●ボロボロの体とボロ、アゲイン
羽蝶が飛んでいるのを見ると捕まえたくなる。無理なのはわかっているが、両手を空に向けてばたばたさせながら、蝶の舞いならぬ、愚か者の無秩序な体操を繰り広げる。遠目に見る人はきっと気味悪がる。



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蝶を捕えるのに素手は無理だ。ところがごくごくたまにそれが実現することがある。今日の最初の写真は9月だったと思うが、家の近くでふらふらと地面に這うようによろめきながら飛んでいる黒揚羽を素手で捕獲してすぐに撮ったものだ。普通の黒白の縞模様の揚羽より貫禄がある。蝶なので体が重ければ飛ぶのに苦労するが、この蝶は筆者にしてはずしりと重い気がした。それは写真からも伝わるのでないだろうか。その蝶の重さを実感し、またきれいな形と色合いを撮影すると満ち足りた気分になった。たいていは捕まえられない蝶であるのに、それがかなったからでもある。写真からわかるように、指に鱗粉がつき、蝶にとっては大きな迷惑なので、撮影後にすぐに開放した。すると今度は高さ5,6メートルほども舞い上がり、そのまま消え去った。筆者が逃がした途端、鳥の餌食になったかもしれない。筆者は逃がして多少いいことをした気になったのに、現実は非情だ。蝶の行く手にはいくつもの困難が待っている。それらを乗り越え、異性を見つけて無事に交尾を果たし、子孫を残すことが出来るかどうか。人間でも一生独身の人が近年は増加する一方で、子孫を残すことだけが生まれて来た最大の目的でもないだろうが、体力を消耗し、全身ボロボロになりながら川の流れを遡る鮭を思い出すと、動物にとって死ぬまでにやっておくべき最大のことは次世代に命をつなぐことであることに意義を唱える気になれない。人間は鮭とは違うという人があるが、どちらも動物で、生まれて死ぬことには変わりがない。それはさておき、筆者に捕えられるほどであったので、揚羽蝶はもうかなり弱っていたはずで、それは解放してからの飛び方からもわかった。となると、交尾は済ましていたかもしれない。そうでなければ無事に異性と巡り合えるかどうか、また出会ったとして交尾のための力が残っていたであろうか。蝶にとって羽の鱗粉は命とどう関係しているのか知らないが、汗のついた筆者の指に挟まれて気分がいいはずがない。捕えようとせずに飛翔を見守っているのが最も優しい接し方だ。それがわかっているのに、見かけるといつも捕まえたくなる。これは動物の本能か。捕獲したところで人間は蝶を食べないが、動物は半ば遊びで狩りをすることがあるのではないか。それが人間同士であれば、ハラスメント、いじめといったことになるし、もっと酷いと大量殺戮だ。ナチの将校はユダヤ人を虐殺しながら、自分の家庭ではよき父親であった。そのことから、人間の複雑さを思う。別の言葉で言えば、心の闇だ。誰でもそれを多少は抱えていると主張する人があるし、実際そのとおりかもしれない。そして、他者に対してひどいことをしていてその自覚がない。ハラスメント、いじめが子どもから大人の社会まで蔓延しているからにはそうと言えるだろう。いじめる者は相手をボロのように価値のない者と思い、いじめられる者は心をぼろぼろにされる。それがつぎはぎされてどうにか元どおりと言える状態になるには長い年月を要する。いや、実際は元どおりにならない。火傷の跡が一生残るのと同じで、心の傷も生涯残る。いじめた方は半分以上は遊び、すなわち気晴らしであるから、傷どころか快感を覚え、さらにいじめの対象を漁る。いじめられないほどに強くなればいいと主張するのは強者の考えだ。いじめられる者はなかなか強者になれない。何かで自信を得られるといいが、そう出来る者は最初から強者になれる器と言ってよい。この強者を大金持ちになることであると考える人がある。世間ではだいたいそうだ。金を得るのは才能であり、たくさん得る者ほど周囲から崇められる。それで大金を稼ぐ者は自惚れ、弱者を見下げるが、その金をなくした時、ボブ・ディランの歌「ライク・ア・ローリング・ストーン」のように、どんな気分だと侮蔑される。大金を得て錯覚するなということだろう。
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 筆者に捕えられた黒揚羽が美しいのは、その形や色合いゆえだが、それのみの存在であるからだ。羽はやがてボロボロになるし、そういう揚羽蝶を見かけるが、そういう姿になっても代わりはない。一度限りの生だ。それを知っているから、子孫を残すことに必死になる。人間も一度限りの人生であることを知っているが、蝶や鮭のように実感しているかと言えばそうでもない気がする。今日は風風の湯に行き、9時20分頃に休憩室で家内が出て来るのを待っていると、大型TVがディズニーのアニメを放送していた。何年か前にも少し見たことがあるもので、四角い顔に四角い眼鏡をかけたひとり住まいの老人が住み慣れた家をたくさんの風船をつないで宙に舞い上がり、見知らぬ土地を冒険するという内容だ。始まって間もない頃の10分ほどを見ただけで、最後がどうなるのかは知らないが、高齢化社会となっている日本でも切実な内容だ。老人は妻を失っていて、思い出の一軒家に思い出の物に囲まれて暮らしているが、隣りには高層ビルが建設中で、以前提示した倍の金額を支払うので立ち退いてほしいと工事現場の作業員から言われる。その一方、養老院からの誘いの案内がよく届き、主人公の老人は身の振り方に迷っている。工事現場の者には自分が死ねば土地を譲ると言い放つが、そのままその土地で暮らすことより、風船をくくりつけて熱気球のように家ごとどこかへ旅をすることを選ぶ。そこはもうファンタジーだが、思い出の家にひとりで暮らす老人は日本にも万単位でどこにでもいる。死ねば後のことはわからないからどうされてかまわないが、生きている間は思いがあり、また思い出がある。これをたくさん抱える人間は鮭や蝶より厄介かもしれない。それを禅はよく知っていたので、無一物を唱えたのだろう。ほしい物を限りなく少なくすると、悩みも少なくなる。となると、先のボブ・ディランの曲で歌われる、かつて金持ちであった男は考え方によっては物欲からの解放を余儀なくされて幸福になり得る。ディランがそこまで歌っていないのは、彼もいかにもアメリカ的価値観の持ち主で、無一物の思想は理解しないだろう。死の間際に肉体がボロボロになり、また持ち物がなくてボロをまとっているというのは、他者から見れば悲惨の象徴に違いない。だが、鮭や蝶と同じように自然ではないか。役目を終えた人が大金を始め、いろんなものをたくさん持っているのは、災いを残すだけと言うことも出来る。実際はどうであったかは知らないが、やしきたかじんは男の格好よさを常に考えて行動した人物で、10億近い遺産はいくつかに分けて寄贈するつもりであったようだ。それが実現していれば、格好よさを最後まで貫いたと思われたが、そようにはならなかったところ、現実の非情さに負けた平凡な男であったということになりそうだ。格好よく生きることは難しい。鮭や蝶を見倣えばいいのに、動物並みがいやなどと贅沢を言う。それは鮭や蝶のように裸では暮らせないので仕方がないところがあるが、「美服患人指 高明逼神悪」と昔から言われるように、いい歳になれば、人よりあまり目立たないのがよいと思うように心がけるのが格好いい。だが、これがなかなか難しい。さて、今日の思いつくまま書いて来たことは何に起因しているのかと振り返ると、今BGMで聴いているジェスロ・タルの音楽が影響していることを思う。クリスマスになると、ボロを着たホームレスのイラストを用いた彼らの代表作『アクアラング』を思い出す。肺を悪くして声がひどく、それに汚れ切ったボロをまとっているホームレスに同情したのだろう。そのアルバムから40年経って今度はそのアルバムの曲を全部ライヴで演奏し、同じホームレスのイラストを使ってアルバムを出した彼らだが、その印税はホームレス支援団体に寄付した。有名になり、財を築けば政治家に献金して便宜を図ってもらおうとする金持ちはいくらでもいるが、なかなか出来ない格好いい行為だ。鮭や蝶の美しさを人も見倣うべきなのに、体も心も醜くて平気という者が目立つ。
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 今日の残りの写真を説明する。家内の入院中のある日、筆者は徒歩で病院を往復したことがある。わが家と病院を結ぶ道は途中では4筋ある。その全部を入院中に利用したが、4本のうち昔は最もよく利用した道を久しぶりに思い出して歩いた。道の片側にイチジクを始め、いろんな木が植えられていて、昔は写生をしたこともある。懐かしさもあって、ゆっくり歩きながらその木立を見ながら歩いた。すると、木と木の間に蜘蛛が巣を張っている。そんな場所が3つあって、その全部を撮った。みな同じような写真なので、2枚だけ使う。写真ではわからないが、蜘蛛の巣はあちこち破れてボロボロになっていた。筆者のカメラではそこまで写らない。それに蜘蛛の巣が空に浮かんでいるように撮りたかったので、糸の色が雨上がりの空と同じ色であるため、なおさら写らない。蝶と違って蜘蛛は体も心も醜いと思われ、昆虫の中でも悪役の印象がある。それでもこうして木の間に巣を張って餌となる昆虫が引っかかるのを待っている姿を見ると、その健気な根気強さにかわいらしさを感じる。いつ引っかかるかわからないので、始終気を配っていることになるが、そういう生き方からはふらふらと飛ぶ蝶は気楽な身分に見えるのではないか。強い風で巣が破壊されることもあれば、いたずら者に気まぐれに壊されることもある。それでもまた巣を張らねば餌にありつけない。また、揚羽蝶のような大きなものが飛んで来れば巣にかかるどころか、巣をぶち壊してしまうはずで、巣の中心で待ち構えることはリスクも大きい。巣にかかった昆虫は蝶ならば羽まで全部食べ尽くされないのだろう。そんな多少の残骸か、あるいは空に舞うゴミか、巣のあちこちに引っかかった様子は写真からもわかる。この蜘蛛がまた鳥に見つかるとイチコロで、蜘蛛は見つからない工夫をしているのだろうが、巣に陣取りながら、餌の到来の期待ばかりではなく、死と隣り合わせの恐れもある。家内の入院は、最初は癌と思われたから、筆者も死というものを初めて身近に思ったが、人間は普段は死や病の恐怖をなるべく思わないようにして生きている。考え出せば切りがなく、心配ばかりで生きて行くことが出来ないからだが、蜘蛛もいつも死の恐怖があるのではなく、大半は巣を張ってその中央に居座って気分がいいだろう。餌が飛び込んで来れば食べ、そればなければ雲行きを眺めているだけで、鳥が襲って来ればそれはその時のことで、気づかぬうちに食べられている。人間も同じようなものと見ることが出来る。ただし、蜘蛛のような待ちの態度で生きるのは、親の財産でもあれば別だが、まずは働きに出て金を稼がねばならず、難しい。3枚目はたくさんの蜘蛛が見え、各自巣を交わらないように張っているはずで、その技術、プライヴァシーの重視は大したものだ。さて、蜘蛛の巣の写真を1枚没にして最後に載せるのは大坂の絵師であった墨江武禅の横幅の掛軸に描かれる蝶だ。現在はこの絵を筆者の背後頭上にかけている。蝶は添えもので、主題の中心は籠に入った牡丹や薔薇、藤などの花だ。絹に描かれ、写真ではその絹が多少肌裏紙から剥がれているのでモアレ模様が見えている。武禅は本業は船頭であった。生きて行くためには金が必要だ。絵だけ描いて生活出来る画家はごく一部だ。武禅はそうではなかった。それだけに変わった絵を描いたようで、注目している人もかなりいるようだ。この蝶も変わった形で、文様的な揚羽だが、それにしては個性的だ。船頭では画材を揃えるのも大変ではなかったか。ボロとまでは言わないが、身なりにかまう金があれば、絵具に回したであろう。体もボロボロになって行きながら、描き続けたことによって名前が伝わっている。
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by uuuzen | 2014-12-19 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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