●切株の履歴書、その5
竿竹を自治会の監査役のFさんから借りて来ようと思っている。去年の秋はその先端に籠を紐で結わえ、テニスボールを50個ほど用意して「風風の湯」の前に広がる桜の林の中央で、自治連合会主催の学区民体育祭の玉入れの練習をした。



d0053294_1123466.jpg

かなり古びた竹で、見た目よりかなり軽い。それがよい。それを借りて何をするかと言えば、先端に折り畳み式の鋸を取りつけ、脚立に乗っても届かない合歓木の枝をあちこち切る。毎年1,2月にその枝払いを行なう。花は夏に咲くから、真冬は冬眠中で、鋸を入れてもあまり痛がらないだろうとの思いからだ。TVショッピングで高枝鋏の宣伝をしているのをよく見かけるが、それを買う必要があるほどには、気になる枝はたくさんない。それでも不思議なもので、少し切ると、もう少しという気になり、去年の秋は椿をかなり切った。それが陽射しを遮ってほかの草花に光が当たらなかったからだ。かなり大胆にバサバサと切り落としたが、光の射し具合はかなりましになった。それでも大きな鉢に植えた蘇鉄にはあまり光が当たらず、もう少し椿の枝を切らねばならないが、蘇鉄と椿のどちらが大事かと言えば後者なので、狭い庭では光がどこにどの程度当たるかを考えねばならず、頭の痛いことだ。ともかく、最も大きな木となっている合歓木は2月中には剪定を充分にする必要があるが、脚立や太い幹に乗って作業をしている間に落下しかねない年齢になって来ていて、あまり気が進まない。本当は剪定などせずに、伸び放題にしてやりたいが、植物の闘争は激化し、かえってかわいそうかもしれない。植物に意志があるかどうかとなれば、筆者はあると思いたい。去年大志万さんと住吉神社に行った時、彼女は神木にはあまり近寄らない方がいいと言った。その理由を訊かなかったが、何となく筆者もそう思う。人に呪をかける藁人形は神社の神木に釘で打ちつける。そのことからしても神木はそっとしておくのがいいように感じる。わが家の庭にある木はどれも特別気に入っているのではない。特に大事にしているとなれば、それは筆者の念が乗り移り、他者がいつか伐採すると、その人に災いが降りかかるかもしれない。そんなことはいやなので、毎日眺めて大事にしているということはない。だが、縁があるとは思っているから、根元からばっさりという気にはなれない。隣家を購入した時、裏庭にそれなりにたくさんの種類の木があって、そのうち筆者は見栄えの悪い、伸び放題の1本を大胆に半分以下の体積にした。つまり、どの木も根元から切り取ってはおらず、枝を剪定しただけだ。せっかく太く成長している木を根こそぎにしてしまうことはいやで、それはどの木にも意志があると思っているからだろう。神木と呼ばれる木があることは、どのような木もその境遇になり得る。先日のTVで間寛平が木登りに夢中になっていると言っていた。わが家の合歓木はいちおうは地面から2.5メートルほどの太い幹分かれの部分までは登ることが出来る。その上に立って枝を切っていると、落下する心配以上に、高いところから周囲を見下ろして気持ちがよい。もっと上まで登れるのであれば登りたい。そのような背の高い樹木を伐採するのは誰でもいやかと思うとそうでもない。昨日のネット・ニュースで、東京大田区の個人所有の古い森が開発業者によって全部の木が切り取られたことを知った。土地が別人の所有になれば仕方のない話だが、その森に棲んでいた野鳥などの動物はどこへ移住するだろう。
d0053294_1113859.jpg

 昨日の午後に裏庭の合歓木の隣りにあるグミの木の細い枝先にみかんを横に切って刺しておいた。近所でそのようにしている家を二軒見かけ、それに倣ったのだ。野鳥がそのみかん目当てに飛んで来る。先日みかんを2箱ネットで買ったのだが、4Lと5Lの大きいサイズで、しかもあまり甘くない。大型のみかんはたいていそうだろう。それでスーパーでも小粒より安い。大型なので、細い枝では安定が悪い。それもあって1個を横半分にし、2か所に設置した。どんな野鳥が来るのか楽しみにしていると、今朝家内が黒い鳥が留まって食べていると言う。ヒヨドリであった。珍しくないので、多少がっかりした。1個はすでに空で、もう1個を半分ほど食べている。大食漢だ。その皮を午後に取り去ろうと思うと、1個が見当たらない。地面に落ちていたのを拾うと、内部の薄皮がすっかりなくなっていた。鳥はそこまで食べない。家内は猿と言うが、まさか。きっと猫だ。だとして、そんな皮まで食べるほどに空腹であることを思うと憐れだ。早速またみかんを枝に刺しておこうと家内に言うと、阻止された。糞をあちこちばら撒かれるからとの理由だが、小さな鳥の糞など高が知れているし、また大量の糞になるほどみかんを与えるには2箱全部が必要だろう。今度は大型ではなく、小粒を買って隣家の木の枝に刺そうと思っている。みかんはFさんや昨日訪問する際に持参したので、もう1箱しか残っていないが、家内はそれを食べるまでは小粒を買うなと言う。ふたりでは食べる速度が遅く、腐らしてしまうものが多いからだ。それはさておき、庭にみかんを置くと、すぐに野鳥が飛来することはわかった。ヒヨドリであってもそれを食べている時の姿を見るのは楽しかった。急にみかんが登場して驚いているかもしれない。そしてそれがなくればもうないのかとさびしく思うかもしれない。1週間程度毎日続けるときっとそうなるだろう。野鳥でも慣れるはずだ。人に慣れるというのではない。ある場所に行けばいつもみかんがあるということを学ぶ。それは野鳥にとっていいことなのかどうか。鳩に餌を与えるなと駅前では注意書きがある。糞で困るからだ。同じことが鳩以外の野鳥にも言えるか。見慣れているうえに人に懐く鳩とは違って、もっと小さな、見慣れない色をした羽毛の小鳥は、たまにみかんを与えるくらいは自然を侵すとは言えないのではないか。だが人間は野鳥のことなどどうでもよく、街中に長年あった森でも金のために平気で更地にする。だが、突如伐採されることは人間にもある運命で、生きている間はそのことを謳歌すればよく、突如訪れるかもしれない死については考えないことだ。いや、話は逆で、常にいつ死ぬかわからないと心のどこかが思っているので、なるべくそのことを意識せずに生を謳歌しようとする。それは木も野鳥も人間も同じで、森を伐採することがよくないとかいいということはない。ただし、それまで豊富にあった森の中の食べ物がある日を境に消失したとなると、野鳥などの動物は困惑する。人間が突如財産を失って途方に暮れるのと同じことだ。それでも小鳥も人間も生きて行かねばならないし、また生きて行くだろう。話を戻して、グミの木の細い枝は毎年たくさん伸びて来る。それでは実が成りにくいのではないかと思って、去年はかなり背丈を縮め、枝もかなり払った。毎年わずか数個の実しかつけず、野鳥の餌にもならないほどだが、その理由を昨日また確認した。筆者の考えでは根元の幹の半分が朽ち果てているからだ。それは地面から高さ50センチ辺りまでで、それより上は丸い幹となっている。幹とは呼べないほどの細さで、直径は5センチほどか。もらった鉢植えを直植えして四半世紀にはなるのに、ほとんど成長していないも同然で、養分はみなすぐ隣りの合歓木に奪われている。植え替えてやればいいかもしれないと今思いついた。だが、それを今の場所から抜くと、合歓木の天下にますますなって、毎年その幹によじ上って竿竹の先端に取りつけた鋸で枝を切り落とす必要がさらに生じる。その苦労を家内は知っているので、毎年根元から切ってしまえと言う。そのような切株状態には筆者の目が黒い間は絶対にさせないが、いつかはそうなる。
d0053294_1131020.jpg

 さて、今日は久しぶりに「切株の履歴書」の題名で投稿する。これは埋め合わせのために用意しているもので、普段以上に気楽に書いている。題名に応じた内容とせねばならないのに、今日はさほどでもないか。グミの木の幹の朽ち果てたことや細さについて書いたので、どうにか題名には関係している。そのグミの木の話をつなぐと、その木は母の兄の家にあったものだ。それを長男が世話していたが、邪魔になったか何かかの理由で、四半世紀ほど前にわが家に持って来た。そして植え替えた。その従兄は今70歳くらいで、怪我や病気をして昔のように元気はなくなり、数年は会っていない。洛西にいるので、会う気になれば1時間かからないが、そのいざという気になかなかなれない。それで会うのは葬式くらいなものだ。会うたびにグミの木はどうなっていると訊かれる。もらった時とほとんど変わらず、しかも実は数個しかつけないと言うと、昔もそうであったとのことで、実をたくさんつけない品種かもしれないが、一度200個ほど実らせたことがあるので、そうではない。実がたくさん出来ればいいに越したことはないが、筆者はその白い小さな花が好きで、自然に枯れるのであれば仕方がないが、自分では切ることは絶対にない。母の兄が大事にしていた、またそれを従兄が持参してくれたからという理由が一番大きい。つまらない貧弱な木であっても、それなりに履歴を持っていて、筆者とは縁があってやって来た。その伝で言えば、今日載せる4枚の写真の切株も同じだ。筆者が目に留めたことは、それなりの縁で、そのことを切株に意識があれば当然感じているだろう。切株は死んだ状態であるから意識があるはずがないとの意見があろうが、死者にも魂があると考えることは出来る。切株の魂が筆者の目を留めさせ、写真を撮らせ、ブログに載せることを意図したと考えることも出来る。それは切株や元の木に対する敬意、つまりある程度長生きして来た存在を讃えたい意識に基づいてもいる。写真の説明をすると、1、2枚目は渡月橋と松尾橋の間の桂川右岸の河川敷で2年前の今時分に撮った。その河川敷は重機が通る仮設道路が造られ、その区域にあった切株は跡形もなくなった。1枚目は年輪を数えると10本ほどで、人間で言えば児童の死だ。飛び出しボーヤは活発でいいが、木は動くことが出来ない。人間にとって邪魔となれば即死させられる。2枚目は中心に輪がふたつあって、元は2本であったものが5,6年後に一体化したことがわかる。この融合は木にとっては仕方がないのか、あるいは友愛の証拠か。そのどちらも正しいだろう。動物であれば他方を殺すが、動けない木では同化するしかない。それにそうなった方が早く太い幹となることが出来る。そういう思いが切株になって露わにされた。3枚目は松だ。まだ新しい切株で、年輪は100近いのではないだろうか。もったいないことだ。奈良国立博物館の本館より50メートルほど西で見かけた。台風で倒れたのか、朽ちて来ていつ倒れるかわからなかったので切り倒されたのか、ともかく木も人間と同じでいつ姿を消すかわからない。切株にされて間もない頃は表面が白木状態で生々しいが、そのうち木肌の色と変わらなくなる。4枚目は去年和歌山城で撮った。人間で言えば骨の髄が空洞になった感じだが、木ではどの年輪部分も同じ質で、写真のように内部が同心円状に穴が開くのは理由がわからない。凄味のある光景で、勇壮であった木の末路を見るようでさびしい。だが、朽ちて土になってもらわねば、新しい芽も出て来られない。そのことは一昨日の最後にも書いたか。やはり今日は埋め草に終わったようで、4枚目の写真で言えば、朽ちた穴の部分みたいなものだ。
d0053294_112886.jpg

[PR]
by uuuzen | 2015-01-24 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


●飛び出しボーヤ、その23 >> << ●城南宮、その1
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
何年も前に書いた文章に感..
by uuuzen at 16:20
はじめまして。興味を引く..
by 文学座支持会元会員 at 11:15
最近あまりに多忙で録画は..
by uuuzen at 15:31
唐突に失礼いたします。ど..
by タイタン at 14:59
暴力事件は訴えても警察が..
by uuuzen at 15:11
地下鉄の件事件になります..
by ネイル at 19:07
上から目線で頭が悪い人
by 名無し at 08:13
上から目線で頭が悪い人
by 名無し at 08:13
漢詩や篆書など、中国のサ..
by uuuzen at 12:57
サーチしました所、ビスタ..
by インカの道 at 11:38
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venusha..
ファン
         ブログトップ
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  © Copyright 2017 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.