●嵐山駅前の変化、その357(自転車道路)
で覆うと使い勝手がよいという発想によって、松尾橋より少し上流の河川敷を上り下りする仮設道路にアスファルト舗装がなされたが、地道では土砂を運び出すトラックのタイヤが土まみれになり、松尾橋や四条通りを汚してしまううえ、雨が続くとぬかるんでタイヤがスリップするとの懸念があった。



d0053294_1512246.jpgさほど急な坂ではないが、その場所に相当する坂は中ノ島に至るまでの間にはない。それで距離にして100メートルほどか、坂を含むヘア・ピン・カーヴ状の区間がアスファルトで舗装されたが、薄い皮膜同然で、その撤去に1日程度しか要さなかったようだ。膜という発想は薬を包むオブラートや避妊具に至るまであって、態度や言葉にもあるだろう。それが欠如する人は知らぬ間に嫌われることがあるが、上司であれば知って部下にそのように接することもある。宮城だったか、東北のとある村長が15,6歳下の女性職員にセクハラをし、昨日辞職した。村長の顔をTVで見てなるほどと思った。66歳だったと思うが、顔が出来ていない。髪は明らかに鬘で、しかもひさしのついた若者風だ。それがぶよぶよとたるんだ顔と不釣り合いで、そのように若作りをするほど本人はまだ若いと思っているのだろう。それは場合によってはいいことだが、あまりに似合わない鬘がすべてを物語っている。何代か続く地元の有力者らしいが、田舎では無能であるのに家柄だけの理由で人の上に立つ人物がまだまだいることがわかる。辞職して事が済んだとすれば訴えた女性は浮かばれない。もっと追究してほしいものだ。鬘も膜で、髪の少なさを隠す。老ければ髪が少なくなったり、白くなったりするのは自然で、それを膜でごまかそうというのは憐れだ。毎朝民法のTVで司会をしている60代半ばか後半の男性も鬘で、それは有名だが、筆者はその人の禿げ頭を想像しながら、思い切ってそれを晒せばいいのにといつも思ってしまう。今さら出来ないと考えているのだろうが、年々見苦しい。70近くなって膜で隠すことはないだろう。それがごまかしと言うものだ。ごまかしたまま死ぬつもりでも、そのごまかしはとっくにばれていて、愚かさや憐れさを誘う。はははは、今日は最初の一字を何にしようかと思いながら、膜を思いついたが、幸いなことにそれはまだ使っていなかった。で、膜から連想することを適当に書き始めると、村長の醜い鬘を思いつき、次に何を書こうかと思うと、先ほどから何度も洟をかんでいるので、鼻がすっきりとせず、厚い膜が鼻腔に張りついている気分だ。去年松山で買った目薬がまだほんの少し残っていて、先ほど2,3回それを挿すと、目の痒みは収まったが、くしゃみは収まらず、洟汁も出続ける。昨日のTVでは、花粉症の症状が出る前に医者に杉の成分が入った薬を舌の下に一滴落としてもらうことを何度か続けると、8割ほどの人が花粉症にならずに済むと言っていた。筆者は症状が出ているのでもう遅いが、その薬は市販されていないのかと思う。一方では、杉の花粉が最も大きな理由だが、ほかの花粉も影響しているであろうから、杉のエキスの投与で本当に花粉症にならずに済むのかという気がする。医者嫌い、薬嫌いの筆者は疑い深い。
d0053294_1513776.jpg 今日は段落を少し短めにする。写真を5枚載せるからだ。ちょうど1年前の3月19日に撮影した。説明は後にするとして、先の話の続き。どこまで戻るか。態度や言葉の膜だ。慇懃無礼という表現がある。それとは反対に、『ずけずけとものを言わずに、少しは相手の気持ちを考えて喋れ』という表現もある。前者は悪い膜で、後者はいい意味での膜だが、その境目は難しい。最近筆者はとても嫌な態度に二度出会った。些細なことかもしれないが、ほとんど話したことのない相手だけに、その態度にこっちはびっくりした。そこで思ったのは、そのふたりはきっとあちこちで嫌われているだろうということだが、そのようにでも思わなければこっちの嫌な気分は消えない。これからも何かと話す機会があると言えばあるが、こっちから会わずにいようと思えば出来る。ま、次回会った時は、同じような態度に出られないようにこっちも作戦を立てておく。人と接することは摩擦を生む。必ずそうだ。話していて気分のいい人もあるが、それでも話した後に疲れがないと言えば嘘になる。利害関係がなく、話しても面白くない人とは会う必要はないが、そうも出来ない場合がある。それで会えばお互い膜を張り合うことを思う場合はまだよいが、相手にその気が全くない場合もあって、こっちの虫の居所が悪ければ剣呑な雰囲気が漂う。それが昂じれば喧嘩に発展するが、そうすればかえって嫌な思いが増す。そんな嫌な人とも腹を割って話せば理解し合えるという意見がある。筆者の経験からすればそれは少しは正しい。その少し以外はそうではないが、それは人間には虫が好かないということがあると信じるからだ。先に書いた村長がそうだ。TVで見る限り、その顔は筆者が最も嫌悪する人種のもので、腹を割って話が出来る相手ではない。そう言えば腹を割るという表現は面白い。それは切腹と関係があるだろうか。人間は膜を持っている。まず衣服だ。それを1枚ずつ剥いで行くと素っ裸になる。そうして「風風の湯」をみんなが利用するが、全員裸であるからお互いわかり合えるかと言えば全くそうではなく、衣服を着ているのと変わらない。では、親しく話すことで腹の中がお互いわかるかと言えば、それもまずない。態度や言葉にも膜が張られていることを誰でも知っているからで、それが人間の常識であり、また上品さでもあると考えている。お互い膜を何重にも張り巡らせた状態で、どこまで楽しく語り合えるか。結婚して3年ほどで離婚する夫婦は、その膜というものを剥がし合えないことを知ったからだろう。だが、夫婦にも礼儀があり、膜は必要と考える人もある。そういう価値観が同じである夫婦は離婚から遠いかと言えば、膜の捉え方に相違がある場合はそうではない。それはさておき、夫婦の膜とは、肌と言えばいいだろう。人間は一瞬で相手の本質を悟るというが、それは嗅覚というべきものの作用で、肌の匂いのようなものが合わない人を好きになることはない。女性はよく触られてぞっとすることがあるが、それは肌という膜の感覚で相手を検分しているからだ。この肌が合う男女は夫婦であれば理想だが、夫婦の肌がいつまでも合うかと言えばそうでもない。
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 近年は同性愛がかなり認められて来ているが、それも肌感覚で理解出来る。男女がお互いの肌を求めるのは本能だが、生殖本能だけが本能ではない。腹を割って気楽に時を過ごせる相手を求めるという本能もある。その場合、生殖本能は脇に置かれる。肌が合えば異性に限らないということだ。むしろ同性の方が合うかもしれない。今日もムーギョに買い物に行ったが、梅津のガス店のウィンドウの前で60代の女性がふたり、ガスコンロを眺めながら話をしていた。買い物に行く途中のようだ。そのふたりを見ながら、今まで台所に立つことを当然と思って過ごして来たことを思ったが、それは男性ではまずないだろう。そのことが男性にとって幸福であるとは限らない。台所仕事も夫が半分すべきと主張する女性がいるし、その傾向は強くなって来ている。夫婦の問題であるので勝手に決めればよく、他人の夫が全く台所に立たないことに目くじらを立てる必要はない。機能のよさそうなガスコンロを眺めながら買い換えたいと思っている60代の女性ふたりは、それはそれでとても幸福そうで、微笑ましかった。家事をしないままの夫は、いつか妻が亡くなるとか離婚されれば途端に苦労するという見方があるが、それはそうなった時にどうにでも対処するもので、またしなければならず、その心配をするあまり、夫に家事を半分させるという妻の考えに筆者は賛成しない。話題をまた変える。膜と言えばいいか、最近の筆者はブログに書く内容を心の膜を剥がすようなことに傾斜している。日記のように出来事を書きながら、その事実にくっついている膜のようなものを提示することに関心があると言えばいいか、つまりは膜の下の筆者の本心を晒そうということだ。だが、前述したように、人は衣服という膜を脱ぎ去ると、肌という膜があり、その下かどうか、心にも膜がある。それらの膜を全部取り去ることは出来るか。そう考えるところに、哲学や文学の始まりがある。哲学や文学をやりたいので、最近はその膜なるものを意識してそれを剥がすとまでは言わないでも、膜の存在を意識しながら、その裏にあるものを見つめようという気になっている。こうして今書いていることもその膜確認、膜剥がしの作業で、その意味で今筆者は腹を割って書いていると言えるが、話す相手が目の前にいないため、先に書いた摩擦は少ない。そのため、誰かに気を使うことがないが、誰か特定されると揉める原因になることを多々書いているので、その心配はあり、たとえば小説家はその懸念をどう克服しているのかと時に思う。個人的なことを小説で書いて訴えられ、敗訴した小説家がいたが、それは無様なことだ。膜という考えが欠如している。文章で収入を得ているのであれば、膜という意識に敏感であらねばならない。筆者は書き続けると何かが見えて来るかもしれないという期待があって書いているが、そのひとつが、前述のように最近の筆者のブログの内容だ。以前にも増してどうでもいいことばかり書いている自覚はあるが、その一方で以前とは違った感じになって来ていることはそれなりの変化で、その新たな膜の形成は10年近く続けて来たそれなりの成果かと肯定的に捉えたい。
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 さて、今日はもう一段落書く。どうでもいいことだが、先の3つの段落はどれも1307文字だ。最初の段落がそうであったので、2,3段落目もそうした。それでこの段落もそうするつもりで書く。「風風の湯」の建物の北端は桂川の支流沿いで、すぐそばに中ノ島に至る太鼓橋がある。その橋とは直角方向、桂川の支流沿いに自転車道路が去年出来た。昔からあったものが延長されたのだが、桜の林は阪急電鉄の所有で、京都市はその中にまでは自転車道路を伸ばすことが出来なかったのだろう。それがなぜ去年延長されたのか理由は知らないが、桜の林の西半分に「風風の湯」が建設されたので、その開発ついでに自転車道路もと考えられたのだろう。自転車道路は車道と同じくアスファルトが敷かれる。それはごく薄い膜で、簡単な作業のようだが、雨水を速やかに地下に浸透させる工夫などが求められ、桜の林の土地を多少均すだけですぐに舗装出来るというものではないことが去年の工事を見てわかった。その様子は今日の写真からもわかる。舗装の厚みは少ないのに、その基礎はかなりある。そのために掘り返す土も多い。その点で松尾橋近くの重機専用道路の舗装とはかなり違う。重機と違って軽い自転車が走るだけなのに、工事の手間な何倍も要したようだ。それにしても、自転車専用道路は贅沢なことに舗装されて、走りやすい。地道のままでもよさそうなものと思うが、小石でタイヤがつまづいたり、また雨でぬかるんで轍が深く出来ると走りにくいうえに、泥が散らばるとの考えだ。土は嫌われもので、その上に膜を張るのが常識となった。それで花粉症対策に薬を用いることになって行くが、その薬も粉では飲みにくいので、錠剤になったり、オブラートの膜で包んだりする。それはさておき、桜の林は、樹齢70年ほどの桜の古木が老齢化し、どれももう寿命を迎えている。それもあって自転車道路が延長されたのかもしれない。寿命が近いということは、半ば荒れ放題ということで、自転車道路を造ることによって、その荒れた部分を多少とでもなくす意味合いがあったかもしれない。その理由は今日の写真からわかる。3枚目には古びた赤いベンチが写っている。それはもう寿命だ。5枚目には切株が4つ見える。手前は除いて向こう3つは今回の工事のために伐採された。どれも桜で、そうでなくても少なくなっている桜をまた消した。荒れている状態は、それだけ自然ということだ。そいう場所が多少あっていいと思うが、嵐山は全体が手の込んだ庭で、自然のまま放置することは許されないのだろう。それはともかく、今日の写真の光景はもうないが、同じ陽射しは毎年巡る。ちょうど1年前も今日と同じく洟をすすり、くしゃみをしながら過ごしていた。筆者という薄い膜が、瞼の膜が覆ったままとなるまで、これから何度3月19日の陽射しを見るかわからないが、早く鼻腔の粘膜が正常に機能し、頭の中に何重にも覆っている膜を取り除いて清々しい気分で散歩したい。そうすればまた書く内容も新たに膜を剥がすように少しは哲学的、文学的になるような気がしている。ちょうど1307字だな。嘘と思う人は計算してほしい。そんな暇な人はいないか。
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by uuuzen | 2015-03-19 23:59 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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