●飛び出しボーヤ、その22
という漢字を見ながら、それを小学一、二年生の頃に見慣れていたことを思い出した。「少年探偵団」だ。この5文字のうち「偵」は義務教育では教えない。



d0053294_0361155.jpgそれでも出版業界は「少年たんてい団」などと書いては無様で、子どもが背伸びして難しい漢字でも学べばよいという意識があったのではないか。それに昔は漢字にルビを振った本が多かった。それで小学校しか出ていない人でも難解な漢字を学ぶことが出来た。ネット時代になって難しい漢字が簡単に打ち込めるようになって、漢字を知ることは昔よりたやすくなったようだが、ルビを振らないことがあたりまえになって、難解な漢字を読むことにかけては昔より条件が悪くなったのではないか。それはさておき、「探偵」という古めかしい言葉をTVで28日の日曜日の番組で見た。定期的に放送されているのか、筆者が見たのは1年ぶりほどだと思う。しかも当夜はほとんど最後近くから見始めたが、ドイツ人の父と日本人の母親との間に生まれ、ドイツに暮らす若い女性が日本にいる母親を探してほしいという依頼とその結末だけは全部見ることが出来た。彼女は3,4回自分で探したが見つからず、それでドイツにいる日本人から同番組で人を探してもらえることを知り、応募した。日本語を話せる女性で、日本語関係の仕事をしている。そうであるからなおさら離婚して日本に帰った母親に会いたいと思い続けて来た。TV局は探すことが出来ず、探偵に依頼した。その時画面に「探偵」の文字が出て、筆者は少年探偵団を思い浮かべ、幼少時に「探偵」の漢字を知っていたことも連想した。それでも「探偵」には縁がないし、「偵」の字を久しぶりに見た気がした。その番組を家内も見ながら、筆者に会いたい人はいるかと訊ねる。1年に二度くらいはそう訊かれる。よほど筆者が過去に涙ながらに別れたような人がいると思っているようで、筆者は必ず「いない」と答えるが、内心はそれを自問する。そしてやはり「いない」と思うことにする。会えれば会いたい人は何人もいるが、会っても何も変わらない気がする。それより過去のいい思い出だけでいいではないかと思うことにする。人生の決定的な出会いは何度か訪れる。それに優劣をつけることも出来るが、たいていその出会いというものは一期一会的なもので、そうであるからこそ決定的と思えるところがある。つまり人間はわずか一度の出会いでそれを生涯忘れない。先のドイツと日本の混血女性は願いも虚しく、生きた母には会えなかった。最後に暮らしていた家まで辿り着いたが、死ぬ3年前にボヤを起こし、その家を出た。その後の行方が不明であったのが、探偵が探り当てた。何と公園で死んでいたそうで、ホームレスになっていた。たぶん筆者と同じ世代であろう。ドイツ人と結婚してドイツで子どもを育てていたのに、離婚してからは人生の歯車が狂ったようになり、孤独のうちに路上で死んでしまった。そのことを想像すると、胸が痛い。女性のホームレスはたまに見かけるが、どこからやって来てどこに去って行くのだろう。空腹と寒さに耐えながらも、陽当たりのよい時、公園では鳩や雀の姿を追い、生の喜びに触れるだろう。離婚は珍しくないが、母子家庭となると途端に経済的な困窮に見舞われる。筆者も母子家庭で育ったので、母の苦労はよく知っている。また、子どもがいなくても働く場所がなければ同じ状況に陥り、ホームレスになることもある。死んだ母親は身寄りがないということで共同墓地に葬られた。娘はそのことがわかっただけでも安堵し、母が亡くなった公園に立って、周囲をじっくり眺めていた。母が見た風景を心に焼きつけておくためだ。その母の死で感じたことは、人間はボロのようになっていつか死ぬという事実だ。金持ちであっても同じことだ。地面に落ちた枯葉が数日で土と化して行くのと同じで、死ねばみな同じ定めだ。生きている時だけが花とはよく言った。ホームレスであっても太陽の温かさを感じるし、赤い薔薇をきれいだと思う。生きていることは心が動くことで、心が動けば笑みもこぼれる。
d0053294_0364222.jpg 明日は大晦日で、今日は本年の締めくくりのような気分で書かねばならない。展覧会の感想はまだ8回分ほどは書かずにいるが、来年に回すとして、今日は何がふさわしいかを考えた。何でもいいが、毎月一度投稿している「飛び出しボーヤ」にする。先日ガチャガチャの玩具に「郷土玩具シリーズ」が10月に発売されたことを書いた。同じ頃かもう少し前か、「飛び出しボーヤ」の0号を象ったものが数種類発売された。それをまだ入手していないが、あまりほしいと思わせない。0号をさほど好まないからかもしれない。それはさておき、飛び出しボーヤの看板は消耗品で、何かに衝突されずとも、風化する。また衝突されることはしばしばで、破損しているのをよく見かける。以前書いたように、それが最もひどいのは筆者が知る限りでは四条通りと梅の宮神社の参道の交わるところで、その北西だ。そこに立てられた地元小学校手製の0号アレンジ・ヴァージョンは設置された途端に車に衝突されて即死ということを二、三度繰り返し、呆れはてられたのか、その後はもう立てられなくなった。それで交通事故が起こらねばいいが、その地点より西200メートルほどで去年死亡事故があった。たぶん高齢者がスーパーの帰り、横断歩道をわたらずに、ふらふらと車道を横切ったのであろう。そういう光景をよく見かける。となれば、「飛び出しボーヤ」ではなく、「ふらふら老人」のキャラクターを考案し、その立て看板を今後は作るべき時代が来ているのではないか。「飛び出すな、車は急に止まれない」という交通標語が出来たのは40年ほど前と思うが、飛び出しボーヤはその標語から発想されたように思う。ところが時代が変わって高齢化社会だ。車に跳ねられるのは子どもより高齢者が多いだろう。ならばそれを防止する看板が必要だ。老人は注意深いから車道に飛び出さないと言う人があろうが、無謀な老人も多い。それに車が自分を見つけると速度を落としてくれるという甘えのような考えがある。高齢者になるとふてぶてしくなるからだ。だが、子どもは鮮やかな服を着ているから飛び出しボーヤのような看板を作り得るが、よろよろ、とぼとぼと車道を横切る老人はだいたいが地味で、同じような灰色主体の看板を作ると目立たない。そこで子どもと同じように鮮やかな色を使うと、老人には見えない。こう考えると老人は厄介なものだ。またそのような老人が運転を誤って家屋に突っ込む事件が多くなって来ていて、そういう注意散漫な高齢者運転手のためにも「ふらふら老人」の優れたデザインの看板を早急に編み出す必要があるだろう。それが出来たとして、飛び出しボーヤは地元小学校のPTAが担当するが、高齢者となると自治会が動くしかない。それが問題かもしれない。そして少子高齢化を持ち出し、子どもは守るべきだが、高齢者はなるべく早く少なくなってくれる方が年金負担の意味からも若者は歓迎で、わざわざ「ふらふら老人」の立て看板を創造する必要もなかろうという意見が出る。このことは、老人は死んでも自然で、子どもが死ぬより悲しむには当たらないというひとつの暗黙の了解で、高齢化社会を迎えても老人にとって天国はあり得ない。それどころか、若い連中の餌食になる事件が頻発するだろう。そのことを何年か前に書いたが、ごく最近でもそのような事件がいくつか報じられている。老人はゴミのようになって消え去るのみということか。そのゴミで思い出すのが、先日感想を書いた展覧会だ。9月中旬にそれを見たが、最後に展示された巨大な横長のゴミ作品は本年の一番驚いた作品と言ってよい。本物のゴミを淀川から蒐集し、それらを隙間なく貼りつけたもので、それだけならこれまでにも似た作品はあったように思うが、その作品の痛烈かつ面白いのは顔出し撮影可能な仕組みで、直径25センチほどの円形の蓋がたくさん裏側から開けられるようにしてある。そこから顔を覗かして筆者と家内はお互いの写真を撮り合ったが、同じ行為をしている鑑賞者はおそらくふたりにひとりはいたのではないか。顔がゴミの中に紛れている写真を見ながら、筆者は人生の末路を思った。みんな最期はゴミのようになってしまう。そのことを強烈に見える形にした作家は意地が悪いかと言えば、少々ふざけるのが過ぎるが、大阪人の飲み水になっている淀川がいかにゴミに溢れているかという現実を知らせることと、そのことは人間もゴミ同様であることを確認すべきであることなど、ゴミと作品、作品と人間、人間とゴミの関係をいろいろと考えさせ、筆者には忘れ難かった。そしてその作品の部分写真を今日載せるのは、そこに飛び出しボーヤの壊れたゴミが混じっていることに気づいたからでもある。
d0053294_038610.jpg さて、このシリーズは先月は茨木市で撮った飛び出しボーヤを4点載せた。その時に書いたように、その日には載せなかった残りがあって、それを今日は使う。万博公園から阪急茨木市駅まで歩き、その途中で見かけたもので、夕暮れを示す車のランプなどが見える。撮った瞬間のことはまだよく覚えているし、またその時の夕暮れは懐かしい気がしていたので、今日の最初の3枚は筆者にすれば味わいが深い。探偵のように目を皿のようにして飛び出しボーヤを常に探しているのではないが、茨木では去年気づきながら撮らなかった、撮ることが出来なかった1,2点があったので、今度こそは漏れのないようにと注意した。だが筆者のそれはかなり散漫となっている。それに新たに設置されるものもあるようで、来年はまた違った場所に立っているかもしれない。消耗品であるからにはそれは当然だ。そう考えると、筆者が1年に一度、みんぱくから阪急茨木市まで歩き、途中で見かける飛び出しボーヤを撮影し、このブログに載せることは運命と言うにふさわしい一期一会の出会いということになる。交代を恐れてはならないのだろう。新しいものが出て来ることは消えて行くものがあるからだ。そうそう、昨日1階のノート・パソコンが急におかしくなった。今日は何度も試したが、画面は黒いままで起動しない。OSの入っているCD-ROMを入れても作動せず、もはや寿命が尽きてゴミになったようだ。3年ほど前に中古で2000円程度で買ったもので、長く使えた方かもしれない。それで1階になければ不便なので、また安い中古を買おうかと思っているが、家内は10年前からパソコンくらいは新品を買えとうるさく言う。そのための費用を出すとも言うが、筆者はパソコンは単なる道具で消耗品と考えているので、使えればそれ充分と言い、中古の安物ばかり買っている。それはそうと、これを書く3階は3年ほど掃除していないと先日書いた。家内はめったに筆者のブログを読まないが、1階のノート・パソコンでたまたまその文章と、相前後する数日の分を読んだ。誤字だらけといつも言ってくれることのほかに、その日は「3年掃除していない」という記述にかなりむくれた。それがまるで自分のせいだと思われるのが嫌であるからだ。恥となることをなぜブログに書くのか、その気が知れないと言う。何でもあけすけに書いていいことはないのはわかっている。だが、毎日長文を書くと、ペンが走るといった言葉にあるように、書かなくていいことを書いてしまう。それこそ文章のゴミで、筆者は毎日こうして文字のゴミを量産している。そのことを自嘲しながら、ゴミも大量に積み重なると先の淀川のゴミを集めた作品のように圧倒的なものになる気がしている。筆者のブログの合間から筆者が顔を覗かせているならば、それは本望だ。ただし、その顔はゴミにまみれて区別がつかない。探偵ならうまく探し当ててくれるかと言えば、金を請求される。筆者は無料で書き、無料でこれを読めるようにしているが、そうであるからゴミ扱いされるか。はははは、大晦日になってようやく2,3日遅れていた投稿が追い着いた。ゴミのようなどうでもいい内容を書き散らしているからあたりまえだが、明日はのんびりと書くことが出来るかと言えば、出かける必要があるうえ、年賀状の図案を作って印刷せねばならない。こうも雑事が多いのは、生き方に無駄があって大量のゴミを生み出しているからだろう。そのことを自治会の仏師に突如言われた。「少しあれこれと忙し過ぎるんじゃない?」「……(無言)」。飛び出しボーヤの用に急に飛び出した言葉が図星で、筆者は返事に窮した。人はわざわざ探偵のように探らずとも見ているということだ。
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by uuuzen | 2014-12-30 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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