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●『新印象派 光と色のドラマ』
児としてどれほど名を馳せたのか、31歳で死んだのであるから、スーラは有名であったとしても、その甘美さを充分享受することはなかった。代表作の『グランド・ジャッド島の日曜日の午後』は25歳の作品だ。



●『新印象派 光と色のドラマ』_d0053294_1575213.jpgその意味では天才と言ってよいが、それから6年の間に描いた数はとても少ない。全作品を集めてもようやく大きな美術館で展覧会が開催されるのに間に合うほどで、また全作品が一堂に介することは不可能なので、人気の割りに、その作品をある程度まとまった数で見る機会は乏しい。展示されても数点がせいぜいで、本展もそうであった。「新印象派」は批評家がスーラの点描作品を見て名づけたが、本展は羊頭狗肉の内容と言ってよく、スーラ以下ずらりと並ぶ大勢の画家はみな2,3流で、数年に一度は同工異曲の展覧会が開かれる。それで本展はチラシを見た段階で、どういう内容かわかったが、券を入手したので見に行った。去年11月10日、あべのハルカスだ。この美術館は近鉄百貨店所有であるから、どういう企画展が開催されるかはおおよそ予想がつく。前にも書いたが、百貨店での展覧会は作品を借りる先の縄張りのようなものがあり、それぞれの百貨店で得意とする分野がある。ハルカス美術館は近鉄が自前で企画する場合もあるが、他の百貨店と同様、巡回ものを引っ張って来る場合もあって、本展は後者だ。巡回展はセットされたものを会場を変えるだけなので楽なようでも、企画段階で尽力に加わる必要もあるはずで、ただ単に会場を用意すれば済むということでもないだろう。もちろんそういう場合もあるだろうが、本展はどうか。今は東京か横浜でやっているが、似た内容の展覧会をしたことのある美術館はなるべく避けようとの思いはあるはずで、ハルカスはその点出来たばかりであるから、どのような内容の展覧会でも当分は人が入るだろう。それでも筆者の見るところ、近鉄百貨店が開催する展覧会はどれも地味で、ぜひ見たいと思うものがきわめて少ない。これは展覧会に関しては他の百貨店に遅れを取っていると言ってよく、またそれは長年の積み重ねであって、10年や20年で見違えるものにはならない。とはいえ、そういうことを感じているのは筆者のように半世紀の間、展覧会をたくさん見続けて来た者が感じることで、今の20、30代は察知出来ないし、またその必要もない。本展は想像どおりの内容であったが、こうして取り上げるのは、物事はたった一度の経験でいいとは限らないことを思うからだ。似た内容の展覧会が数年おきに開催されるのは、その数年で新たに若い美術ファンが育つことと、人気のあるものは何度でも見たいという人々の要求に沿うためだ。つまり、日本経済が現状をある程度維持出来る限り、外国から作品を借りて来る似た内容の展覧会は数年ごとに開催され続ける。現金なもので、美術展は景気と大いに関係しており、元が取れないとなると、百貨店での展覧会はまず金のかかるものを開かない。それは国立の美術館や博物館の仕事となって、ま、そういうものだけを見ても充分で、百貨店での展覧会はさほど重要ではないと言える。百貨店にすれば何かついでに買ってくれる客に来てほしいから、大勢の客を集めやすい内容にする。これは誰でもよく知っている画家なりの作品を含むことだ。その点、本展はスーラという一級の画家の作品を展示するから、それがごくわずかな数であっても、チラシやチケットに印刷して宣伝に大いに務めることは謗られるには当たらない。今三つ折りの豪華なチラシの表紙に印刷される「もっと近くでみつめてほしいの。」という言葉に見入ってしまった。シニャックの「髪を結う女」の部分図で、細かい点描で埋まる。このキャッチ・コピーは、持って来られたスーラの絵が小さくても、点描を間近で見ると凄さがわかりますよという、どこか悲しさが漂いはするが、正直な企画者の思いを伝える。つまり、「グランド・ジャッド島」のような大画面の超大作が並ばなくても、見応えがありますよという自負と、いかにして鑑賞すべきかという教育者的な立場も表明していて、なかなかよく考えられている。
 とはいえ、筆者のように、新印象派と称される画家たちの作品を何度も展覧会で見て来た者にとっては、どれか1点でも新たな思いをさせてくれる作品に出会えれば足を運んだ甲斐がある。そして本展ではそれがあった。そのために今日は感想を書くが、本棚から引っ張り出したのは2冊の図録だ。隣家の3階にも新印象派の分厚い図録を置いているが、本展を取り上げることを思いついたのは深夜11時過ぎで、真っ暗な隣家に入ることは出来ない。それで手元の2冊を参考にするが、1冊は『スイス・プチパレ美術館秘蔵展』だ。この美術館の所蔵作品展は今までに大きなものだけでも3回開かれている。筆者が最初に見たのは20代初めであったと思う。その図録もあるが、手元に取り出したのは1983年5月21日に梅田大丸ミュージアムで買ったものだ。最初に見た時の図録より作品数が多く、またカラー図版も多い。この美術館の作品はたいていは2,3流と言ってよいが、20代最初に見た時、これが油彩画の醍醐味かと、こつんと胸に響くものがあった。白黒図版ながら、今見るとその時の思いが蘇る作品がある。たとえばマクシミリアン・リュスの「アベス通りの食料品店」だ。大勢の人をやや高めから描き、ざわめきがうまく描かれている。この絵のように、描いた画家たちの生活や季節、陽射しや喧噪など、どの絵からも生きた鼓動のようなものが聞こえて来た気がしたのだが、よく知る名画ではないだけに、かえってよかった。よく知る絵であれば、まともに鑑賞しないからだ。「ああ、これね」でたいていは済ましてしまう。ところが、初めて見る絵、初めて接するような画風であれば、まず新鮮だ。その新鮮さが心の中に急速に浸透して行き、絵画の面白みといったものがじわじわと湧いて来る。つまり、絵の見方を学んだと言ってよい。そして、最初に見た20代初めから、次の1983年展では、10年ぶりに接する作品が多かったから、それはそれで過去を反芻する楽しみを得て、なおのこと、このスイスの美術館の作品が気に入った。先に2,3流と書いたが、それは日本から見てという意味だ。またスーラを一流とするのであれば、当然どの新印象派もそうなるしかない。上田秋成が呉春の弟子はみなどんぐりの背比べで大したことがないと評したのと同じことだが、どんぐり勢にはそれなりに個々の魅力があるのも事実で、一流だけでは何事も間に合うことはない。それに、一流がやり残したことはあるし、次の別の流派の一流を輩出するには、先の一流の周囲に無数の2,3流が必要なのだ。本展はそういうことをわかりやすく作品を選択、展示していて、その点が筆者には新しい印象となった。話を戻すと、本展の展示作品は日本各地の美術館、そして欧米の美術館、さらに個人蔵が全体の2割ほどを占め、前述の『スイス・プチパレ美術館秘蔵展』のように、一か所からまとめて借りて来たものではない。新印象派を概観するとなると、そうするしかなかったということだが、多くの所蔵先から借りて来たことは、百貨店での展覧会としてはかなり力が入ったものと言える。スイス・プチパレ美術館からは6点の出品で、筆者にはすぐにわかった。特にアンリ・エドモン・クロスの「山羊のいる風景」だ。1985年に描かれたこの絵は、大きな木の下の陰に多くの山羊が地面にしゃがんで寛ぎ、木の向こうの中、遠景が黄色を中心に光り輝いている。濃淡を強調したパステル調で、点描はもちろんだが、清々しい空気が感じられて、昔から筆者はよく覚えている。本展はプロローグとエピローグを除いて全5章で構成され、エドモン・クロスの作品は第4章に2点、第5章に6点、エピローグに5点と、シニャックの20点に次いで多い。スーラは8点とパレットで、シニャックもパレットは展示されていたが、スーラの後を継いだのがシニャックであるから、このふたりを除外すれば、本展はエドモン・クロスを見るためのものであったと言える。彼に次いで多いのは前述したマクシミリアン・リュスで、10点だ。リュスの作品もスイスのプチ・パレからは1点だけ借りて来られたが、クロスに比べるともっと男性的で、また写実的な点描だ。クロスも写実だが、スーラを進化させたような、一種文様的なモチーフを好み、その傾向はナビ派のモーリス・ドニに受け継がれる。クロスのどの作品か忘れたが、湯気の白い半透明のむくむくを目立つように描いた作品があって、浮世絵の影響を感じた。描く対象を単純化し、厳格に構成するという手法はスーラに学びながら、似た気質でもあったのだろう。
 点描はこつこつと時間をかけて描くので、思索的になりやすい。スーラの絵はスケッチをたくさん積み重ね、気に入った形態を導き出した後、それらをひとつの画面に合成するという手法を取る。「グランド・ジャッド」はその代表作で、描かれる多くの人物は、個々ばらばらに写生したものだ。それを組み立てると、わざとらしさが出やすいが、「グランド・ジャッド」にあまりそれが感じられないのは、構成力が優れていることと、写生した時に雰囲気を忘れずに持続したからで、そこにもスーラの根気よさ、悪く言えば粘着性が現われている。シニャックはスーラとは色感が違い、また画題も全然違うが、スーラを見た後では新しさは伝わるものの、大味感は否めない。そして同じような点描技法に頼るとなると、やはり色感と画題の違いに独創性を求めるしかないが、クロスとリュスはよく個性を発揮した。それを言えば、本展に並ぶすべての画家がそうだと言えるが、日本ではスーラやシニャックの陰に隠れたようなクロスやリュスの作品はもっと多く紹介されていいだろう。3年前に『アンリ・シダネル展』があって、筆者はようやく日本であまり馴染みのない渋い画家の個展が開かれると思い、会期中に二度見に行ったが、彼も点描の画家だ。ただし、本展では展示されなかった。それはさておき、クロスとリュスの作品は本展ではかなり目立っていて、筆者は前者の方を好むが、後者もなかなか個性的であることに驚いた。今までにもリュスの作品は見て来たが、本展では「工場の煙突」や「シャルルロアの高炉」、「シャルルロアの工場」が面白かった。本棚から取り出したもう1冊の図録、1985年6月に買った『点描の画家たち』から引用すると、リュスは貧しい出で、木版画家のもとで修行し、夜学で絵画を学んだ。雑誌の挿絵の仕事をして生活費を稼ぐものの、印刷技術の進歩によって職を失い、絵画で身を立てる決心をしてスーラの影響を受ける。そういう苦労人であるので、シニャックのようなどこか金持ちの坊ちゃん風とは全く違って、色合いは黒が目立ち、そこに赤などの原色が混じっているという強烈な画面があって、新印象派の中でもかなり異色だ。つまり、クロスやリュスはフランスでは2,3流ではなく、1.5流くらいの評価はあるのかもしれない。このふたりの絵がたくさん鑑賞出来たことが本展の最大の収穫であったが、エピローグも面白かった。プロローグはモネ、ギヨマン、ピサロ、そしてスーラとシニャックを並べたが、エピローグはシニャック、クロス、マティス、ドランなどで、点描からフォーヴに連なることが示される。また、点描からマティスが生まれて来るという視点は新鮮で、なるほどと思わせられた。モネはさらにその後も変貌し続け、現代美術の端緒を開いたともされるから、画家の仕事は将来どのように評価され、受け継がれて行くかわからない。スーラとシニャックだけ見れば充分ではなく、あまり知られないが、味わいのある画家の作品を多く見て新しい感動を得たいものだ。その思いは、20代初期に百貨店で見た『スイス・プチパレ美術館展』ですでにあった。さて、会場入り口近くに、「グランド・ジャッド」の実物大複製が展示してあった。そこにはほとんど人がおらず、もったいないことであったが、複製は無視されやすい。それはマチ針90万本を使って再現した実物大の「模写」で、日本人男性の作品だ。どれほどの日数と経費を要したのだろう。その写真を最後に載せておく。ついでに書くと、本ブログの最初の3,4年のある日に、「グランド・ジャッド」のレゴによる復元を撮影したものを載せた。そのことを1週間ほど前に気づきながら、先ほどいくら調べてもそれがどこにあるかわからない。文字の検索は出来ても画像のそれは出来ない。つまり、画像は忘れやすいし、探しにくい。それで点描派の画家の展覧会もしばしば開催される。筆者のように忘れやすくなって来たとなると、毎年でも見た方がいいだろう。
●『新印象派 光と色のドラマ』_d0053294_159798.jpg

by uuuzen | 2015-02-07 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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