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●緑のタペストリーと絨毯、その25
みとなることを何かしているかと自問する。元気をもらうという表現があるが、だいたいそれは元気に触れて感化されることで、筆者の場合は音楽を聴くことかもしれない。



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自己を鼓舞するには体が自然と動くような激しい音楽がよいが、そういうものばかりでは疲れるので、静かな音楽を挟む。音楽を聴きながら毎晩ブログを書くので、聴く音楽に影響された感じの文章になっていると思う。昨夜は特にそう思った。聴き続けていたのはビル・フリーゼルの「THE DISFARMER PROJECT」で、そのしみじみした音に心が引き寄せられながら文章を書いた。音楽に書く内容が影響を受けるとは頼りない話かもしれない。聴く曲が違えば文章も違ったものになるとすれば、自分がないようなものだが、聴く曲を選ぶは自分であるから、そうとも言い切れない。音楽を聴くのはちょっとした雰囲気作りのためで、それが励みになっているとは本当は思わない。励みというのはもっと奥深く留まっている何かだ。確固とした核、神のような絶対的なもの、信念という言葉と密接につながったもので、また聖なるものでもある。であるから、他者には口外しない。それをすれば穢される気がするからだ。心の中で大事にしているそういうものは誰にでもあるのではないだろうか。ではそれは人間以外の生物にもあるか。人間は他の生物になれないので、そのことは今後もわかりようがない。だが、生き物として共通しているから、人間が思うことは他の生物も思っていると考えていいのではないか。野良猫が路上に捨てられていた人間の赤ちゃんを温め続けて死を免れさせたというニュースを聞くたびに、同じ生物であるから、死を拒否して生を長らえさせようと行動することは本能であると思う。それでも人間は自分の信念に振り回されて他人を殺害することもあり、励みのヴェクトルが逆に向かえば取り返しのつかない行動を起こすことを知っておかねばならない。となると、励みは個人の勝手で、懸命に何かをやっている人を見て別段誉めるには値しない。淡々とやり続けることにも励みは必要で、他人に目立つことを大げさにしている人ばかりが元気を他者に与えるということはない。それはさておき、今日は終日雨で、一歩も外に出ずに3階で文章を推敲していた。もちろんパソコンを使ってのことで、その推敲を一区切りさせてこれを書き始めたが、昨日の続きは気が重く、また埋め草として用意している写真を使うことにした。「緑の絨毯とタペストリー」を思い出し、今日はそれについて投稿しようと思ったのはふたつの理由がある。ひとつは話がややこしくなるので書かないとして、もうひとつは昨日四条大宮のバス停で今日の最初の写真を撮ったことによる。木造家屋の2階の窓が全面蔦で覆われている。造花のようだが、違うかもしれない。筆者のカメラのズームを最大にして撮ってもよくわからない。たぶん造花と思うが、緑がとても少ない地域なので、それでも目を引き、そのまま見つめていたくなる。全くの緑のタペストリーで、ただの板張りにせずに少しでも緑色をとの考えがうかがえて気が和む。造花程度でその気分になっていてはいけないが、それほどに都会は緑が少ない。この緑とは植物の葉が覆い尽くしている状態を言うが、造花でいいのであって、本物の蔦であれば家全体を覆い尽くかもしれず、使われなくなった家屋以外にはほとんど見ることが出来ない。前に書いたように、建物に蔦が目立つようになると、そこは死に向かっていると考えてよい。もちろん兵庫県立美術館のように、そうでない場合もあるが、筆者が見かけて写真に撮るのはだいたい廃屋かそれに近いさびれた家で、そういうものに惹かれることは最初に書いた「励み」からすれば、それは逆のヴェクトルであって、よくないことと自覚した方がいいかもしれない。
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 今は蔦が枯れている季節なので、今日の投稿はふさわしくないが、昨日撮った写真から去年同じような写真を撮ったことを思い出した。先ほどヤフー・ボックスからダウンロードしたのが今日の2,3,4枚目で、2,3は夏に息子が暮らす伏見区、4枚目は夏であったか、伊丹市立美術館の近くで撮った。この4枚目は小さな診療所だと思うが、窓を半ば覆う形で木が伸び、長い間閉ざされたままではないだろうか。活気を感じなかったのでおそらくそうだろう。それを言えば2,3枚目もそうで、廃屋ではないか。蔦が生えることは陽当たりがそれなりにある。そして蔦が陽射しを浴びて、建物内部にその温度が伝わらない。窓が閉ざされたままで内部は暗く、湿気が多いだろう。まるで筆者がこれを書く3階の部屋のようだ。寒いこともあって、窓は全部閉じたまま、カーテンも閉めている。暗い部屋で蛍光灯を点け、明るいパソコンの画面を一日中睨んでいる。そして蔦で覆われた建物の写真を取り揃えてYOUTUBEの「THE DISFARMER PROJECT」を繰り返し聴いている。窓の外は雨音で、蔦が忍び寄って来る気になる。何の励みもないような、もはや夢の中にいるような雰囲気だが、もう1段落半を書かなければ本当の睡眠の中に入って行くことは出来ない。それで改めて自分を鼓舞するが、さて次は何を書こうかと、蔦の細い茎の先端部のような気分になる。蔦には人の眼に相当する部分があるらしく、次にどこへ吸盤を据えつけ、どのように伸びて行けばいいかを知っている。建物がなければ地面を覆い始めるから、何かに取りつくものが欠かせない。このブログも同じで、思いつくものがなければ先には続かない。文字が連なって行く様子は緑ではなく、黒のタペストリーのようなもので、筆者は毎晩織物を作っている。音楽も同じで、始まりがあって終わりがあり、その間はずっとつながっている。では筆者の文章が音楽的かと言えば、それはないだろう。筆者はよくこのブログを即興で綴っていると書くが、それは本当の気持ちで、その音楽によく使われる言葉を用いるところ、音楽的でありたいとは思っているのだろう。リズム、勢い、各段落の文章量の配分、起承転結など、音楽を意識していると言える。では蔦がすっかり建物を覆う様子はどのような音楽になぞらえ得るか。10年近く毎日投稿し続け、飛び出しボーヤや蔦、円形の窓、満月など、気に留めて撮影している対象が増えて来たが、蔦の繁茂に関しては毎日数千の文字数を連ねることとつながっている気がする。無意識のうちに蔦に着目し、撮影して来ているが、その深層心理を探ると、自分の性質を客観視出来て、今後の励み、鼓舞に役立つ気もする。自分を励まさねば毎日長文を投稿出来ないというのは情けない話か。誰も励ましてくれないのであれば自分で励ますしか仕方がなく、それは蔦も同じだろう。それを自己責任と今風に言うことが出来る。自分でやったことは自分で始末をつける。あたりまえだが、そうでもないところがある。自分でやったことは自分が知らない間に他者に影響を及ぼす。その影響まで責任を取ることが出来るか。蔦は勝手に繁茂し、筆者は音楽を聴きながら時としてそれや蔦の繁茂に影響されて文章を書く。どこからどこまでが自己責任か。この文章はそうだろうが、筆者が何もないところから文章を綴ることは蔦が何もない虚空に繁茂出来ないのと同様、不可能なことだ。世界はみな絡まっていて、かくて自己責任という言葉はとても無責任に響く。
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 とはいえ、自己の責任において筆者はこれを書き、投稿し、誰かの抗議があれば対処せねばならない。ブログとはいえ、公にすることは責任があることだ。では蔦はどうか。勝手に家屋の壁面などを覆い尽くし、その家の所有者にとっては厄介物だろう。だが、好きで生やす人もあって、蔦としては自己責任においてせいぜい元気よく自己を励ましながら繁茂して行くしかない。それがいいかそうでないかは人の勝手で、蔦の知ったことではない。人間が生きて行くのもそれと似ている。何かを励みとしながらその何かは人によって正反対の物事であったりする。ある人の信念は別の人にとっては全く理解出来ないことがあるかと思えば、大いに迷惑な場合もあって、どちらが正しいかは絶対的には決められない。その絶対を人間として常識と言ってみたところで、常識が人の考えによって違う。大多数がいいと決めたことはいいのであって、そうでないものはよくないとされる。そんな無茶な話があるかと思う自由は人間にあるし、結局のところ、誰もが好き勝手に自己を励ましながらやって行く。摩擦が起きて当然で、それが歴史ということだ。世界や国家の歴史に無縁の人がほとんどとしても、自己の歴史には関心があるだろう。それが多彩であるほどに豊かな時を過ごして来たと満足するであろうし、それには人との摩擦が欠かせない。平穏無事を願うのは誰しもだが、平穏無事であっても体も心も動き続け、毎日何かと出会う。出会いは摩擦を引き起こし、蔦が伸び放題になるようにたとえば文章をだらだらと書かせる。摩擦が励みの源だ。摩擦で生じた心の荒立ちを鎮めるために筆者は書いているところがあるだろう。埋め草を言えば毎日の投稿がそうであるかもしれない。ちょうど蔦のタペストリーがどの葉も区別がつきにくいのと同じで、また幾分かがなくなっても全体はさして変化がない。それがわかっていてなお自己を鼓舞するのは単なる惰性の力かそれとも心の内部にあると信じたい聖なる何かを確認出来ると思うからか。筆者は他者から元気をもらうことがほとんどない気がする。それは傲慢な考えで、もう少し他者に感謝すべきだろうが、こうして書いていて他者を意識することはない。反応する人もあればそうでない人もあり、他者のことは筆者にはどうすることも出来ない。蔦の細い茎の先端が、次はどこに小さな吸盤を据えるかを自覚している程度には筆者はこのブログの先のことや明日すべきことを知っているが、ただそれだけのことで、誰も蔦のことに注意を払わないのと同様、筆者のブログも自然にそこにある。またそうあってほしい。さて、続きは睡眠の中で。
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by uuuzen | 2015-01-26 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
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