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●『竹久夢二展』
うのは嫌なことだ。何か事情があったと思いたい。だが、そのような気持ちが通用しない場合がある。去年だったか、ネット・オークションで富士正晴のはがきを落札した。個人に宛てたものが売買されるのはあまりいいことではないが、有名人ならその筆跡を手元に置きたいと思う人はいつでもいる。



●『竹久夢二展』_d0053294_054685.jpgそのはがきは、裏面に富士らしい大きな字で数行、政治家は嫌なものだといったことが書かれていた。2500円ほどで、安かったこともあって落札した。出品は静岡で、名前、住所、電話番号を伝えて来たので入金したが、梨のつぶてであった。2500円程度を騙し取るのは詐欺師ではなく、商品が手元にないなど、何か異常事態があったのだろう。だが、入金後に連絡がなかった。3か月の間、20回ほどメールを送ったり、連絡掲示板に書いたりしたが、だんまりを決め込んだらしく、最初の連絡以降二度と何も伝えて来なかった。それでいて、ほかの出品はし続け、また落札されてそれなりの好評価を得ている。相手にすれば、商品は送ったが、それが到着しようが途中で紛失しようが関係ないと思っているのかもしれないが、商品を送ったのであれば、そのことを伝えて来るべきだが、それはなかった。今も盛んに出品していると思うが、「非常に悪い」の評価欄に筆者の言葉が残ったままとなっている。罵詈雑言を浴びせるのはまずいでの、他の入札者に注意を促しつつ、字数制限いっぱいに事情をていねいに説明した。というのは、数か月経てば、商品の画像は消えてしまうからで、いつまで経っても評価を参照する人の参考になることを心がけた。富士のそのはがきは、内容が政治家を嫌悪しているもので、筆者としてはぜひともほしかったが、その後再出品して別の人が入手したかもしれない。ネット・オークションで金だけ取って商品を送って来ない人物に初めて遭遇したが、落札者は泣き寝入りだ。前にも書いたことがあるが、甥が10年近く前、20数万円でパソコンを落札した。それが詐欺であった。何人もの被害者がいたようだが。筆者は画面を保存し、印刷しておくように言ったが、2,3日後にヤフーは画面を消去した。どういう理由かわからないが、警察に届けようと思っても、肝心の画面がもはや存在しない。ヤフーは10年ほど前にはそのようなこともしていた。20数万円に比べると筆者の2500円はかわいいもので、諦めもつくが、それにしても出品者が近畿圏内にいれば家まで行ってやろうかと思ったほどで、どういう顔をしているのか見たい。似たことが2年前にあった。ところが出品者は病気で入院していたようで、かなり遅れて商品は届いた。そんなこともあるので、富士のはがきに関しては疑いたくはないが、「非常に悪い」の評価がついても平気で出品し続けているので、おそらく商品を失ったのだろう。それならば金を返せと言いたいが、それが惜しいのだろうか。ともかく、お互い顔を見ないだけに、不気味でもあり、また筆者の住所氏名などを知らせているので、何か仕返しをされるとつまらないから、泣き寝入りするしかない。
 それはさておき、1週間ほど前、竹久夢二のはがきが15万円ほどで落札された。幸徳秋水宛てで、資料としても重要なものだ。本物であるのは間違いがない。官製はがきで、印面からして明治32年(1899)に発売され、同44年(1911)に新しい印面のはがきに切り替わるまで流通したもので、その間に書かれたことになるが、秋水は大逆事件で逮捕されて同44年1月に処刑されているので、その前年くらいではないだろうか。消印はふたつあり、「東京大久保」と「東京谷中」の文字以外はかすれてよくわからない。宛先は「府下大久保大人町」で、夢二の住所は「谷中初音町四丁目十」となっている。秋水は有名であったので丁番まで書かなくても届いたのだろう。筆者は東京の、しかも明治時代の街の知識はさっぱりないが、ふたりとも反権力にふさわしい下町地域に住んでいたと言っていいのだろう。落札価格の15万円は安いのか高いのか。その倍でも安いのではないか。というのは、裏面は夢二の水彩画が画面いっぱいに描かれている。サインはなく、また文字もない。ただ、伏して泣き崩れるキモノ姿の女性の上半身が3枚の落ち葉とともに描かれ、夢二は秋水に何を言いたかったかが、絵で示されている。大逆事件で処刑されることを予期していたのだろう。国家権力に睨まれ、殺されたのであるから、明治の日本は今のイスラム国とだぶる。帝国主義に異を唱えると、政府を批判したということになり、邪魔者は消せの命令が下る。戦争に勝った明治政府は浮かれていたが、いつの時代でも戦争の犠牲になるのは弱い者たちだ。秋水や夢二はそうした事実に目をつむることは出来なかった。当時そのようないわば反戦の立場を取ることは、命がけであったが、日本がいつまたそのような時代にならないとも限らない。はははは、どうも昨夜書いた熱気の余韻が残っているようだが、歴史は繰り返すとよく言われることを忘れないことだ。今は反戦ではなく、権力側につく評論家が大勢いて、TVに盛んに登場するが、その方が愛国者と言われ、金もたんまりと得られるからだ。それはさておき、先のはがきを秋水は夢二から受け取ってどのように思ったのだろう。日本が悲しい国であると思い、処刑を覚悟したのだろう。偉そうにする政治家たちはうまく立ち回って莫大な金を手に入れ、日本を動かしていると自惚れていたが、政治家は今も同じようなもので、彼らは夢二のように愛されることがなく、名前も残らない。夢二と秋水の縁は秋水が発刊した週刊『平民新聞』の挿絵を夢二が担当したことによるが、同紙は明治36年(1903)から2年続いただけで、夢二が先のはがきを出したのはその後であるのは間違いがなく、20代半ばのものだ。大逆事件の容疑で拘留される直前か、あるいは釈放された直後かもしれない。嫌な世の中になって行くことを予感した絶望感が絵によく表現されている。夢二と言えば、そのような悲しみに沈む女性像が売り物になっているが、そのはがきを見ると、そのように弱弱しい女性を描けば人気を得られるといった商売上の狙いがあったのではなく、世の動きを見て弱者に同情していたことがわかる。つまり、そのはがきは、夢二のありふれた女性像を描く作品とは違って、秋水に宛てたものであるだけに、ふたりの思いが込められたもので、また言葉を書かないだけに、絵の力というものを強く伝える。当時の秋水に何か言葉を書けば、夢二も処刑の憂き目に遭っていたかもしれない。そういう心配をせねばならないほど、政治家が大手を振ってわが者顔であった嫌な時代であった。昨夜書いたように、菊池容斎や鈴木松年の作品には、いかめしい明治時代をぷんぷん匂わせる絵がたくさんある。それらがほとんど忘れ去られ、夢二の展覧会が毎年どこかで開催されているのは、人気画家であるから当然として、もっとその本質を考えた方がいいのだろう。
 今日取り上げる夢二展を去年の夏に高島屋で家内と見た。夢二の作品は何度も見る機会があるので今さらと思うが、ついでがあったので見た。会場では撮影OKの場所があって、等身大の夢二の切り抜き写真が、夢二デザインの便箋などを販売した店を再現した模型の傍らに立てられていた。その写真を撮ったはずなのに、帰宅して調べると写っていなかった。等身大パネルによれば背は160センチほどであったようで、夢二はあまり高くない。明治人では平均的なのだろう。それはいいとして、本展を見た後、NHKの10年ほど前に古い番組の再放送で夢二を取り上げたものを少しだけ見た。ドイツの若い男性が夢二の研究家か収集家で、夢二の作品を持っていて、それを紹介していた。若い女性像で、夢二のどの絵にも出て来るような細面の特徴ある顔だが、髪が黄色に塗られている。そして、キモノではなく、ドレスのようだ。ドイツのその青年は、その絵のモデルは西洋人であると思っていて、それが誰かを突き留めようとしているらしかった。夢二の女性像はどれもよく似ているのでモデルが必要なかったように思えるが、そうではない。モデルがいなければ情感を表わすことは出来ない。夢二は晩年にアメリカからヨーロッパを旅した。そこで現地の女性をモデルに描いたことは充分あり得る。先の番組ではヨハネス・イッテンの奥さんが登場し、夢二が描いた多くの墨絵を紹介していた。夢二がドイツに入ったのはヒトラーが政権を取る前年の1932年で、確かヒトラーを半ば戯画化した素描も残している。大逆事件以降、世界的に嫌なムードが蔓延し、夢二は見ることはなかったが、やがて日本は大打撃を受ける大戦に突入して行く。それはさておき、本展はロートレックの石版画ポスターも展示され、ほぼ同時代に活躍した東西の画家を比較しようという内容であった。ロートレックは夢二より20年早く生まれ、また死んでいる。夢二がフランスでロートレックの絵を見たのかどうか知らないが、素早いタッチで描く点で両者は確かに似たところがある。また、商業的な分野での活躍でも共通するが、夢二は官展に背を向けたので、グラフィック・デザイナーつまり印刷を前提にした絵を描くことで収入を得る必要があった。官展で評判を得ると、地方の金持ちが作品を高値で買ってくれるが、それに反旗を翻すとなると、挿絵などを大量に描いて数で勝負ということになる。
 夢二とは同世代の川端龍子にように、本の版下絵を描きながら院展を目指し、やがて青龍社を旗揚げする画家と比べると、夢二は龍子にように超大作主義はなく、また版下画家のイメージが強いが、そのことが画家としての格を決定するものではないことは、開催される展覧会の数からでもわかる。夢二人気は印刷によって全国に広まったと言っていいが、それだけではないだろう。本展で筆者が注目したのは、夢二を文人画家と捉える見方だ。それは初めてお目にかかることで、そのことを本展以降たまに思い出す。100年後には日本の文人画家の新たな見方が定着しているとして、蕪村大雅の大家のすっと後に夢二の絵が並んでいるのは夢ではないかもしれない。桑山玉洲ならどのように夢二を評したかと思うが、現在の夢二研究家が夢二こそは大正時代を代表する文人画家と見ているとするならば、これはなかなか面白い。文人画家は鉄斎が最後と言われるが、文人画の魂は大正時代の画家に移植された。その中のひとりが夢二との見方を取るならば、文人画の定義を変える必要もあるだろう。文人画はもともとは中国では職業画家に対するものだが、日本では蕪村大雅は金を得るために描いた。その点では職業画家であり、文人画家とは言えないが、日本は日本の考えがある。絵を換金するために描いても文人画家と呼ばれるのであれば、夢二もそうあっていいことになる。それは、文人画の定義を広げる必要があるが、「文人」とあるように、詩文を作る才能が必要だ。先日『うた・ものがたりのデザイン』展の感想を書いた。日本の諸工芸は伊勢物語などの古典から和歌な物語などを引用する伝統があり、日本美術は文学と強い結びつきを持っている。それは夢二にも言えることで、夢二の絵に歌が書かれることは珍しくない。つまり、詩文と絵を一体化させた絵を描いたという点で夢二は文人画家となる。そこでまた最初に書いた先日落札された秋水宛てのはがきを思う。そこには宛名書き以外の文字はなく、絵が夢二と秋水の思いをそっくり代弁している。その絵は楽譜の表紙や雑誌の挿絵に使われればまた違った見え方をするだろうが、はがきの表書きと一体化することで、絵の真実味、凄味が一挙に増幅している。そして、大逆事件という、命がかかった事件に因んだものであるだけに、蕪村や大雅の幸福な絵とは違って、それこそ本来の中国の文人画に匹敵、あるいは凌駕するほどに人生の深淵さを伝え、夢二を文人画家と呼びたい人の意見にうなづかされる。15万円程度の落札なら入札してもよかったが、今の筆者はもっとほかに注目する画家が何人もある。
by uuuzen | 2015-02-11 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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