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●豊中西福寺再訪-若冲襖絵
3日の文化の日、西宮市大谷記念美術館で観た後、とても白鶴酒造の博物館に立ち寄るどころの時間はなかった。もっと時間があれば池田の逸翁美術館にも行きたいと考えていたが、それもパスした。開催中の展覧会は出直せばよい。



しかし1年に1日のみ、11月3日に公開される若冲の有名な襖絵を観に行くことを何より優先させる必要がある。それでまた阪急の夙川駅に戻り、十三まで行って宝塚線に乗り換えて服部駅に向かった。着いたのがちょうど4時で、西福寺まで1キロ徒歩15分として、45分は鑑賞出来ると踏んだ。2年前に訪れた時は雨だった。しかも降りる駅を間違えて、ひとつ宝塚寄りの曽根まで行った。そこで小1時間ほど雨の中をうろつき、それらしき寺を見つけたが違っていて、結局わからずじまいだった。駅まで戻って、近くの交番で訊ねると、警官はどこかへ電話をしてくれた。そして服部駅だと言うので、一駅戻った。だが、服部に降りてからもややこしい。2年前もかなり迷った。初めて下り立つ駅は、目的地を探しながら歩くので、同じ距離でもよく知ったところより倍ほど遠いと感じる。ましてやかなり雨が降っていると、足元が悪くて目指すところがなおさら遠のく。2年前は確か地図を持たずに行ったが、それでもよく探り当てたことと思う。今回はヤフーで調べて地図を印刷して持参したにもかかわらず、また迷った。方向音痴はいつまで経っても直らない。服部駅からは東方向に一直線なのだが、寺の近くまで来ると急に家が建て込んでいて、袋小路があったする。2年前に間違った道を今回もまたどんどん進んでしまって、かなり大回りした。そして予期せぬところで寺の前のあまり広くはない道の入り口の前に来た。そこに到達するには駅から東へずんずんと10数分進み、バス通りに出て小曽根交差点の信号をわたった時、南に行って次の信号の小曽根小学校前まで行かねばならないのに、そのまま東に真っすぐ進んだ。寺の西に小曽根小学校があるが、小学校の北側の郵便局や商店が並ぶ比較的広い道を東に進むと、途中で南下して寺近辺りに出る道がない。小学校の南側の道を東進し、結局同じ南北に走る道に出て来てそれを南下すればよく、距離的には同じと言ってよいのだが、少しでも早く寺に着こうという思いからすれば、小曽根小学校前交差点を東に行った方がよい。
 ヤフーの地図を見ると西福寺の記載はない。そのため正確な位置が確認出来ないが、寺付近は江戸時代そのままであろうか、道が狭く、他に寺もいくつかあって、ちょっと迷路のような印象がある。2年前は一体どのようにして寺に辿り着いたのかさっぱり記憶がない。まだ観覧時間には余裕があったが、それでも近くまで来ているはずなのになかなか到達出来ないもどかしさでいらいらした。今回は時間も少ないうえ、しかも一度訪れているのにまた迷っている情けなさから、ほとんど競歩に近いスピードで歩き、同じように内心腹立たしかった。幸い天気はどうにか持ったので、後は寺を訪れるだけという焦った気持ちであったのがまだ救われた。どうにか寺の前に着いた時はもう35分しか時間がなかった。きっと5時まではOKだと勝手に想像したが、それは当たっていた。寺の門の前に立つと、1日限りの若冲襖絵展覧といった小さな書き物が貼ってあった。たくさんの人が訪れているかと思ったが、他に鑑賞者はひとり、ふたりであった。時間が遅いのでもうみんな帰ったのであろう。門を入ってすぐに境内いっぱいを占める松がある。樹齢は不明らしいが、本堂の再建時に植樹されたと言われている。本堂は1712年に一度燃えており、1718年に再建された。これは若冲が2歳の時であり、若冲がこの寺に滞在して襖絵を描いた1790年には松もそれなりに大きかったはずだ。本堂とともに同じ松がそのままあるのは嬉しい。本堂は門を入って松のすぐ向こう正面にある。靴を脱いで木の階段を4、5段上がり、扉を開けるとすぐに畳敷きの堂内で、右手にテーブルがあって、記念の小判型のアルミで出来たビニール袋入りの札と、そしてカラー刷りのパンフレットを手わたされた。2年前にも小判札はもらえたが、鶏の絵の印刷色が今回は青から赤になっていた。そのイラストの下に刻印があり、当然2005となっている。いつからこうした小判札を用意しているかは知らないが、何人訪れるかわからないのに、あまればどうするのだろうとそんな心配をした。何しろ1年に1日しか公開されないから、せっかく作ったものがあまれば訪れる人にわたす機会がない。だが、足りないよりかはいい。2年前は大雨であったのに公開があってありがたかったが、パンフレットには「天候により中止となる場合がございます」とある。今年は天気がどうにか持ったのでよかったが、もし2年前と同じ雨だったら公開はなかったかもしれない。そうなれば作っておいた小判札はどうなったことだろう。またそんな心配をしてしまう。それはそうと、パンフレットは2年前にはなかった。後で小耳に挟んだが去年作られたらしい。A4を3つ折りにして両面をカラー印刷してあり、なかなかデザインもよく、寺と若冲の襖絵に関する的確な情報がわかる。
 2年前とは違って、水墨の『蓮池図』の6幅の掛軸が、中央の2点を除いて4点しか展示されていなかった。2点は描かれた部分がごく少なく、展示しなくても差し支えないと判断されたのかもしれない。この2点がなかったせいもあって、金箔地の例の重要文化財指定の『仙人掌群鶏図』が何だか違って見えた。この襖絵は6面あるが、本堂の両脇に3面ずつが分けて嵌められ、その間、つまり本堂中央に水墨でわびしい晩秋の枯れた蓮を描く『蓮池図』がかけられる。それが4点では『仙人掌群鶏図』との間に少し隙間が出来て、それで印象が違ったのかもしれない。どのように印象が違ったかと言えば、2年前よりも『仙人掌群鶏図』がよく見えた。西福寺はこれら以外にかなり大きいサイズの『山水図』と、もう1点、頭骸骨を描いた『野晒図』の掛軸があって、本堂の両端に向かい合った形でかけられる。つまり、襖絵とは直角方向にかかる。どちらも水墨だ。どういう経緯で寺に伝わったかは知らない。前者は寺に滞在中に描かれたものかも知れないが、後者は落款の年齢によって1794年に描かれたことがわかるので、後で寺に贈られたものかもしれない。『蓮池図』は元は『仙人掌群鶏図』の裏面に描かれていたが、明治期に撮影した写真を見ると、穴が大きく開くなどかなり破損していた。そしてこれは2年前に寺の人から直接耳にしたが、当時皇室の血縁者が訪れて買い取りたいという話もあったそうだ。それが手放すことがなく、今に至っているわけだが、もし皇室に入っていたならば御物扱いになっていたかもしれない。それだけの格はある作品だが、民間にとどまってよかったと思う。何でもかんでも美術館に入ってしまうのではなく、こうした若冲が訪れた寺にそのままの形で伝わるというのが理想で、たとえ1年に一度の機会であっても、一般に公開されるのは実によいことだ。若冲のこの作品があることでわざわざ豊中にまで足を運ぶ人があるというのは、豊中にとってもよかった。
 2年前に『山水図』がかなり傷み始めているのを確認した。細かい巻き皺がとても多いのだ。これはごく近い将来に改装する必要がある。『蓮池図』の大きな破れ跡などは画集でもよくわかるほどで、傷はまだ浅いうちに直しておくに越したことはない。だが、表具もかなりお金がかかる。石峰寺では去年ある水墨画を1点、京都国立博物館に依頼して表具したところ、80万円したそうだ。金欄など使わず、ごく平凡な浅葱色の無地の生地ひとつでの表装でそれであるから、掛軸にするには中身よりいわば額としての表具代の方が何倍も高くつく。これが珍しい古金欄に象牙軸先となると、とんでもない額になる。しかもそうした表具は永遠に持つわけではなく、定期的にやり替える必要がある。つまり、表具屋になれば食いっぱぐれはない。下手な芸術家になるぐらいなら、こうした固い職人になった方がよほど生活も安定し、仕事もやり甲斐があるだろう。それはいいとして、昭和初期に水墨画の『蓮池図』を改装するために西福寺の檀家がかなり協力したことが、掛軸の箱書きによってわかる。2本前にはその展示はなかったが、今回は箱が本堂右端に立てかけてあって、蓋裏の毛筆による文章を間近で確認することが出来た。それを引用する。○は急いで写したため解読不明箇所だが、他にも読み間違いがあるかもしれない。『西福寺蔵伊藤若冲筆金地着色群鶏図六枚は昭和2年秋當館の若冲画○展観の際出品せられ好評を得たるとの○り元當寺檀越大阪吉野家之寄進せるものにて其後年を経るに随い破損甚しく昭和3年4月吉野家當主五運氏資金を寄せ修理するに際し其監督を當館に託さらる。尚今後再比破損を恐れ更尓替襖を新製して常用に供し原本尚別に保存せらるるに至せ利。この蓮池之図は元その襖の裏面に同じく若冲の描けるものにして是又破損殊に甚しく依て檀徒榎谷萬作氏首唱し下に檀信徒相謀り修理の資を募り懸軸6幅に改装せしこれなり。吉野五運氏榎谷萬作氏を始め檀信徒諸氏の好意に依りこの名画を将来安全に保存し道を得たることは恂に喜ふべきことし奈梨とす。昭和5年3月 修理監督者 恩賜京都博物館』。榎谷家は寺のすぐ近くに今もある。西福寺は最初は天台宗で1308年に開創されたと言われているが、1318年に浄土真宗に転じた。1718年に再建された時も檀徒が協力したもので、いかに檀家によく支えられて来ているかがわかる。5時寸前になった頃、近くのおばさんが親しげに上がって来て、寺の人にこう話していた。「もういっぺん観とこう思って…」。檀家にとっても11月3日の公開はめったにないお祭りの日であり、5時の閉門まで可能な限り絵を観ておこうという思いがあることがよくわかった。
 2年前にもしたことだが、また『仙人掌群鶏図』の雄鶏を一羽描こうという気になった。もう10数分しか残っていなかったが、小判型の記念札とパンフレットを手わたしてくれた若い女性に断って、絵の前に正座し、持参したはがき大の小さなスケッチブックを広げた。2年前は同じ大きさの別の1冊に、左から2番目の雄の首を描いた。今回は右から2番目の雄だ。だが、5時近い堂内はうす暗い。それでもせっせと鉛筆を走らせてどうにか描いた。絵までの距離は2メートルほど。手元はよく見えるが、肝心の絵があまりよく見えないので、克明に描くことは出来ない。それに背後で女性が大声で話していて気が散った。話によると4時間近くも寺にいたらしい。その女性は9月の石峰寺での若冲忌にも来ていて、すぐにわかったが、彼女の方は気がつかなかった。描き終わったと同時に住職が本堂にやって来た。2年前に背広姿で30分ほど話した人とはどうやら違っていた。あるいは同じ人であったかもしれない。とにかく5時になったので、そそくさと本堂から出るのに忙しかった。もっと時間があればと悔やまれた。そう思えば、香櫨園のカフェ・バーで注文したものが遅かったことが一番の原因か。いや、人のせいにするのはよくない。午前中のもっと早い時間に家を出れば済んだことなのだ。寺の門を出た時、大声で話していた女性に話しかけた。京都からだとばかり思っていたが、横浜から泊まりかけで来て、「今夜は京都のホテルで泊まります」とのこと。去年あたりからファンになったとも言っていた。マニアといったところだが、こうした人も珍しい。若い若冲ファンも多いが、どこにそういう魔力があるのか、若い人の見所を聞いてみたい気もする。寺の門を真っすぐ行ってすぐに出られる通りの角で、その女性とは別れた。地図を見ずにきっとこっちが近道だと思った方向に進んだが、後でわかったが、服部駅に向かうにはその女性が歩んで行った方向、つまりそれは筆者が来た道だが、それを戻るのが正しかった。それなのに反対に駅から遠のく方向にどんどん行った。やがて高架が見えて来た。おかしいなと思ってそこで地図を取り出すと、駅に向かって西に進まず南下していることがわかった。どこまで方向音痴なのか呆れることしきり。高架手前を西に進んでやっと大きな通りに出たが、そこから北進して小曽根の交差点に着くと、もう日はとっぷりと暮れて真っ暗になっていた。日が暮れるのが本当に早い。交差点手前のアカシヤというスーパーに入って買物をした。京都にはないものがいろいろと並んでいて値段も安かった。やはり大阪は安い。適当に食材や果物などを買った。若冲はどの道を通って西福寺に行ったのかと思う。十三から北進したのだろうか。とにかく寺から西の服部駅は京都からは遠くなるので、寺の東か南側から寺に赴いたであろう。そう思うと、道を間違って寺から南下したのもまたよしか。
●豊中西福寺再訪-若冲襖絵_d0053294_10475841.jpg

by uuuzen | 2005-11-06 23:58 | ●骨董世界漂流記
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