●長楽寺、その2
落と変換されたので「長い」と「楽」を打ち込んだ。長楽寺でもらった由来書には簡単に「大谷廟建設の際幕命により境地内を割かれ、明治初年境内の大半が円山公園に編入され今に至る」と締めくくってある。



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幕府の命令がいつあったのかと今調べると、親鸞の墓が現在の大谷廟に移されたのは寛文10年(1670)のことだ。そして延享2年(1745)に吉宗が東本願寺に1万坪を与えている。1万坪はぴんと来ないが、約3万3000平米で、ルートで開くと182メートル四方で、地図を見ると、これは現在の長楽寺の真南に隣接する大谷祖廟が建つ範囲であることがわかる。その後、文化3年(1820)に大谷新道を開き、その37年後に新道の南北の畑を買い取って現在の姿になった。この新道は長楽館の前から真西に長楽寺に向かって延びる坂道の3倍ほど幅が広い。そして、八坂神社の現在修復中の南楼門を出てすぐ左がその新道の始まりで、250メートルほどもある。そしてこの新道は長楽寺前の坂道すなわち参道からは見えない。寺に限らず、敷地とはそのようなもので、隣り合って接していてもお互い別世界だ。それに個人の住宅とは違って寺や神社は数百年の歴史があるのが普通で、その間には他の寺や神社との抗争があって、領地が狭められたり逆に大きくなったりする。先月家内の母の27回忌で高槻に行った時、奈良から毎月訪れる○○上人としばらく談笑し、その時に筆者も去年訪れた青蓮院の青不動を祀る青龍殿の話になった。上人は浄土宗の僧で、知恩院にはよく訪れるが、知恩院の北隣りの青蓮院はかつてはもっと寺域が大きかったのに、それが削られて知恩院の所有となったとのことで、その経緯を訊かなかったが、宗派の違いで寺域が伸びたり縮んだりすることは、今後またそれが変わる可能性があることを意味している。つまり、狭められた方はいい気がしないはずで、いつか取り戻そうと思うだろう。数百年経てば国の政治がどう変化しているかわからない。独裁国家になっていれば、その独裁者と手を結べば、一気に領域は拡大するだろう。上人の話では、神宮道を挟んで青蓮院前の土地が売りに出た時、知恩院は買い取りたかったそうだが、折り合いがつかず、結局マンションになった。だが、そのような住宅は50年後にはまた取り壊されるはずで、寺の命から見ればごく短い。半世紀後にはまた知恩院が買い取ろうとするかもしれないし、青蓮院が買うかもしれない。現在の青蓮院の境内は知恩院よりかなり狭いが、将軍塚や青龍殿のある区画も飛び地として所有しており、またその周辺の山の領地かもしれない。そのようなこと上人と話していると、奈良の上人の寺も同じようなことがあるそうで、近くの大きな土地を買ってほしいと言って来る人もあるとのことだ。それはさておき、長楽寺は江戸時代に山門のすぐ南の1万坪を削られたが、そこはどのような土地であったのだろう。真葛が原と呼ばれていた原野であったから、何も建っていなかったか、あるいはあっても移設が簡単な建物程度であったのだろう。「その1」の最初の写真に写る寺の全景を描いた看板、そして写真のトリミング具合からもわかるが、門のすぐ右手は塞がれていて、向こうが見えない。親鸞の墓を見下ろしてもらっては困るという考えだろう。2枚目の写真の左手は石を組み上げた壁で、その上が林のように見える。その内部が大谷祖廟で、壁はほとんど直立し、とてもよじ登れない。その様子が、長楽寺と東本願寺との仲を示すかのようだ。
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 さて、「その1」に書いたように、今日は「その1」の4枚目の写真から説明する。これは門を入って真っ直ぐ石段を上り切った突き当りにある本堂の左手に入り込んで撮った。本堂はどこかの禅寺からの移設であったと思う。禅宗様式の比較的小さな建物で、内部には誰もおらず、本尊も遠目によく見えた。本堂前に立った後、足は自然と左に向く。というのは、右すなわち南は大谷廟であり、そちらには進めないが、本堂の裏手に回る道がある。受付でもらった簡単な境内図でも本堂は右端に描かれ、不自然さを感じる。広い領地にわざわざ本堂を端には建てない。中央にあったはずで、南半分がなくなったことを知ると、なるほどと思う。本堂の北は鐘楼がまず目につく。大晦日に突くことが出来るらしいが、大晦日は八坂神社におけら参りに出かける人がたくさんいて、ついでに長楽寺で鐘を突くという人が多いのだろう。整理券が配られるので、午後早くから待っている人がいるかもしれない。鐘楼は背が低く、鐘は背の低い人でも突けると思う。ただし、一発勝負なので、力の入れ具合などに自信のない人は恥をかくかもしれない。恥をかくだけならいいが、突き損じると迷惑がかかる。鐘楼の北に「時雨楓」が植えられている。これは気づかなかった。由来書には「時雨をいとうから傘の濡れてもみじの長楽寺」とあって、これは頼山陽の歌だ。長楽館のすぐ前の池の畔に大きな石碑があって、これはとても目立つが、そこに頼山陽の墓がある長楽寺はこの坂の上といったこと彫られている。頼山陽を顕彰する人たちが建てたもので、長楽寺は山陽の墓があることで最も有名であろう。山陽はこの寺からの眺望を愛し、墓を建てることを望んだ。山陽の時代はまだ円山公園がなかったから、山門に至る坂道は今よりもっと静かで野辺を行く気分であったろう。今でもこの寺は奥まったところにひっそりとあって、八坂神社や祇園の喧噪を忘れる。寺は元来そういうもので、大谷廟が出来たのも静かな山辺で墓所にはよかったからであろう。ということは、長楽寺は墓のイメージが強いことになるが、実際そのとおりで、山陽以外にたくさんの墓がある。「その1」の4枚目には「竹本綱大夫塚」が見える。かなり大きなもので、生前よほど人気があった大人物であろう。義太夫の名前であることはすぐにわかるが、今では文楽で聴くくらいしか接することがない。この写真はどう撮っていいのかすぐに決められなかった。それで右に「竹本綱大夫塚」、左に建礼門院の十何重かの石塔を収めた。また、この塔の手前には「忘我桜」と書かれた碑が地面に埋め込まれた桜があって、5分咲きになっていた。それも写し込みたかったが、石塔より上に咲いていてファインダー内に入らなかった。この桜は誰か有名な人が植えたのだろうが、その説明はなかった。鐘楼際の紅葉やこの桜など、本堂のすぐ北はところ狭しといろんなものがびっしりと詰まっている感じで、それで「その1」の4枚目を撮るのにどこをどう切り取るか迷ったとも言える。そして、多くのものが詰まっているため、昼間でも薄暗い。建礼門院は「平家物語」に関心のある人ならば名前を知っている。5年前に瀬川康男の『絵本平家物語』全九巻について投稿した。その第9巻が「知盛」で、その本を隣家に置いてあるので今は見られないが、建礼門院すなわち平徳子や徳子が高倉天皇との間に産んだ安徳天皇の最期の話が出て来る。徳子は殺されずに済み、平家滅亡を見取った。大原の寂光院に晩年は暮らし、そこで没したようで、また天皇に嫁いだので、同寺に属する土地に陵があるが、長楽寺の塔が墓とされている。
d0053294_2131031.jpg 今日の最初の写真は芦雪の塚だ。これには驚いた。芦雪は大坂で死に、高津に墓がある。上六から北の真田山公園の西だ。真田山公園内には昔市民プールがあり、中学生時代に何度も多くの友だちと夏休みに通った。その近くに芦雪の墓がある寺が存在することは知らなかったし、知っても関心がなかった。その墓は写真で見ると、ごく普通の大きさだ。建てたのは芦雪の養子の芦洲で、最初は13回忌の文化7年(1810)、その後破損したので、40周忌の天保9年(1838)に再建したというが、文化7年に円山の料亭也阿弥で芦雪追悼の展覧会を開き、その際にすぐ近くの長楽寺にも墓を建てた。円山公園内には今は左阿弥という料亭が枝垂れ桜の前からもよく見えるが、也阿弥は明治になって焼けた。左阿弥より北にあったようで、今はそこはどうなっているのだろう。江戸時代の円山にはほかにも料亭があって、そうしたひとつで皆川淇園が開く新書画展に芦雪は毎年出品した。芦雪も頼山陽と同じように長楽寺を気に入っていたかもしれない。骨が埋まっていないので、墓とは言えず、「塚」と彫られているが、大坂高津の墓よりもこっちの方が環境がよくていい。その環境は2枚目の写真から想像出来るだろう。これは帰りがけに撮り、奥に石段を下りて行く家内が小さく写っている。芦雪の墓石は石畳の道沿いの手前左に横向きに立っている。そのずっと奥に鐘楼が見えるが、その左に本堂がある。3,4枚目の写真を説明しておくと、これは2枚目の立ち位置から180度向きを変えたところのすぐ奥にある「平安の滝」だ。滝と呼ぶにはあまりに水量が少ないが、水流が変わる何か大きな変化があったのかもしれない。あるいは雨天が続くとどっと増えるかもしれない。受付でもらった境内図では、勢いがよく、水量豊かなイラストとなっていて、そういう日もあるのだろう。この滝の見所は水量の豊富さではなく、4枚目からわかるように、滝が流れる絶壁に埋め込まれた岩にそれぞれ仏像が彫られていることだ。これがいつの時代のものかわからないが、「平安」と名がつくところ、開基した最澄の時代に遡るものではないだろうが、天台宗の別院であった平安時代のものかもしれない。滝の背後の石に仏像を彫るからには、水量は昔から普段は少なかったのかもしれないが、水で濡れながら彫るのは大変で、ほかの場所で彫った石を順次嵌め込んだものではないか。滝の上に石仏が一体見えるが、すぐそばにたくさんあって、先にも書いたように、狭い区域に次々と見物が現われ、テーマ・パークの趣がある。3枚目の縦長写真の最上部は光が差し込む林になっているが、滝のすぐ左手に上り坂があって、滝の上部を横切る山道がある。筆者は滝側ではなく、その反対に北の墓地へと歩いたが、滝側を歩くと、本堂裏手を通って本堂のすぐ南に出て来ることが境内図からわかる。その道を歩かなかったのは、筆者はいつも受付でもらう案内図などのチラシ類を見ないからだ。由来書も境内図もこれを書くために初めて見ている始末で、ブログを書かないのであれば、ずっと見ないままだろう。ブログを書くことは勉強になっている。止めた途端に頭の回転が凋落し始めるかと言えば、もうすでにその兆しが出ているようで、ま、とにかく無駄話にしても書くことはいいのだろう。傍迷惑を考えないこともないが。
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by uuuzen | 2015-04-08 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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