●城南宮、その1
と言おうか状と言うのが正しいのか、ともかく去年3月に家内が仕事場の同僚から2名入場可能な印刷物を1枚もらって来た。京都伏見区にある城南宮の拝観が出来るというもので、毎年地元の氏子に配布されているものらしい。



d0053294_1213824.jpg城南宮は昔から知っているし、毎春必ずTVで曲水の宴が開催された当日の夜にそのことについて報じられる。一度訪れたいと思いながら30年ほど経った。人生とはそういうものだ。気になりながら、何年もあっと言う間に過ぎ去る。それはともかく、せっかくいただいた招待状であるので、これは縁があったと思い、出かけようと思ったが、去年いっぱい、いつでも利用可能とあったので、ぐずぐずしているうちに大晦日になった。それで年末で慌ただしいのに、市バスに乗って出かけた。春に出かけていれば花がたくさん咲いてよかったものを、花がひとつもない真冬に出かけるというのは、よほど筆者がずぼらな証拠だ。ま、それでも招待状を無駄にせずに済み、こうしてブログに感想を書くことも出来る。写真をたくさん撮って来たので、4,5回は続けると思う。とはいえ、それほど書くべきこともなさそうで、脱線が大半という状態になるだろう。城南宮を訪れ、今度は花がたくさん咲いている時期に出かけたい気持ちはあるが、たぶんそんなことにはならないだろう。従姉の旦那さんは今76歳であったと思うが、市バスの敬老乗車券を携えて毎日のように京都市内の寺社仏閣を訪れている。ところが、拝観料が高いので、中には入らないらしい。せっかく訪れているのにそれはもったいないと筆者は意見するが、連日有料の施設を訪れると拝観料の積算はそれなりに嵩む。本当に見たければ拝観料を払うが、見たいとは思わないのだろう。何が目的で市バスに乗るかと言えば、ただ乗っているだけでよい。内田百閒と同じだ。目的地に着き、その内部をじっくり観察したいというのではなく、目的地に着くまでの道中が楽しい。有料の寺社仏閣を見ればそれなりに目先が変わって楽しいのはあたりまえだが、それより楽しいのは市バスに乗ってどこかへ向かっているという感覚なのだ。そのことは何となく理解出来る。そう言えばわが自治会にいる仏師のOさんは、家の外に出て道を歩く観光客をぼんやりと眺めているのがとても楽しいらしい。Oさんは筆者と同じ年齢で、しかも筆者と同様、夜になって気力が充実し、仕事に精を出すそうだ。案外孤独で、それで昼間はぼんやりと家のすぐ近くの道を往来する観光客の姿を見るのが楽しいのだろう。何を観察するかのか知らないが、見られていることを知らない人たちを見ることはTVを見るのと違ってより現実的で、その現実性を傍観している自分を自覚するのは半ばぼんやり半ば覚醒といった状態で、仕事で気を張り詰めていることとうまくバランスを保つのに必要なことなのだろう。それに家の外にして道行く人を眺めるのは金がかからず、遠出する必要もなく、とても手っ取り早い。誰でも気を休める時間は必要で、それを口実に筆者は毎晩このような文章を綴っているが、気休めになっているのかどうかはわからない。今日は大量に酒を飲んだので、かなりの酩酊ぶりだが、それでもこうして書いているのは自分に課したことをやり遂げたいとの思いからで、それは気休めとは反対にとても気を使ってしんどいことではないか。それを無理してこうして書く自分のことを意志が固いとはさして思わない。習慣になっていることであり、それにしたがうだけだ。それはさておき、城南宮はその名のとおり、京都市内の南部のお宮で、南部に馴染みのない人には訪れる機会がないだろう。筆者の母の姉は伏見に住んでいたし、従妹は今も伏見にいるので、城南宮は全然縁がないというほどでもない。だが伏見も広い。そして筆者はほとんど伏見区がどのように広がって、街路がどうなっているのかも知らず、城南宮の場所も確かめたことがない。何度かその傍らを車に乗せてもらって通り過ぎたことがあるが、車を運転しない筆者にはその道がどこにあるのかわからない。
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 去年の大晦日、息子のアパートに出かけた。息子はいなかったので、家内は部屋を掃除し、そしてふたりでまた帰途に着いたが、その日は城南宮の招待状の有効期限の最終日であったので、何が何でも訪れようと決めていた。市バスの停留所に城南宮道というのがあって、そこが最寄であることはわかっていた。歩いたことのない町を目的地目指して行くのは筆者は好きだ。地図をたいてい持っているが、その日はそれがなかった。それでバス停を下りてすぐ、最初に出会った50代の女性をつかまえて城南宮にはどの道を行けばよいかを訊ねた。バス停の近くにはその女性しか人がおらず、筆者は選ぶことが出来なかった。歩いている人がとても少ない地域で、観光客が多く、また駅前に近く住む筆者にはとてもさびれて見えた。実際その付近はまた田畑があり、しかも工場や倉庫が目につく。嵐山も辺鄙な場所だが、伏見区でもその辺りはかなり殺風景で、人影がほとんどない。そのことをバス停に降り立って即座に感じたこともあって、筆者は北からやって来た女性に声をかけた。声をかける直前、その女性は険しい顔をしていて、多くの不幸を抱えているように見えた。そのことを感じた筆者は、運が悪いなと一瞬思ったが、「城南宮はどの道を行けばよいですか」と声をかけた途端、女性は瞬時に顔が明るくなり、10歳は若返った。その笑顔がとてもきれいで色気があり、先ほどの険しい顔とはあまりの落差を感じてとても驚いた。そのことを家内に言うと、同感と返事した。「あ、その先の辻を右に折れて真っ直ぐです。けっこう距離がありますよ」。ただそれだけであったが、女性に礼を述べ、早足でその四辻に向かった。その女性の険しい顔が親しい人に出会った時のように明るく変わったことを思い出すにつれ、筆者も同じかもしれないと思う。へらへら笑いながら歩くことは出来ないにせよ、せめて険しい顔は避けるべきだろう。そんなことでは福も訪れない。筆者が嬉しかったのは、その女性は普段は自覚しないままに人生が最悪のような怖い表情をして歩いているのに、急に道を尋ねられただけで女性本来の、あるいはその女性にすれば最大の笑顔がこぼれたことだ。どんな人でも笑顔が素敵なのはあたりまえだが、その女性は眉間に皺を寄せて怖い顔をして筆者に向かって歩いて来ていただけに、笑顔に変化したことはとても印象深く、その後城南宮を訪れ、内部を拝観する間、ずっと気分がよかった。女性は笑顔ひとつで世界を変えることが出来る。そのことをすべての女性は心しておいた方がよい。どんな厳めしい男でも女性の素敵な笑顔の前では心を解す。そこでまた思うのは、筆者が道を尋ねた女性はなぜ一気に顔をほころばせたのか。もともと明るい女性であるからか。あるいは筆者の態度に反応したのか。つまり、筆者でなければ笑顔を見せなかったのか。それはその女性に質問しなければわからないが、訊いたところで女性も返答に困るだろう。そこで筆者は女性がほとんど意識せずに笑顔になったことを尊いと考える。というのは、筆者が道を尋ねられた時、同じように破顔するかと言えば、どうもそうではないような気がする。いやいや、家内に言わせると、筆者は若くてきれいな女性と話をしている時は、普段絶対に見せない笑顔になっているらしい。これは誰しも相手次第ということかもしれない。となると、筆者が道を尋ねた女性がぱあっと明るい顔をしたのは、筆者に対して瞬時に好感を抱いたということになるか。酩酊が手伝って自惚れがはなはだしいというべきだが、筆者としてはバス停を下りてすぐ、その女性をつかまえ、そして笑顔で対応してもらえたことに大いに気をよくし、その勢いのまま城南宮に向かった。写真の説明をしてもよいが、次回としよう。
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by uuuzen | 2015-01-25 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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