●○は○か、その18
を囲むというと、筆者は円卓を連想するが、先ほどネットで調べると麻雀台を囲む場合に使われることが多いようだ。筆者は麻雀をしないが、その卓は4人用で四角だろう。



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卓は卓抜という言葉があるように、丸や四角の形ではなく、高さに関係した漢字だ。それはさておき、円卓を囲んでの中華料理を今度の日曜日に食べることになっている。家内がおいしい酢豚を食べたいと言っていたのでちょうどいい機会か。集まったみんなで話が弾めばいいが、食べるのに懸命で話は二の次になる。それに昔のようにたくさん食べられないから、みんなで皿の料理を取り合う食べ方はあまり気が進まない。となると、○は○かの質問はそうではないということになりそうだ。毎月21日頃に「○は○か」の題名で投稿するようになってもう2年近くなる。早いものだとは言わないようにしたいが、いつもそれを感じる。死んだ友人Nにそれを言うと、いつも同じ答えが返って来た。時が早く過ぎ去るように感じることは楽しいからで、それはいいことだと言うのだ。その言葉どおりにNは60になる前に死んで行った。Nの夢はめったに見ないが、先日はNの顔や姿が登場し、声も聞こえる夢を見た。死者が夢に出て来ることはあまりいいことではないと聞いたことがあるが、根拠のない考えだ。今朝はとても長い夢を見たが、肝心の部分はここでは書けない。それは生まれて初めて見たタイプの夢だ。今まで見なかったのがとても不思議で、また残念であったのに、その対象についてあまり思わなくなった頃になって生々しい形で夢に登場した。あまりに生々しいので、現実と区別がつかないくらいで、夢の中でのそのことを考えた。そして目覚めてもその延長を考え続け、また夢に入ってからも考えていた。夢か覚醒かわからないようなその時刻を、筆者がごそごそと寝苦しそうにしているので目覚めた家内に後から聞くと、午前5時半頃とのことであった。その夢うつつの中で考えたことの最も大きなことは、生と死だ。死んだ人には会えないが、長年会わない人もあるし、それは相手が死んでいるのも同然と言うことが出来る。その反対に、先のNのように、数年前に死んでいるのに、生きている時と同じように夢の中で会話すれば、それは生の実感と言える。つまり、生と死は曖昧なもので、完全に忘れ去ってしまうことが死と同じと言い代えてもよい。ところが、完全に忘れたと思っていても、夢に見ることがある。忘れたと思っているだけで、無意識の底にその記憶が残っていて、それが制御出来ない夢の中に時に浮上する。もうひとつ生と死について思ったのは、人間の生は刻々と過ぎ去る瞬間ごとにあって、それを充実させない限り、本当に生きたという実感は得られないということだ。これは実現させたい夢があるとして、それが実現しない限り、生きた意味がないのと同義という意味ではない。むしろ目指す夢はあまり意味がない。それがかなえば次にまた新しい夢を抱くことになるが、大事なことは夢に向かって歩み続けることにある。あるいは、それは贅沢な話で、夢など持たず、ただ毎日楽しく生きて行くことが出来れば生まれて来た意味がある。今この瞬間を生きている気分で味わうことが何よりも大切で、果たせるかどうかわからない夢を抱くことは別に立派なことでもない。また、壮大な夢を抱いてそれを実現させることがそうでない人の人生より立派で意味があったということも言えない。その次に考えたことは、このブログのことであった。誰がどう読むかわからない文章を毎晩書いていることは暇潰しみたいなものだ。
d0053294_0541237.jpg 一昨日であったか、TVでスコットランド在住の日本人妻を紹介する番組を見た。若い彼女は日本語でブログをやっていて、毎日10万人の訪問者があるそうだ。筆者は10年続けて24万人で、彼女の2000分の1の価値しかないと計算出来るが、たまに古い投稿を読み返すと筆者なりに精いっぱい書き続けて来たことが確認出来て、自分の記憶のためにはいいことをして来たと思う部分が大きい。つまり、訪問者数などどうでもよいということだ。夢の中でそこまで考えたのではないが、刻一刻と過ぎ去る時間の充実が生きることであるからには、毎晩文章を綴ることもそうであり、ブログをひとつの筆者の生とみなせる。それどころか、筆者に会ったことのない人は、ブログから伝わる思いから筆者を想像するしかなく、このブログすなわち筆者ということも出来る。だが、それは先の比率で言えば、TVで紹介される一般人の2000分の1の価値で、あまりの小さな存在に気づく人がほとんどいない。そのこともまた夢の中で思ったことではない。思ったことの先を続けると、筆者はこのブログを不特定多数の人に向けて書いてはいるが、心理の底では誰かに読んでほしいという思いはほとんどない。正確に言えばひとりかふたりはいるが、その人たちが読まずにいてもかまわない。それにきっと読んでいない。それでも書くのは、筆者が生きているからで、そのことを公にしたいからと言ってよい。ブログをやめれば筆者はまた個展に向けて作品を作るなど、別の何かをやる。ま、そのことも夢から半ば目覚めた時に思ったことではない。またすっかり夢の中に突入して行く寸前に感じたことは、寒いことも手伝って、哀愁のような思いだ。死者が出て来たからとも言えるが、それよりも生きている人でも遠くにいて会えなかったり、また会いたくてもそれを許さない事情があったりすることをあれこれ思ったからだ。そういう人たちは先の表現で言えば、死者と変わらないが、死者と決定的に違うのは、筆者が眠っている間に同じように眠っているはずであり、まだ生きているということだ。それはとてもありがたいことだ。そう思うと、筆者も生きていなければという気持ちになるし、生きていることと同じこのブログも毎日書くことに意義があると納得出来る。そしてここからは今から考えることを書くが、昨日の母の認知症テストだ。○を見せられてこれは何ですかと問われ、○ですと答えられるのが正常かそうでないかは判断が難しい。昨日は15と書いたが、母は30問中16が正解であったそうで、認知症気味という医師の判断だろう。最近のことはすぐに忘れるが、古いことはよく覚えているという。そのような話はよく聞く。認知症でなくても人は古い話をするものだ。昔がよかったからという理由ではない。古い経験から順に忘れて行くかと言えば、全くそうではなく、古いことは脳の海馬という部分がよく覚えているらしく、思い返すたびに記憶を更新し、強固にする。海馬は記憶の核みたいなものだろう。認知症が進むと、ついにそれも忘れるのかどうか。そういうことを調べた研究があるだろうか。筆者はひどい認知症患者でも海馬の中のことは忘れないと思う。ただそのことを他者にうまくは伝えられなくなるだろう。それではその人はそのことに対して恐怖を覚えるだろうか。そうなるとすれば認知症は本人にとって精神の監獄にいるようなものではないか。話すことがもともと嫌いな人はいいが、人は全く話さずに生活が出来るものではない。そのことで思い出すことがある。
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 今年の正月は家内の実家で義兄と菰樽を開けて飲んだ。お互いそれなりによく話すが、いつも筆者の方が聞き役に回る。というより、質問して話を引き出す。その様子をそばで見ていた家内は帰宅後に印象が悪いと言った。質問ばかりして自分のことを話さないのは無礼だと言うのだ。そういう見方もあるのかと思ったが、筆者は自分の話となると、それこそ無限に何でも話す用意があるが、それを聞いて相手が面白がるとは思えない場合、聞き役に回る。特に年長者が相手の場合はそうだ。筆者より経験が豊富で、そうした話を聞くのは楽しい。それに相手もよく覚えていることを話すのは嬉しいことだろう。家内の父が生きていた頃は、会うたびに筆者は満州時代のことを質問した。すると、普段何度も同居する家族に話して飽きられている内容を筆者に向けて話す機会を得て父は嬉しそうであった。そのことをよく記憶するので、筆者より年配者が相手となれば、筆者は質問して話を引き出す側に回る。つまり相手へのサービスの気持ちだ。それを家内は無礼と言うのであるから他者の眼はわからない。筆者にしても相手が話すのを嫌かどうかくらいは察地する。あたりまえのことだ。それを前提とし、話に花を咲かせるために、筆者が気になることを相手に質問することのどこがよくないというのだろう。高齢になるほど、自分のことを話したいものではないだろうか。筆者は直接話さずとも、こうして書くことで話す欲求を満たしているところがあるが、それでも遠方で会えない人や事情があって会えない人とは本当は顔を見ながら話したいと思うし、今朝見た夢もその思いが実現したようなものであった。そして夢であるから哀愁を感じたが、嬉しさと悲しさが相半ばしてその余韻が今も残っている。認知症になれば海馬で記憶されること以外は少しずつ消えて行くのだろうが、あったものが消えることは自然なことだ。それは悲しいことかもしれないが、現実だ。そして、消えたかと思うとまた生ずる。今朝の夢の中で思ったことは、有と無のそういう関係だ。有は無であり、無は有であるから、何も恐がることはない。生きている間はせいぜい喜ぶべきだ。辛いことでも○と思えるようになれば人生の達人だ。さて、今日の写真は、最初は松尾橋より200メートルほど上流の右岸で集まっていた保育園児だ。とてもカラフルで、マーブル・チョコレートのようだ。それに丸く集まっているのが面白い。それは防衛本能と関係しているだろう。四角の卓より円卓を囲む方が人は仲よくなれるのではないか。それに四角よりたくさんの人が座れる。2枚目は渡月橋上流左岸の料理旅館嵐月の玄関だ。去年10月19日、斎宮行列があった日、川沿いの道路から最大ズームで撮った。筆者はそこに宿泊することは今後もまずない。3枚目は梅津の従姉の家の近くで去年12月半ばに撮った。たまたま陽射しの具合で道路際の凸面鏡が反射して路上に丸い光の影を落としていた。もう5分早かったり遅かったりすれば、出会えなかったであろう。その場所はこれまでに数百回は歩いているが、この丸い光の影と初めて出会った。光の影とは変な表現だが、そうとしか言いようがない。4枚目は河原町三条下がる東の中華料理店ハマムラの窓だ。この店の前にバス停があって、よく3番を待って乗るが、店は去年ついに閉鎖となった。ハマムラはとても有名だが、筆者はどの店舗にも入ったことがない。写真の窓は木製でていねいに造られている。半世紀以上前のものだろう。それが今はない。○と思っていたものが0になり、また毎日どこかで新たな○が生まれている。
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by uuuzen | 2015-01-22 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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