●嵐山の散り桜
行というほどでもないが、傘を差して出かけた。あえて観光に行かずとも、すぐ近くに桜はいっぱい咲いている。だが、雨の日は散歩したくない。長く歩くと靴の先から水が入って来るからだ。



d0053294_136552.jpg頑丈な靴でもそうなる。そう言えば何年か前に20足ほどまとめて買った中国製のスニーカーがまだ数足残っている。接着剤が安物なのか、1か月経たない間にあちこち剥がれて来る。そうなると水は入り放題だ。1足200円しなかった。見た目は3000円程度に見えるが、欠陥商品だ。安物であるので仕方がないと諦めがつく。そう言えば糊を切らしていて買わねばならないが、これも何年か前に中国製を100円で買ったことがある。当時その品質について書いたことがあった。それは糊ではなく、水であった。水なら飲めそうでまだましだが、糊のように粘着性があるのに、全く接着に役立たないもので、糊の濃度が薄いためかと思って、中身を取り出して1か月ほど乾燥させ、堆積を10分の1以下に減らしてから使ったが、やはり接着しなかった。そういう騙し商法は国の信用を落とすが、筆者が子どもの頃に見た映画館でのニュースに、日本が朝鮮戦争の時の特需であったか、輸出が好調で、売れに売れたために製造が追い着かず、上着のボタンは糸で縫わずに糊で貼っただけで輸出しているというのがあった。買った人はボタンを嵌めようとするとポロリと取れてしまう。それで自分で縫いつけることになるが、日本も数十年前は今の中国と同じようなことをしていた。たぶんその頃の日本製品はとても安かったのだろう。それで買った人も仕方がないと諦めたかもしれないが、怨みは長く残る。糊は紙をくっつけるものであるのに、その役目を果たさないでは糊とは言わない。そう考えるとスニーカーはまだましか。1か月でも持てば200円の価値はあるかもしれない。それはさておき、昨日に比べると小雨で、春雨と呼ぶにふさわしい。中学1年生の時、時代劇の映画で誰かが覚えたのか、友だちの間で「春雨じゃ、濡れて行こう」という表現が流行った。気温が20度ほどもあれば、春雨で風邪を引くことはない。今日はそのように暖かかった。昨日は一歩も外に出なかったので、今日は家内と嵐山の桜を見に行くことにした。雨でも観光バスがたくさん花見客を連れて来る。今週はまだ雨天の日がある予報で、今日見ておいた方がよい。だが、筆者の目的は嵐山の桜を見ることよりも、渡月橋を越えて罧原堤沿いを松尾まで歩きながら、桂川左岸の護岸工事がどのように終わったかを確認することであった。そして10数枚の写真を撮って来たが、それほどに右岸から眺めて想像していた様子とは違った。何度か書いたように、筆者は罧原堤を歩くのは好まない。殺風景であるからだ。それが今日はたぶん家内と初めて左岸の堤上の歩道を梅津まで歩いた。ただし、松尾橋まで行かずに途中で住宅地へと降りた。その話は別の投稿で書くとして、今日は嵐山の今年の桜だ。最初の3枚は、絵はがきの写真のような、典型的な渡月橋、嵐山の写真で、4枚目はムーギョとトモイチで買い物を済ませた後、いつものように松尾橋をわたり、小川沿いの道を歩いて自宅に戻る際に撮った。雨が続いているので、桜はどんどん散る。4枚目を撮っている時、風が吹き続け、花びらが雪のように舞い続けた。その様子はわずかに写真からわかるだろう。それを撮りたかったのではなく、花びらが雪のようにあちこちに積もっているのが面白かった。小川に架かる橋の表面が白く見えるが、それは全部花びらだ。
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 桜は散った花びらが雪のように地面に積もっているのがよい。今日の最初の写真もそうだ。これは「風風の湯」のすぐ前の桜の林で、晴天ならば弁当を広げる人が多いのに、地面が濡れていてはそれも出来ない。人が見えないが、写真の左手すなわち「風風の湯」の前の石畳の道路には大勢歩いている。写真では桜はかなりあるように見えるが、枯れ死したものは何本もある。また、全体に弱りが目立ち、太い枝が毎年折れて地面に転がっている。ともかく、今年も満開になり、その林の中を歩いて写真を撮った。この林がなくなると、もう嵐山に住む意味がない気がしているが、筆者が生きている間は残ってほしい。そう言えば今年正月に急死した自治会の住民Tさんは筆者より4,5歳上だったと思うが、親しかった人から聞くところによれば、嵐山が好きで、骨を埋めたいと言っていたそうだ。その言葉どおりになったので、本望であったろう。Tさんが転居して来たのは筆者らより2,3年後と思う。当初は商売が好調であったが、やがてそうではなくなり、最期は悲惨であったらしい。そんな様子は外からはあまりわからなかったが、どんな家庭でもいろいろと事情があるということだ。道で出会えば必ず笑顔で挨拶を交わす人が、どんどん消えて行く。そして亡くなった後は、たいていの人は思い出話さえしない。死者は早く忘れ去られる。地面にきれいに落ちた桜の花びらはすぐに半透明になり、消えて行く。無数と言ってよいほど大量の花びらであるのに、きれいさっぱりと見えなくなる。いつまでもあると地球上が花びらだらけになるので、それでいい。人間でも同じだが、花びらのように放置されない。そのままでは腐臭が漂って傍迷惑なので、燃やされるか地中に埋められる。そう思うと人間は厄介だが、咲いて散るのは桜と同じで、人が死ぬのは自然なことだ。それをそう思えないのは、死への恐怖というより、生への執着が過ぎるからだ。毎年桜が咲いて散ることを見続けると、そのことにも飽きて来るのが本当ではないか。飽きるとは無感動で、同じ体験を繰り返すとそうなりがちだ。それをそうさせないのは、毎日を新しいと感じ、感謝することだ。それがなくなると、死は早いのではないか。先のTさんは、まだ若いと言われるうちに死んだが、いろいろ事情を耳にすると、ちょうどよかった、あるいはもう充分であった気がする。こんなことをTさんに言えば、Tさんは憤慨するに決まっているが、Tさんは親としての役目は充分果たし、ほとんど思い残すことがなかったのではないか。死は自分で招くところがある。もちろんそうではない死もたくさんあるが、桜の花は普通は役目を終えたので散る。したがって、雪のように積もっているのは、無念の思いの堆積ではなく、「ああ、面白かった」と、満足の象徴ではないか。このように書きながら思い浮かべるのは、先日「健気な冬薔薇、その4」に書いたことだ。桜が散っていることについての表現で、「地面にはもうたくさん花が落ちていて、哀れを誘う」と書いた。「花びら」と書かなかったのは、5枚の花弁が茎にくっついたまま、その茎ごと地面にたくさん落ちていたからだ。どうやら目白などの野鳥が花から花へと飛び回るので、そうなるのだろう。咲いた途端に落花では「哀れを誘う」との表現がいいと思ったのだが、桜はそういうこともあると見越しているはずで、仕方ないと思っているだろう。人間も同じで、無念な死を遂げる場合があるのは仕方がない。
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 何でも思いどおりになることはない。仕方がないという表現は嫌われるが、現実には仕方のないことがある。それを受け入れることも必要だ。植物は動物のように動けないから、たとえ危険を察知しても逃げることは出来ない。ということは、植物は危険を察知する能力がないと考える人があるかもしれないが、それは植物に訊いてみないことにはわからない。植物は根こそぎにされたり、折られたり、切られたりすることは仕方がないと思っているのではないか。それは諦念とは違う。そうではない「仕方がない」という考え方がある。筆者が言いたいのはそれだ。諦めではないところの「仕方がない」という考え方とは、仕方がないことがいつ生じてもそれを受け入れ、前進する覚悟だ。植物はそのようにして太古の昔から生き続けて来たように思う。動物はだいたい植物がなければ生きて行けないが、収穫される植物は、動物の役に立っていることを自覚し、食べられはするが、種としては絶えることがないことを知っているだろう。つまり、仕方がないことは絶対にありはするが、死に耐えることはないという前進への思いを持っている。これを人間に当てはめればどうなるか。人は他人が死ぬのは平気でも、自分が消えることは耐え難い。それが間違いと言っては間違いだと謗られるが、いつかは死ぬのであるから、いつ死んでもいいように、今この瞬間を生きていてよかったと思うことだ。そう思えないことがあって当然で、そのことが多くなると、死の方から迎えにやって来る。だが、死は気まぐれで、今この瞬間生きていて楽しいと思っている人の前にも急に姿を現わす。それは仕方がない。仕方がないが、死の間際まで「ああ、楽しいな」と納得出来ているのであれば、それは幸福な人生であったと言える。桜が満開になるのは、1年要して力の限りを振り絞ってのことだ。桜はきっと、咲いた瞬間、「ああ、楽しいな。鳥や虫がたくさんやって来てくれるし、人間も見上げてくれる」と笑いながら満足している。そのため、鳥に茎ごと花を散らされようが、酔った人間に枝を折られようが、それは仕方がないと思っている。諦めではない。そんなことがあっても来年また咲くぞいう前進の気持ちがある。もし切株にされても、ほかの仲間の桜が咲いてくれる。人間もそこまで思うようになることだ。さて、今日の2枚目の写真は絵はがき風に嵐山を撮った。同じ場所から下流を向いて撮ったのが3枚目で、少し説明しておくと、対岸の桜は「風風の湯」の前の林で、けっこう多くの桜がまだ残っているという感じがする。この写真を撮りながら筆者が最も目をつけたのは、その対岸の桜の下の緑の細い帯のすぐ下に接する重機専用仮設道路だ。写真のちょうど真ん中に白っぽく見えるのがそれで、また途切れているのがわかる。その途切れの地点に立って撮ったのが、「嵐山中ノ島復旧、その52」の3枚目だ。いつも右岸に立って左岸を撮影していると、右岸が左岸からはどう見えるか想像はするものの、それが実際とは差があることを今日の3枚目から知る。前述したように、4枚目の写真以降は罧原堤を下流へと歩きながら10数枚撮影したが、それだけ多く撮ったのは、右岸から想像していた様子と随分違ったからだ。遠くに見えているものが、その遠くの場所に立ってみると、予想と違うことがしばしばある、幻滅もあればその反対もあろう。遠くへ向かうとは、人生で言えば老齢に達して行くことで、若い頃の想像とは全然違う現実に多くぶつかるだろう。何でも思いどおりになることはなく、仕方がないと諦めることも多くなるはずだが、それでも生きている限りは楽しくなることを考えることだ。それが出来なくなれば、死が迎えにやって来る。それも仕方がないと思うとなおさらその日が早く訪れる。
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by uuuzen | 2015-04-06 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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