拷問に電気と水の2種があって、それ以外に殴打もされるから、時には死んでしまう場合もあったことが今日取り上げるドラマでわかった。1970年代の韓国での警察の取り調べだ。学生運動を強く取り締まり、芋蔓式に仲間を検挙しようとしていた。
拷問して仲間を売ることを強いるが、拷問で殺してしまっては警察の面目が潰れるので、尋問される者とする者は根競べと言ってよい。本作では主人公のサムセンという若い女性は恋人のジソンが拷問されてついにサムセンが仲間であることを吐いてしまうが、拷問する警察は金で買収されていて、サムセンが学生運動家であろうとなかろうと関心がない。金で警察を買収出来ると描くのは、韓国が高度成長期にまだ入らない時期ではもう昔のことであるので、そういうこともあったのだろうと韓国でも日本でも思うだろう。学生運動についても同じで、本作は現在に近い時代劇で、日本で言えば昭和レトロの懐かしさが漂い、全体にちゃちではあるが落ち着いた雰囲気で物語が進展する。年末までに終わると思っていたのが、元旦も放送を続け、今朝全80話が終わった。韓国では34分ものが120回で、日本ではそれを1時間もので80話に編集した。日本での放送の方が全部で720分多いが、これは映像のだぶりとコマーシャルの多さで充填したはずで、韓国版をカットはしなかったと思う。多少間延びしたようなところを感じたが、それは日本版を見たからだろう。その間延びはゆったりとした流れと言い代えてよく、必ずしも欠点とは言えない。TVドラマは長編ものとなると、ストーリーの展開を真っ先に楽しむというより、俳優の演技やドラマとしての個性を味わうことに目的がある。そう思わせないドラマもあるが、本作は倍速で見ようという気にはならなかった。欠点を言えば切りがなく、それは特に時代劇ならではの小道具や衣装の時代考証さ加減で、韓国ドラマでは予算のつごうもあるだろいが、たとえ破格の経費を投じても、かなりいい加減な場合がほとんどだ。それは4,50年前のことがもう誰もほとんどよく知らないという国民性による。前にみんぱくで見た展示の感想に書いたことがある。蔚山がまだ現代自動車が進出するはるか以前ののどかな田舎であった頃、日本は現地で民具をいろいろと収集した。それが今はみんぱくに収まっているが、それを韓国からやって来た留学生が見て驚き、やがて里帰り展を現地で行なった。その結果も展示では報告されていて、その様子を見ていかに韓国人が古いものを徹底的に処分し、その上に新しい文化を作って行くかがわかった。蔚山在住の老人たちは、展示されたかつての手仕事による民具を見て懐かしがり、そういうのどかな時代があったことを回顧したが、同じ民具はもはや韓国のどこにもないのだろう。そこが日本と大違いなところで、日本はどんな物でも捨てずに誰かが所有する。そのため、時代劇を撮る時、小道具に困ることはあまりないのではないか。もっとも、江戸時代となると日本ももうほとんど不可能に近くなっている。韓国では李王朝時代については大がかりな映画村のようなものを造ってそこで撮影するので重厚感が出ているが、戦後間もない頃から1980年代の高度成長期に至るまでの間がかなり粗末で、それは当時の日本にあまりに何もかもが遅れていて、直視したい時代ではなく、そのためにTVドラマでもあまりその頃のことが取り上げられないのかもしれない。ペ・ヨンジュンが出た『初恋』は80年代半ばの設定で、本作より10年後の韓国を描いていたが、それでも2作は時代がほとんど変わらないのではないかと思わせられるほど、日本から見れば田舎っぽく見える。韓国と日本の差は70年代半ばまでは3,40年はあると言われていたと思うが、80年代半ばになってようやく20年ほどの縮まったかという雰囲気で、そういった国力の差を認識しておかねば韓国ドラマの現在に近い時代劇は楽しめない。となると、本作は日本で言えば戦後すぐくらいの頃を思えばよいだろう。実際それほどにソウルでも田舎であったように本作では見える。
韓国ドラマはタイトルバックの映像を見ればだいたいどういう雰囲気のものかわかる。本作ではドラマの舞台となるソウルの一画が紙の模型が組み上がって行くアニメとなっていた。紙が組み上がって行くというのは紙芝居ではないが、とにかく安っぽい。そして作り物であることの意志表示だ。紙製のさまざまな建物が順に組み上がって行くと同時に、主な登場人物がやはり紙に印刷されたものが刳り抜かれてバス停のように立つ。本作の特徴をなかなかわかりやく暗示した映像で、レトロ感がたっぷりあって懐かしくもあり、毎日この映像を見てから本編に進むと、ドラマというものが紙芝居のような作り事で、現実にはあり得ないことの連続だが、ひとつの話として割り切って楽しめばよいと納得出来る。韓国ドラマを非現実的として面白くないと言う人は、ドラマの本質を知らない。作り事を通じて現実が垣間見えるのであって、ドラマがどこまでも現実であろうとすれば無理が出て来るし、またそうした作品は少しも面白くないだろう。ドキュメンタリーであっても編集を通じて「作る」のであって、すべてが事実と思ってはならない。タイトルバックの紙による模型の組み上がりを把握しておけば、本作のストーリーも登場人物も実在のものではなく、実在をモデルにしてあったであろうようなものと納得出来る。そう思うと、後はドラマに入り込んで楽しめばよい。その楽しみ方の中には、「当時こんな街角はソウルにはなかった」や「こんなレコード店はないだろう」といった、ドラマ全体に見られる安っぽさを突くことも含まれる。筆者は毎回そういう点を見て笑っていたが、そういう欠点と言ってよい部分を差し引いても、現実感が透けて見えるところがよかった。それは最初に書いた警察による拷問も一例だ。韓国ドラマは権力風刺が利いているものが目立つが、本作でも国家権力についてはよく描いておらず、裏で悪とつながっている場合があることを、執拗ではないが、忘れずに伝えようとしている。それは結局は金の力で、人間は金に弱いものであるという普遍性の表現で、どのような韓国ドラマでもこの金の問題は描かれる。本作もそうで、持つ者と持たざる者の対比がテーマになり、持たざる者が持つ者から奪い取り、最後はそのことが露呈して自滅するという話だ。だが、悪者にもそれなりの言い分があり、持たざる者が悪の道に走ることにはやむを得ない事情があることを描き忘れることはない。また、これもどの韓国ドラマでもそうだが、悪者はとにかく次々と素知らぬ顔で悪事をなし、そのことを人のよい主人公たちはひとつも気づかないというもどかしさが何度も繰り返される。視聴者をその様子を見ながら、主人公たちは人がよいと言うより、馬鹿じゃなかろかと思うほどだが、それを家内に言うと、悪人がすぐそばにいると思って生活する人はいないから、悪人から見れば馬鹿に見える人というのがほとんどだと返す。それほどに韓国ドラマでは悪人と善人がはっきりとわかれている。ただし、悪人が心を入れ替えることはしばしばで、善人が悪人に変わる設定は今までにあったためしがない。これは韓国ドラマはすべて性善説を意識していると言ってよい。韓国ドラマではドロドロの内容のものが少なくないが、そういうものでも悪人は最後に善人に説得され、悪人のまま恨みの言葉を吐いて死ぬことはまずない。悪人が最後は心を入れ替えるという設定にすると、最終回を見た後の気持ちがよい。おそらくそういう考えが韓国では圧倒的だ。日本でも同じかと言えば、さてどうだろう。韓国はキリスト教が日本よりはるかに普及し、韓国ドラマの性善説はキリスト教の何らかの影響を受けているかもしれない。だが、最終回で悪人が今まで悪いことをしたと懺悔したり、またそれを済まして死ぬということは、それまでドラマを楽しんで来た者からすればかなり退屈で、韓国ドラマでは最終回はどうでもいいところがある。あまり記憶に残らないのだ。圧倒的に面白いのは前半の高まりだ。後半になると悪は少しずつ崩壊に向かうのは当然で、それは予定調和であって、たいていは想像がつく。
さて、本作は2013年の製作で、進化した韓国ドラマの側面がある。それはこれまでの韓国ドラマのあらゆる部分を包含していることで、最初に書いた拷問の場面が出て来るあたりはスリラーやサスペンスものといった表情を帯びる。そうかと思えば恋愛もあり、親子の情もあり、貧しさから這い上がって行く主人公の女性サムセンの根性物語の部分も、見物で、セットや小道具、衣服などが大変お粗末ながら、そこは俳優陣の演技で補って、韓国の戦後から高度成長に入る前までの70年代をそれらしく描く。当時のソウルの一画は、『愛よ、愛』で使われた場所を再構築したのだろう。『愛よ、愛』ではマンボク堂という韓方薬屋が登場した。本作ではポン韓方医院という同じく東洋医学を生業とする家が中心となって登場するが、その建物はマンボク堂と全く同じではないが、よく似ていて、内部の商売道具は転用されているし、またマンボク堂周辺の建物は本作にも登場する。これは映画村をあまり作り変えることなく使い回しして経費を削減するためで、『愛よ、愛』が製作された頃に本作の脚本もある程度は出来上がっていたことを想像させる。「漢方」と書いてもいいが、字幕では「韓方」となっていた。『ホジュン』の大ヒット以降、韓方薬がらみのドラマが多く製作されるようになり、その流れ上に本作も位置している。それに本作のポン医院長はホジュンの血を引いているとは言わないが、それらしき言葉を発する。そして李朝王時代に漢江の南に土地をもらい、それを代々受け継いでいる金持ちだ。ところがそういう古い家柄によくありがちな悩みがある。話は朝鮮戦争の頃から始まる。1950年代半ばだ。ポン医院長は40過ぎに子に恵まれたが、男子ではなく、また病弱で、グモクと名づけられる。グモクの様子を見かねて医院長の母親はムーダン(巫女)に意見してもらう。それはグモクと同じ年齢の赤ん坊を連れて来て、厄をその子に1年担ってもらえば元気になるとのことだ。母は早速いくら金を出してもいいのでどこかからその子を見つけて来ることを医院長に言う。彼はギジンという若い薬の販売員を雇っていて、ギシンは医院長からその話を聞く。ギシンは真面目に働きながらも独身のさびしさから、夫を持つ身の女ととある田舎で一夜を過ごしたことがある。女は妊娠し、出産、そのことを夫は知りつつも貧しいふたりは別れないが、生活の苦しさから幼子をギシンにわたす。ギシンはちょうどいい具合に厄を負う赤ん坊が見つかったと思い、医院長のもとに連れて行く。ところが戦火はソウルを襲い、医院長はギシンと離ればなれになる。戦後ギシンはグモクを医院長の家に連れて帰る際、自分の血を引いた子どもをグモクと入れ替え、そしてグモクを生んだ女に突き返す。つまり、自分の子を医院長の跡取りとして育てさせ、財産を全部乗っ取ることを計画する。医院長は5歳くらいになった女の子を見て、それが本物のグモクと思い込み、また彼女もそうと信じて成長する。一方本物のグモクは貧しい田舎の夫婦に育てられるが、夫は妻の不倫を許し、自分の子としてかわいがる。その子がサムセンと名乗るのはもう少し後のことだ。貧しい父は薬草を採ることで生きていて、幼いサムセンは父を見倣って薬草の知識を吸収して行く。もともと代々続く医師の家柄の子なので、利発で健気という設定だ。母は行きずりの男の子を産むほどにあばずれで、稼ぎの少ない夫を罵り、サムセンをこき使っているが、本当に自分の子だと信じている。事実を知っているのはギシンのみだ。そのままならドラマは進展のしようがない。そこでサムセン一家がソウルへ行くということにしなければならない。それはサムセンの育ての親が薬草採りということで糸がつながっている。ある日、父は山で500年成長して来た人参を見つける。それを売れば苦しい生活からたちまち逃れられる。その人参の噂はポン医院長に伝わり、買いたいと思う。ソウルまでその人参を持参しようという矢先、空腹のあまり、サムセンはその人参を食べてしまう。それほどに母はサムセンに食事を与えなかったのだ。サムセンが食べてしまったことで夢は消えるが、サムセンは実の父であるポン医院長と出会う。
韓国ドラマは因縁をテーマにしたものが多い。本作がよく出来ていると思わせる点は、それを最初の脚本の段階で綿密に練っていることだ。たとえば、ムーダンは最初の方に一度だけ出て来る。それが最後に近い頃にまた登場する。こうした因縁は特にギシンにはよくついて回る。最初はうまい具合に事が運んでいるのに、サムセンがソウルへやって来て、医院長や自分と近い存在になってからは歯車が少しずつ狂って行く。そのたびにあがき、ついにサムセンの育ての父を毒殺してしまうが、そうなるともう残りの回は坂道を転がるように落ちて行く。医院長の漢江南になる土地を自分の名義に書き換え、また会社を成功させた金で警察を買収し、邪魔なサムセンに手出しが出来ないように画策するが、サムセンの周囲の人物は徐々にギシンが悪者であることを知って行く。話が前後するが、グモクとサムセンは入れ替えられる前、グモクの方が肩に火傷を負う。それは一時グモクを預かったギシンの友人夫婦がしたことで、グモクの秘密をその時に知った唯一の存在だ。その布石が利いて来るのもドラマの終盤だ。グモクは勉強が嫌いでいじわるな子として育ち、また金持ちであるから服をよく誂えるなど、ファッションに強い関心がある。そのことを医院長はおかしくは思わないが、少しずつ自分の子としては、つまり血筋としてはどうもおかしいと感じるようになって行く。こうして書いていると切りがないが、本作が最後までどうなるかわからない最大の点は、サムセンが誰と結婚するかだ。サムセンの子役は『メイクイーン』でも登場した芸達者な少女で、本作でもサムセンの少女時代までは抜群に面白かった。それが大学生のサムセン時代になると、子役とは顔や体格がまるで違うので、別のドラマを見ている気がする。もう少し似た雰囲気の女性が起用出来なかったのだろうか。成人のグモクを演じる女優はサムセンよりかなり大人びて見えたが、冷たい性格の顔つきで、悪役にはぴたりであった。彼女が悪役というのは、ギシンの血を引いたということだが、自分がサムセンの身代わりになったことを知るのは学生の頃で、ギシンと結託してその秘密を死守しようとする。そういう悪女なのに、最終回ではハッピーエンドで、いささか拍子抜けするが、グモクが最後にギシンの企みを阻んでまでも好きな男の命を助けようとしたことからして、最後は幸福になる資格はあるということだろう。韓国ドラマでは若い男女が2名ずつ主役となるので、本作ではサムセンとグモク以外にふたりの男優を紹介しておく必要がある。ひとりは身寄りのない貧しい少年ドンウで、彼はギシンを鑑として将来は薬を売って会社を経営したいと思うようになる。ドンウはサムセンが好きで、そのことを一途に思い続けるが、サムセンにはその気がなく、ギシンの友でグモクに火傷を負わせた夫婦の息子ジソンを想う。ジソンは勉強は出来るが、気弱な性格で、本ばかり読んでいる。そういうジソンに一目ぼれしたのがグモクで、これら4人は中学生時代から親しく接しながら成長する。
本作で見物なのはこの4人の親たちだ。特にサムセンの育ての父はいかにも田舎の心温かい無学な男を演じ、本作の色合い、雰囲気に大きく貢献している。その妻は『商道』で旅芸人として登場したイ・アヒョンで、筆者は割合彼女には注目している。本作ではいじわるの限りを尽くす悪人と言ってよいが、夫が毒殺されたことを知って以降、次第に心を入れ替える。夫と口喧嘩する場面は迫真の演技で、得難い脇役として今後も活躍するだろう。ポン医院長はトッコ・ヨンジェで、これはほかに考えられないほど適役だ。ギシンは本作で最大の悪役で、その顔が忌々しいと感じた人は多いだろうが、彼が悪事を働いたのも、自分の娘が厄負いのためだけに使われ、それが終わると用済みとしたポン医院長の母親の無慈悲さに怒ったためだ。よく韓国ドラマで描かれるように、昔の人間は今では考えられない図々しさを持っていたことを本作は示したかったかのかもしれない。70年代の韓国の学生運動などを途中で話の展開にうまく利用し、筆者ほどの世代なら理解が及ぶことが多々あった。最後に書いておくと、レコード屋の店内が数回に一度は出て来る。ジソンは洋楽が好きなようで、バーズの「ターン・ターン・ターン」の入ったアルバムを買ってグモクに贈る。サムセンもその曲を聴いて同じアルバムを買うが、ドラマではその曲が流れず、当時の韓国のフォーク・ソングが使われたようだ。バーズのアルバム・ジャケットを見ながらサムセンがその曲の歌詞がいいと思うのに、その曲のメロディが流れないのは、ひょっとすれば日本では版権の問題を回避するためで、韓国ではバーズの曲が使われたかもしれない。もしそうであれば、本作はもっと懐かしい、また時代をよく感じさせるものになった。また、入れ替わったふたりの女性が最後はまともな場所に戻ったということは、その曲の意味することにかなっている。とはいえ、ポン医院長がソウルに出て来たばかりのサムセンに向かって言うのが、万物は流転するという考えで、本作は東洋の思想が根本にあると言ってよいが、「ターン・ターン・ターン」の歌詞は聖書から引いている。韓国がキリスト教を活発に取り込んだのは戦後のことで、本作の最初の方に「ターン・ターン・ターン」のアルバム・ジャケットが何度も登場するのは当時の韓国で流行ったということのほかに、本作のストーリーを端的に示すのに象徴的でよいと考えられたからだろう。となると、思いのほか、深い内容を持った作品と言うことが出来る。