●切株の履歴書、その6
が膨らむ桜を今日はしげしげと見上げた。午後7時から自治会の年度末総会が自治会内の料亭であり、その前にさっぱりしておこうと思って「風風の湯」に行った。



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午後4時40分のことで、6時半までいたが、まだ明るい時間帯のためか、かなり混んでいた。女湯は反対に空いていたらしいが、だいたいいつもそのように混み具合は男女の湯で反対になるようだ。いつものようにまずサウナに入るが、12分を4回のメニューは変わらない。午後4時40分は今の季節ならばまだ昼間同然に明るいが、1時間もすると夕方らしくなって来る。サウナ室からガラス窓越しに露店風呂を眺めていると、その間にある植え込みの桜の枝に目白か鶯が一羽やって来たのが見えた。こちらの方を向いているような気がしたが、20秒ほどでさっと消えてしまった。その後サウナを出て露店風呂の際で涼んでいると、曇り空に蕾をいっぱいつけた桜の木が夕暮れ近い中、黒く見えて白黒写真を眺めている気がした。現代画家にそのように樹木を見上げて白地に黒で描く女性がいることを思い出しながら、ただ現実の樹木を見上げてその枝ぶりを描くことは面白くないと感じた。彼女は絵は見たままではないかもしれないが、写真を活用しているようで、絵を構成するということにあまり関心があるとは思えない。「風風の湯」ではサウナ室と露店風呂の間に桜の老木があって、それを見上げると、少し視線をずらすだけで多くの枝の交差ががらりと違って見える。それが満開に咲くのはもう2,3週間後で、それはそれで待ち遠しいが、蕾が無数に咲くのを待っている様子も楽しい。そこに野鳥がきまぐれに飛んで来るとなおよい。そう言えば今日は「風風の湯」の玄関前の桜に、耳慣れない野鳥が高らかに鳴き続けていた。木の高さは4メートルほどで、どの枝も蕾をいっぱいつけ、またどこに鳥が留まろうともすぐにわかる状態であったにもかかわらず、不思議なことに1分ほどその桜の下からそのかわいい鳴き声の主を探したがわからなかった。筆者が見上げるのと同時に「風風の湯」から出て来た客もその鳴き声に魅せられたようで、桜を見上げ続けたが、鳥の姿が見えないので首をかしげていた。その桜の周囲には同じように背の高い木はなく、その桜でしかあり得ないが、どこにいたのであろう。後ろ髪を引かれるような思いで中へと入ったが、珍しい野鳥も人の多いところにまで出て来て春の訪れを喜んでいる。それはさておき、桜はどのような気分かと言えば、蕾を無数につけ、1年で最も目立つ時期を迎えようとして誇らしいだろう。それはエネルギーをたくさん消費してしんどいことでもあるが、1年に一度のお祭りで、桜はその気分を知っている。それで、今の蕾段階がどういう気分かと言えば、開花間近であるのがかえってわくわくしているのでないかと想像する。花が咲いてしまうと後は散るだけで、それは一種のさびしさ、虚しさも混じっているだろう。だが、蕾状態は違う。無数の蕾をひとつ残らず花開かせるという期待、義務感は桜の心をほかの季節以上に充実させているに違いない。つまり、今が桜にとって一番楽しい頃ではないだろうか。ま、そんなことを「風風の湯」の露店風呂の際で桜を見上げながら思ったが、では人間も1年に一度の華々しい期待に満ちた頃があるかと言えば、そうではない。毎日がお祭り同然という人もいるだろうが、たいていは細々と暮らして華々しいこととは縁がない。そう考えると人間はつまらない。なので、自分で華々しいことを企画しなければならないが、それには先立つものが必要とたいていの人は思ってしまう。実際そうかもしれないが、海外の豪華な旅行をせずとも、気晴らしは出来るのではないか。
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 そこで思うのは、桜などの樹木は気晴らしを欲しているかだ。植物と動物の違いがあるので、桜が人間のように気晴らしを求めているはずがないと考えるのはかなり正しいだろう。年輪は年によって厚みに差があるが、それは樹木が気温や季節に反応しただけのことで、毎年365日の気温や気候が全く同じであれば年輪の幅も変化がないだろう。ただし、そうであっても樹木が時には何か楽しいことがあってほしいなと思わないとは言い切れない。とにかく樹木が何を考えているかは人間にはわからない。そこでこういう考え方も出来る。先ほどサウナ室の窓から目白か鶯が桜の枝にやって来てまた飛び去ったことを書いた。筆者にすればわずかな出会いで、それは桜にしても同じだが、筆者が心を動かしたならば桜もそうあっておかしくはない。何しろ人間以上に鳥とは縁の深い植物で、野鳥が飛来するのは嬉しいはずだ。それが正しいとすれば、人間がただ見つめることも桜にとっては少しは面映ゆいことではないか。その思いの交感があるからこそ、桜は愛され、たくさん植え続けられている。つまり、桜は口を持たなくても、人とはうまくつき合っている。それは桜に心があるからだ。人が桜を愛でるのは人の勝手ではなく、桜の思いの操作によるという考えだ。植物も人と同じ生き物であるからには、そう考えることは間違いとは言えず、むしろ正しい。それで今日の3枚の写真だ。昨日の投稿の5枚目の写真は「風風の湯」の玄関前の桜の林の北端にあった桜が自転車道路の延長工事によって邪魔者扱いされ、切株にされた状態だ。最も手前の1本はかなり以前に伐採されたが、その向こうの3本は去年3月に切られた。今日の写真は1年前の昨日、つまり昨日の5枚目を撮ってすぐにその5枚目の手前から2番目、3番目と順に向こうに移動して撮影した。切株を見下ろすと、それがギロチンで首を斬り落とされた胴体を思わせる。樹木の命からすればほんの一瞬の出来事で、自分がギロチン刑に処された実感がないだろうが、根は活力があるのに、蕾をつける枝がないことを知れば、植物であることの悲しさを噛みしめるかもしれない。樹齢数百年ほどになると、大切に保護されるが、そこまで長生きするのはごくごく稀で、たいていは2、30年も経たずに命を絶たれる。人間も毎日たくさん死んで行き、知り合いが死んでもすぐにそのことを忘れる。それが桜の木となればもっとで、切株にされてもまた新たに植えられると気に留めないし、実際またどこかで誰かが植える。人間と同じだ。無数の蕾をつけて開花を待ちわびる桜があれば、邪魔者扱いされてさっさと切られる桜もある。それは仕方ないとして、人はギロチン刑にされるのが嫌であれば、桜もそうではないかと考えることは許されるだろう。切株にされなければ毎年無数の蕾をつけるというのに、その夢が絶たれれば無念だろう。それは間違いないはずだ。その無念が現実にあることを人は知っているから、なおのこと蕾をたくさんつけた桜を見上げるのが楽しい。今日は「風風の湯」のサウナ室で、20歳前後の青年が5人入って来た。どこから来たのかと訊ねると、奈良から日帰りで温泉に浸かりに来たとのこと。みんな若さいっぱいで、初々しく、かわいらしかった。大学生を蕾と言えば正しくないかもしれないが、そうたとえたいほどに溌剌とした。そんな彼らも年輪を重ねていつかは筆者と同じように若者の初々しさに顔をほころばせる。ただし、若くして命がなくならない限りにおいてで、自他ともに幸運を祈るしかない。
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by uuuzen | 2015-03-20 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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