●嵐山中ノ島復旧、その54(桂川左岸)
られる側と堆積する側が決まっている河川の曲がり箇所だが、土手の上には道路が走り、その外には民家が並ぶとなると、河川の曲がりはそのまま保つ必要がある。



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それで洪水で抉られた部分は土砂やコンクリートで元に戻し、抉られた土砂が溜まった場所からはその土砂を取り除く必要がある。そうでなければ河床が上がって川の横断面積が狭まり、豪雨で川の流れが堤防を越えやすくなる。河川の管理はそのように厄介なもので、終わりがない。今朝のTV番組で福岡の女性ふたりを日帰り旅行で京都に連れて来て案内するものがあった、最後の方を少し見たところ、ちょうど渡月橋南詰めを嵯峨に向かってお笑い芸人がふたりの女性を引率しながら歩いる場面が映った。桜はほとんど見えなかったが、たぶん満開になる前であろう。印象的であったのは、渡月橋北詰めの道路下で3人が記念撮影を撮った時、背後の渡月橋の下に、以前のように中洲が全く見えず、水面ばかりであったことだ。そのような状態はとても珍しい。おそらく半年後にはまたあちこち土砂が積もっているだろう。部屋でも掃除しなければ綿埃が溜まる。それと同じで河川も定期的に土砂を浚う必要がある。だが、部屋の掃除とは違って簡単ではない。河川の中に重機が入り込むのにそれ用の道を設ける必要がある。それに、聞くところによれば、浚った土砂を処分する場所の確保が難しいらしい。京都は神戸や大阪のように湾岸の埋め立て地がないから、山にでも捨てるのだろうが、上流から運ばれて来るのであるから、その上流の削られた場所に戻せばいいではないかと考えると、物事はそう単純ではないだろう。そこで川が蛇行していなければ土砂の堆積はかなり減少するのではないかと考え、たとえば淀川の下流は明治になって直線に改造され、またわが家の裏庭に接する畑の用水路もそのように計画され、幾分かは直線になったが、川沿いの土地の所有者が承諾しなければならず、そう簡単に役所の思いどおりには事が運ばない。それはさておき、桜の季節を迎えてひとまず工事が終わった渡月橋から松尾橋にかけての両岸の維持工事は、右岸から左岸を眺めているだけではよくわからなかったが、左岸上の歩道を下流へと歩くことで認識を新たにした。先週の「その53」に続いて、今日は今月6日にもう少し下流で撮った写真2枚と、2月20日に右岸の自転車道路上から左岸を眺めた2枚の写真を載せる。前にも書いたように、「嵐山中ノ島復旧」と題しての投稿は本来当日撮った写真を使うことにしていたが、工事は終了し、前回に続いてエピローグとしての投稿であり、今日の最初の2枚の写真の現場の様子は撮影時と変化がない。最初の写真は前回の3枚目と比べるとわかるように、テトラポットが並ぶ嵯峨地区からの大きな暗渠の口を越えて50メートルほど下流から上流の渡月橋を眺めている。左端の桜は「風風の湯」の前の桜の林で、その辺りのみかろうじて桜がまとまって見える。四条通りを松尾橋までやって来た観光バスは桂川左岸の罧原堤を北上し、今日の最初の写真の場所まで来ると、ようやく嵐山と渡月橋が視界に入り、また桜も目につくという寸法で、やって来た甲斐があると喜ぶが、写真からわかるように、川が蛇行しているのがよい。これが直線であれば風情に欠けるだろう。まだかまだかと待ちつつ、バスが道を大きく曲がろうとすると前方に渡月橋が見える。その効果を考えてのことでもないが、桜と紅葉の季節は、四条通りを走ってやって来るバスや車はみな罧原堤を走ることを強いられ、右岸のさらに山側の狭い道を北上することは許されない。もっとも、それでは家並みの間の狭い道を進むだけでさっぱり景色は面白くない。罧原堤は観光バスのための道で、市バスは右岸山側の物集女街道を走り、地元住民は観光客とはほとんど出会わない。とはいえ、それは松尾橋により近い住民で、筆者のように渡月橋周辺の旅館を含む地域の自治会住民は一歩家を出れば観光客の姿が目につく。それで前述したお笑い芸人が渡月橋を歩いた映像を見ると、つい自分がどこかに映っていないかと探す。
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 罧原堤を歩くのは運動のためを思っての人たちが多少いる程度で、車がスピードを落とさずに走るだけだ。渡月橋と松尾橋の中間に嵯峨芸術大学があって、阪急の松尾大社駅から歩く学生を以前はたまに見かけたが、数年前からは松尾大社の大鳥居際と同大学を終日往復する専用バスをみんな利用するようで、罧原堤上の人影はさらに少なくなった。男女で歩いていると、同大学近くのラヴ・ホテルへ行くのかと誤解されそうなほどで、それほどに桂川の左岸と右岸は堤防から道路、町並みまで大きな違いがある。だが、左岸が中京とつながって広い印象があるのに対し、右岸は背後に山が迫り、町並みは中央に物集女街道を挟んで東西は極めて短く、南北に細長い。そして山が迫るので日の沈むのが早く、左岸より陰気だ。だが、歴史的な遺産は右岸に多くあって、左岸は畑ばかりであった。今日の最初の写真の中央に流れる桂川は、江戸時代は亀岡辺りから伐採した樹木を筏に組んで流し、その終点が現在の松尾橋辺りの左岸であった。そこは梅津という地名からわかるように、しばしば水が浸かった低地帯で、それが今は畑は激減し、家が密集して下町を形成している。大きな材木商は梅津から太秦にかけて今でもあって、それは桂川を下って来た筏を引き上げて集積した場所で、丸太町通りの名前はそれに由来するはずだ。これも前に書いたが、わが自治会内に四半世紀前に銭湯があって、天井に接した半円の区画のタイル絵は一片2センチほどの色のついた四角いタイルをモザイクとして構成したもので、
今日の最初の写真と同じ角度の景色を表わし、川上に長い筏が近景と遠景に二艘デザインされていた。どちらにも先端にひとりの男性が立っていて、その姿は任天堂のマリオ・ブラザースのように漫画的であった。今でも亀岡から材木を市内に運んでいるだろうが、川を運送に使うことはなく、すべては道路となった。京都から大坂に行くにも江戸時代は川を使ったのに、今は電車か車で一気だ。それで川は放置され、土砂が堆積しても慌てない。それで今では渡月橋の下を筏が流れることは現実的ではない。それほど水深はなく、一見水面が広がっているが、乾季になればすぐにあちこち川底が露呈する。それはいいとして、最初の写真はこれまでの罧原堤から渡月橋への眺めではなく、終わったばかりの工事によって左岸の河川敷の様子が一変したことを記録している。それを示したいために撮ったのであって、見るべきところは写真右下の緑に接する岩が整然とコンクリートで固定される護岸と、川の流れに直角に突き出す角状の小さな堤だ。この堤上にいつか立ってみたいが、現在は立入禁止になっている。誰も見ていないので、さっと土手を下りればいいが、写真を撮った時は先を急ぐこともあって想像だけで済ました。この突起状の堤はほぼ等間隔に7つ設置された。以前はなかったもので、この7つは桂川の急カーヴにあって、洪水の際に護岸が抉られないように水の勢いと削ぐことが目的だ。2枚目の写真はその最下流の7つ目が左端に少し見えている。そして小岩を敷き詰めた護岸も終わっているが、急カーヴが終わって護岸が被害を受ける可能性が少ないからだ。前回はこの小岩を上流から流れて来たものを使い回ししているのではないかと書いたが、そうではないことは3,4枚目の写真からわかる。4枚目がよりわかりやすく、緩やかな斜面に白っぽい岩が並べられている。それはどう見てもトラックが運んで来た新しいものだ。上流から流れて来て堆積している岩は写真のように白くない。それに選別するのは大変で、その手間を考えると新しいものを調達した方が安くつく。2か月経たぬ間に1,2枚目の写真のようにこれらの岩をきれいに埋め込んだのであるから、知らない間に工事は進んでいた。そして、右岸と比べてこの左岸の護岸工事がはるかに大規模で、それだけ左岸の被害が大きかった。これは抉られる側であるから当然で、右岸はもっぱら堆積土砂を除去する工事となった。そう考えると、左岸の梅津よりも筆者が暮らす西京区側の方が洪水の際に安全なようだが、2年前の台風18号では渡月橋が冠水し、わが自治会の北部は床上浸水同然となって全国的にその様子が伝えられ、嵯峨芸術大学付近の梅津に関しては少しも話題にならなかった。
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 2枚目の写真を撮ろうと思ったのは、手前に菜の花、左端に桜が見えるからでもあった。歩道際に桜の花びらがたくさん落ちているが、これがなければ罧原堤を歩いても楽しみは少なかった。桜を撮ることが目的ではなかったので2枚目にはほとんど映っていないが、もっと下流に行って上流を向いて撮った写真を「その57」に載せる予定で、それには罧原堤にもそれなりの桜並木がある様子がわかる。それを梅津の住民は5,6年前に護岸側にも増やそうとして苗木をたくさん植えたが、国交省が激怒してすべて元通りにさせたことは以前に何度か書いた。1,2枚目の写真にように、護岸はせいぜい菜の花程度の草しか許されない。桜の根が張ると、護岸は弱体化するというのが理由らしいが、100年に一度程度の大雨でなければその桜の根元まで水位は上がらない。100年に一回の危険を考えて毎年咲く桜の楽しみを捨てろというのが国の考えだが、それに反対すると、では洪水で堤防が崩れて床上浸水した時に文句を言わないと約束しろと詰め寄られる。そのことと原発問題を同列に考えることは無理があるだろうか。もしものことを考えて不安なものは避けようというのが国の方針であるならば、原発が存在することはおかしいではないか。真夏に罧原堤を歩くと熱中症で倒れるだろう。どこにも木陰がない。2枚目の写真の歩道際の斜面に桜の並木を造れば、松尾橋まで散歩する人は急増するだろう。八幡の背割り桜のように新たな観光名所になるのは間違いない。護岸を弱体化するといっても、その護岸は写真からわかるように、斜面の長さはかなりある。そのてっぺんの歩道際に10メートル間隔に桜を植えることがどれだけ床上浸水の可能性を高めるというのだろう。その計算の根拠があるかと言えば、土木工学では桜の根の張り具合が護岸を弱める割合について研究している学者はまずいない。堤防上の桜が駄目なら、日本中の川沿いの桜は全部引き抜くべきだが、そんなことはまずあり得ない。なぜ罧原堤では許されないのか。2枚目の写真からわかるように、歩道の幅はかなりある。ほとんど人が歩かないのに広過ぎる。自転車は車道を走ることに決まったから、歩道はもっと狭くてもよい。つまり、歩道の河川側の端に桜を植えれば護岸を緩めるという心配をせずに済む。いくらでも方法があるのに罧原堤の桜並木が実現しないのは、嵐山に比べていわばどうでもいい場所であるからだろう。観光バスや車で四条通りから一気に渡月橋まで走ればいいのであって、ゆっくり歩いて渡月橋が小さく現われる様子を楽しむ人はほとんどないが、昔は時代劇映画で東海道の代わりとして盛んに使われた堤で、新たな魅力を掘り起こすことが出来るのではないか。桜並木やまたベンチ、さらには洒落た喫茶店を出現させるという方策もある。おそらくそういったことも梅津の住民は考えた。そして住民が金と労力を費やして植えたものを国が全部撤去させたのは、住民の勝手な行動であったからとされるが、では地元が市会議員を動かし、しかるべき手続きを踏んで国交省と話し合いをすれば実現するだろうか。何度も書くように、筆者は罧原堤を歩くことがない。殺風景でさびしい感じがするからだ。桜並木があれば景色が一変し、歩きたくなるだろう。そんな楽しみは国交省としてはどうでもよい。河川は氾濫するものであり、管理するのに邪魔なものは存在を許さない。それでも桜並木があったために護岸が洪水で崩壊し、周辺の民家が大きな被害を受けたという実例がどれほどあるのだろう。それに台風18号で渡月橋南詰め周辺が床上浸水したのは、堆積土砂を放置していたからでもあって、その責任を問われる心配をするあまり、それ以降慌てて河川維持工事が行なわれた。大阪では安藤忠雄が中心となって市民から寄付を募って大川沿いに桜を増やす運動が何年か前に始まった。それを参考に罧原堤にも桜並木を新たに造ればいいと思うが、下町の梅津では牽引する有名人がいないか。それに昔は西京区は右京で一体化していたが、今では川を挟んで両岸は別世界だ。
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by uuuzen | 2015-04-14 23:59 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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