●長楽寺、その3
者というのがよくわからないのは、そう呼べる人が日本にはもういないからだろうか。あるいは一般には知られないが、まだ儒学を研究している学者はいるのかもしれない。



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いたところで需要がなければ道楽と見られ、有名になることもない。道楽で一生過ごせるほどの財力があればいいが、どのような分野の学者を目指す人でもそれは稀で、何らかの収入の道を確保しなくてはならなし、それは大学教授というのが、収入が安定し、世間から尊敬もされるので、今では大学教授と学者は同義に思われている。あるいは大学教授でなければ学者ではないともされるが、学に徹することが第一義であるのに、それが逆転して大学教授になれば一流の学者であると本人は自惚れる。その点、江戸時代の日本では大学はなかったから、学を極めたい人はそうするし、学者というものは今よりもっと純粋であった気がする。だが、たとえば上田秋成は晩年に売名行為をしていると陰口を叩く者があるなど、いつの世も、また学者の世界でも金と名声へのやっかみがあるだろう。さて、今日は長楽寺で撮った写真を載せながらまた書くが、本堂北の墓地の話だ。この寺は頼山陽の墓があることで有名で、そのことは円山公園の長楽館という喫茶店の正面玄関前の道を挟んで真向いに大きな石碑が立っていることからも言える。「山紫水明」の扁額がかかる山陽の住まいは今も二条と丸太町の間の賀茂川沿い左岸にあるが、いつも河川敷や橋の上から建物を眺めるだけで、そこには入ったことがない。入場料を支払えばいつでも誰でも訪れることが出来るのかどうかも知らず、気になりながら長年経つ。気になるのは、木造の古い家であるから、老朽家だ。維持管理をだれがしているのか、それも知らないが、ホテルが建っておかしくない一等地で、京都市が史蹟として保存しているのだろうか。あるいは長楽館前の大きな石碑を建てた人たち、つまり山陽を讃えて顕彰し続ける団体が健在で、そこが資金繰りをして保存しているのだろうか。そうだとすれば、山陽という人物が今なお絶大に支持されていることになり、そのことに凄味を感じる。頼山陽の名前は中学生の歴史の授業で今も学ぶだろう。『日本外史』はあまりに有名だが、筆者は本を手に取ったことがない。今後もたぶんないだろう。武士の歴史を書いたものというが、筆者はほとんど関心がない。漢文で書かれていることもあって、なおさらとっつきにくい。この超長編が大ベスト・セラーとなり、それで山陽の名前が歴史に刻まれた。ということは、『日本外史』を読まねば山陽のことはわからない。ベスト・セラーは価値があるのはわかるが、万人にとは限らないだろう。筆者はどちらかと言えばベスト・セラー本が好きではない。特に現存の作家はそうで、ベスト・セラーを放った作家にはほとんど何の興味もない。山陽の『日本外史』が今のベスト・セラー小説と同列に見るのはかわいそうかもしれないが、大歓迎されたことはそれだけ平易で、俗っぽいということでもある。これまた山陽を俗人と言えば何を馬鹿なと言われるが、ベスト・セラー本は一時は爆発的に売れたが、その後は全く読まれない場合が多いのではないだろうか。『日本外史』が今なお多くの人に読まれているのであれば、それは有名な古典と言わねばならないが、その形容は実際はどうなのだろう。漢文を読みやすい言葉に翻訳すると山陽の思いがかなり失われるから、『日本外史』が今あまり読まれないとすれば、それは今となっては時代遅れの漢文で書いたからということになる。今の日本は小学生で英語を話せるように授業を行なうが、それは漢文を学んでも何の益もないと考える教育者が多いからだ。学にも流行があるし、また学に実利を求める風潮はますます高まっている。英語を話す方が漢文を読み書き出来ることより何万倍もその後の人生を楽しく、また金儲けにも役立つと考える大人が多いから、子どももそれを全く疑わず、大人になっても漢文に触れる機会がなく、そのことに困ることもない。そうなれば『日本外史』はさらに読まれなくなり、山陽の名前も忘れ去られる。
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 前に書いたが、英語の読み書きや会話を小学生から教えるとして、何万人にひとりくらいは英語で立派な詩を書く者が出て来るだろうか。それを言えば日本に大勢いる英語を専門にする大学教授を見ればよい。彼らの何人が欧米人が舌を巻く詩を書くだろう。その点、漢詩は違った。今は絶滅に近いだろうが、明治までは漢詩を作る人が知識人には大勢いた。それと同時に書もうまかった。その伝統が消え去り、代わって英語ブームが来たが、漢詩が書かれたほどに英語の深いところを理解して詩を作る人が現われない。数百年後は違っているかもしれないが、そうなった時、日本語も消えているかもしれない。山陽は江戸末期の人で、蘭学は当時そうとう入って来ていたから、横文字についてどのように思っていたのだろう。オランダ語をマスターして日本を代表する蘭学者になってやろうとは考えなかったと思うが、となれば世界に視野を広げていたような人物ではなく、父やその交友の思想を継いで一時代の終わりを締めくくるということに関心がより強かった伝統主義者かと思わないでもない。父の春水は儒学者で、中村真一郎の『木村蒹葭堂のサロン』にしばしば登場し、蒹葭堂との関係が深かったところから、蒹葭堂のように多趣味であったように想像するが、山陽はその血をどれほど継いだのかと疑問に思う。蒹葭堂は『日本外史』を読んでいないが、読めるまで生きたとしてもさほど関心を持てなかったのではないか。武士とは町人の枠を越えたところの世界に蒹葭堂は関心があったからだが、筆者が山陽について先入観を持つのもそこのところだ。とはいえ、それは先入観であり、『日本外史』を読めば思いが変わるかもしれない。何かきっかけがあれば読むが、それがどういう形で今後訪れるか、あるいは訪れないままかはわからない。何を大げさなと言われるかもしれないが、未知の世界に踏み込むのは覚悟が必要で、その覚悟はきっかけ、すなわち縁と思える出会いがなくてはならない。それはさておき、本堂北の「平安の滝」を越えてすぐに収蔵庫がある。瓦屋根で内部は20畳ほどか。見物はガラスの奥に並べられている一遍上人の像など、黒光りした遊行上人像7体で、ずらりと横に並んでいる。一遍上人以外は坐像で、また7体とも重文に指定され、各像にはこれまでどの展覧会に出品されたかを記した紙片が添えられている。だいたい4,5つの展覧会に並んだ経歴があるが、仏像と違って実在の人物像で、どれも等身大に近く、また顔はきわめて現実的で、その迫力に圧倒される。カリスマと言えばいいか、実際にそれらの風貌の上人が目の前にいれば、たいていの人は素直に言葉にしたがうだろう。体格がよく、度胸があり、知識が豊富で、言葉巧み、そして眼力が鋭く、細かいことにこだわらず、常に大声で話す。そういう雰囲気の像ばかりで、鎌倉時代の僧は現代とはあまりにも格が違うと感じる。これらの像は京都の七条に工房をかまえていた慶派の大仏師の作とされているが、筆者はローマ時代の写実的な帝王像のブロンズを想起し、日本の写実彫刻が西洋のそれに全く引けを取らないことに感心した。収蔵庫は真新しかったが、江戸時代はこれらの像をどこに飾っていたのだろう。よくぞ無事に伝えられていると思う。収蔵庫内は筆者と家内だけで、ガラス越しに展示物があるとはいえ、先日の奈良京都を初めとする各地の神社仏閣の油による被害を思うと、この収蔵庫は用心が足りないのではないか。なぜ一遍上人の像があるかと言えば、由来書によれば、「当初(平安時代)は天台宗の別院でしたが、その後室町時代の初期当時の一代の名僧国阿上人に譲られて時宗(宗祖一遍上人)に改まり、明治三十九年に時宗の総本山格であった名刹七条道場金光寺が当寺に合併され今に至る」とあって、七条道場金光寺が合併したためだ。同寺は中世から近世初期にかけて時宗総本山で、近世以降は火葬場として洛中の葬送に関与したらしい。そういった資料も長楽寺に移された。葬送は今ではどの宗派でもやるし、また葬式仏教と言われるほど、葬送は大きな収入源になっている。だが、広い墓地を確保出来る寺はいいが、長楽寺は境内が狭められ、墓地として利用出来るのは本堂北の頼山陽の墓がある周辺のみのようだ。またそこは急斜面で、墓地として利用出来る場所はごく限られている。
d0053294_15927100.jpg 今日の最初の写真は「外史橋」と呼ばれることからわかるように、山陽の墓へと続く。山陽の墓を造る際に谷に架けられたものだろう。生前の山陽が現在の墓地を定めたのかどうか知らないが、京都市内が眼下に一望出来る場所で、今日の2枚目がその眺めだ。ただし、筆者の立ち位置のすぐ背後が山陽の墓ではなく、「矢野家」と彫る新しい墓があった。寺としては少ない土地をどうにか墓地を造って収入の足しにしているのだろう。山陽の墓は少し奥まったところにある。3枚目がその写真で、墓石は立派だが、墓が占める区画はさほど大きくない。橋を越えてすぐ右手は小さな墓石が斜面を高さ4メートル近く覆っていて、全部で100はあるだろうが、中には手前に倒れているものもあって、大半は忘れ去られた人であろう。無縁仏の形で、それらを撤去すれば墓地として分譲出来そうだが、急斜面に並ぶので、全部撤去しても現代の墓は3,4つが限度かもしれない。橋の手前に立て看板があって、山陽の墓を見た後、帰りがけのそれを何気なしに見ると、若冲時代の画家である市川君圭の墓があることを知った。それで引き返し、100ほどの小さな墓石を順に見て行くと、右上端近くに見つかった。今では君圭の名前を知る人はほとんどいない。画家の墓と言えば、立て看板でさらに興味深い名前を見た。鈴木松年だ。明治の大家で、父の百年も有名だが、父の墓は別のところにある。君圭の墓を探している間に家内はさっさと本堂の方に向かったが、本堂までゆっくりあるいて10分はかかる。それに家内は筆者の姿が見えないとなると、また戻って来るだろう。そう思って今度は松年の墓を探したが、これは橋の手前の別れ道を山手の方に進む。つまり、さらに奥深い山へと進む。今日の最初の写真の右端にその階段が写っている。
それを上って行くと、まず水戸藩士らの石碑がある。「御所守衛に一身をささげた水戸烈士戦没者八十七名を刻銘」したもので、安政の大獄で処刑された尊王攘夷派だ。『日本外史』は尊王攘夷の思想に影響を与えたとされるが、山陽の息子が安政の大獄で殺されている。その意味で山陽の墓よりやや山手にこの烈士の碑がるのは、尊王攘夷の点で共通する。松年の墓は烈士の碑を越えてずっと奥のかなりややこしいところにあったが、そこに至るまでの斜面は急で、あまり手入れがなされておらず、倒木が墓の手前にあるなどして、大雨でそれらの倒木が墓石を倒すのではないかと思わせた。松年の墓は山陽と同じように平ら整地された場所にあるが、よほど関心があるか、末裔でもない限り、訪れないだろう。だが、何かを食べた後のゴミがあちこち散乱していて、不謹慎な連中が訪れているかもしれない。3枚目の写真は向かって左が松年で、右もかなり大きく、息子の松僊の墓だ。君圭ほどではないが、彼らの名前も今ではほとんど忘れ去られているも同然で、作品を見る機会はとても少ない。中央の墓石は「鈴木家累代之墓」と彫り、背後に卒塔婆が3本あるので、今も一族は健在のようだ。松年はこの寺に墓を造ることを山陽と同じように望んだのだろう。山陽を敬愛していたのかどうか知らないが、松年は歴史画をほとんど描かなかったのではないか。松年親子の墓地の区画が大きいことは、画家として経済的に成功したことを意味し、いわばベスト・セラー的画家であった。松年が再評価され、若冲のようにその絵が高額で取り引きされる時代が来ないとも限らないが、それにはまず作品が魅力的であるかどうかだ。山陽の『日本外史』が読まれなくなったとすれば、絵というものも時代を経るとわかりにくくなると言える。今蕭白と言われたほどの松年であるから、その迫力ある激しい絵は今後改めて歓迎されることがあるかもしれないが、筆者は明治の嫌な雰囲気を感じ取って心が穏やかにはなれない。
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by uuuzen | 2015-04-15 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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