって桜のトンネルのようなものが出来るのにと思っている。その中を車が往来するのは危険だろうか。眺めはかなり変わるが、桜並木の間から嵐山は見える。断っておくと、2枚目に見える桜はそこだけで、罧原堤全体からすればごくわずかだ。そのことは1枚目の写真からよくわかり、いかにも殺風景で、真夏は日陰がなくて歩き気になれない。3,4枚目は右岸で、2月20日の撮影だ。自転車道路を下流に向かいながら、1,2枚目の罧原堤を対岸に見わたして撮影した。1枚目は専用道路が左端のものだけではなく、遠くにもう1本見える。そしてそのどちらの道路の際、つまり川との間に罧原堤とほぼ同じ高さまで土を盛っていて、その様子は4枚目の写真からわかると思う。突き固めてあるのでよほどのことがない限り崩れないと思うが、この土の盛り上げは何の役目をするのだろう。今後の工事に必要な土を一時保管しているのだろうか。川の断面を狭めるから、臨時に積み上げているものであるはずだが、用途不明だ。右岸にはこのような土盛りはない。河川敷に乗り入れる仮設道路のすぐ際にあるところ、工事を再開すればすぐに運び出すのかもしれないが、その工事再開がたとえば鮎漁が終わった秋となると、台風の季節となり、洪水に遭遇する可能性がある。ひとたまりもなく流されてしまう土盛りのようで、撤去するなら夏までではないか。となると、5月の連休後に始まるか。この土盛りには容易に踏み込めるが、そう考えながら想像したのは、ロックのライヴ用ステージに使えることだ。対岸に向かって音を発すると、近所迷惑にならないし、また対岸は数千人が立つことの出来る広域避難場所の公園やグラウンドだ。対岸でなくてもたとえば写真の撮影位置の罧原堤の歩道上からはもっと近くで見られるが、スピーカーが対岸を向いていれば音はよく聞こえない。それはさておき、1枚目の写真は桂川の流れも一緒に撮ろうとした。多少川面に土が見えるが、以前に比べるとはるかに少なくなった。それを浚って積み上げたのが、2本の上流に向かってつけられた仮設道路際の土盛りであろう。あまりに大量で、それを処分する場所が現在のところ確保出来ていないのかもしれない。3枚目は本来は大きなパノラマ写真に加工したが、大きい割りに面白くない写真なので、幅500ピクセルの小さなものだけを使うことにする。没にした大きな写真は手前の右岸と向こうの左岸の工事の様子がよくわかるが、左岸の様子は3枚目の撮影位置から50メートルほど下流に歩いて撮った4枚目でどうにか代用出来る。
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by uuuzen | 2015-04-28 23:59 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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