●ボロボロの体とボロ
が干上がった小川で死んでいた。小川は桂川の支流の支流で、渡月橋のすぐ下流で二本流れているが、桂川の支流が桂川から分かれてすぐのところに堰があって、大雨の時は自動的にそれが閉められ、小川は渇水状態になる。



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そのため、豪雨でわが家が浸水せずに住んでいる。その小川は灌漑用で、もう99パーセント以上が住宅地となっているので、小川はほとんど不要だが、わずかに農業をしている人のためにはなくすことは出来ない。またなくすには大きな土木工事が必要で、そのままにしている方がよい。雨のたびに堰の門が下りるから、川が干上がっている状態は珍しくなく、それに慣れたセグロセキレイは真っ先に川底に下りて何かをついばむ。桂川に住む大きな鯉が何年か前には干上がった小川のあちこちで飛び跳ねた。堰が閉じられなければ、小川を泳ぎながら、下流の桂川に合流する地点までたどり着けるのに、その前に水がほとんどなくなってはどうしようもない。大きな鯉であれば鳥は無理だが、人間が狙う。筆者も川底に下りてどうにか1匹をつかまえ、その手助けをしてくれた見知らぬ若い奥さんふたりと協力して、近所から大きなビニール袋に水をたっぷり入れてもらい、その中に鯉を放った。そうしてその大きな包を松尾橋まで持って行き、現在桂川の修復工事用の仮設道路が造られている同じ場所から河川敷に下り、水辺で弱っているその鯉を放った。このことは以前に詳しく書いたが、鯉を思い出すたびに連想する。水のない川底でのた打ち回ったせいでその鯉はひどく弱っていた。若い奥さんふたりは自転車に乗っていたので、その1台の荷台にビニール袋の鯉を載せてもらい、急いで奥さんふたりと小さな子ども3、4人と一緒に松尾橋に行ったが、筆者が鯉を放つまで奥さんらは橋の上から見つめていた。ビニール袋を水中に浸し、衝撃を与えないようにして鯉を放つと、流れに逆らうことなく、むしろ流木が流されて行くように力なく下流へと去った。ところが30メートル下流は橋脚で、夏場であったので、若者が数人その上に乗って遊んでいた。釣りをしていたのかもしれない。筆者が放った鯉をすぐに彼らは見つけ、それを獲ろうとしたようだ。獲ったかもしれない。奥さんは鯉が放たれた瞬間安堵したようで、その声が頭上から聞こえた。彼女たちの場所に急いで駆けつけると、子どもたちと一緒に死にかけた鯉を助けたことの感動に満足していたが、筆者が橋脚に人が数人して、鯉を見つけたことを言うと、すぐに顔が曇った。橋の上からは真下の橋脚は見えない。自転車で鯉を運ぶ途中、2,3箇所で鯉をつかまえてバケツに入れている男性を見かけた。あちこちに鯉がいて、みんな捕まえられ、そして筆者らが逃がした一匹以外は食卓に上ったはずだが、筆者らが逃がしたのも結局は食べられたかもしれない。感動は勝手なものだ。いいことをしたと感動する人は心が優しいかもしれないが、それは欺瞞である場合もある。鯉を逃がすことと食べることのどちらがいいかは、発見した人の考え次第だ。鯉にすれば逃がしてもらえると嬉しいかもしれないが、逃がしてもらってもすぐに別の捕獲者が待っているのが現実で、食べられるのが少し早いか遅いかだけのことで、また逃がしてもらって嬉しいといった想像をするのは人間であって、鯉はどう思っているかわからない。話を戻すと、干上がった小川には白鷺もよくいる。鯉はめったにいないが、小魚なら少しでも水が残っているとこを必死に泳ぎ回っている。鷺にすれば食べ放題といった具合で、そのためにも小川が今後も埋め立てられないのがよい。今日の最初の写真は9月に小川で撮った、郵便局に行く途上で見つけた。立派な鮎で、天然物だ。生きているなら撮りたいほどであった。郵便局で用事を済まし、数分後に同じ場所を通りがかると、もう死んだ鮎はなかった。鷺か烏か、大きな鳥が御馳走とばかりに捕って行った。黒い川底に真っ白な腹を見せているから、いやでも目につく。人間が食べずとも鳥が食べたのなら、小川で水がなくて死んだ鮎も自分の死が無駄にはならなかったと諦めがつく。
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 死ねば諦めも何もない。諦めは生きている時にすべきだ。ネヴァー・ギブ・アップが美徳のように言われるが、人生には諦めがつきものであることは子どもでも知っている。いや、親が甘やかせて育てるとそうでもない。大韓航空の副社長が社員の態度がマニュアルどおりでないことに立腹し、飛行機を空港に戻らせる事件があった。社長である親がすぐに育て方を間違えたと謝罪したが、大会社の社長の娘となると、誰でもその副社長と似たところはあるだろう。昨日書いた有名芸能人や大物政治家の二世もそうだ。彼らは人生には諦めなければならないことがよくあることを自覚しているだろうか。それは程度の問題で、また他者のことはわからないから、比較しようがないが、世の中の大半のことは金でどうにかなるから、貧乏人ほど諦めが多いと言えるだろう。それを貧乏人は不公平と思い、諦めてなるものかと歯を食いしばって頑張り、諦めの多い境遇から脱出することはいつの時代でも多々ある。筆者も諦めをたくさんして来たが、20代でこれだけは諦めないということがあった。好きな仕事だ。いやな仕事をすることは人生を無駄にすることで、無駄だけならいいが、やがて心身を壊す。これだけは譲れないと覚悟して獲得したものがあれば、そのほかは諦めることになっても仕方がないと我慢出来る。そう思わない人もいるが、筆者はそうではなかった。話は変わる。先日の「風風の湯」では、筆者ひとりという瞬間があった。そこで思ったのは、わが家からすぐのところでもあって、その温泉全体が自分のものであるのと同じということだ。そして、自分ひとりで入っていれば湯がもったいないので、ほかの人たちが入って来るのは歓迎であると次に思うことにした。現実は自分の所有物ではないが、それは悲しくはない。温泉など所有していれば心配事が多いはずだ。金は儲かるが、心配事が増えては何にもならない。そこで筆者は温泉を所有出来ない貧しさをありがたいと思ったが、それは諦めから出て来た思いではなく、現実に満ち足りてのことだ。自分のないことを諦めと結びつけず、好んでそうしていると思えばよい。なかなかそういう境地になれないだろうが、切実にほしい何かが手に入らなくても、待てば次に同じように心をときめかせるものがやって来ると思うことだ。実際人生は全くそのとおりで、逃した魚を大きいと思う必要はない。次がある。そう思うことだ。またそう思わない限り、楽しく生きられない。この考えを筆者は幼少時に植えつけられたか。たぶんそうだろう。ほしいものがあるとして、それが手に入らねば代わりのもので満足することは、大金持ちの子どもでない限り、誰しも経験すると思うが、そういう代償行為に却っていいことがあることに気づくのはもう少し大人になってからかもしれない。一番ほしかったものが手に入らなかったことをいつまでも悔やむというのもわかるが、そのほかにたくさんのいいものが自分にはやって来たと思うことが大事だ。はははは、こうして書いていて「あきらめワルツ」さんのことを思い出した。彼女がその匿名を名乗るのは、その名前の曲が好きであるからと聞いたが、その曲が好きということは、人生には諦めがつきものであることに納得しているからではないか。となると、今日の筆者が書いていることとつながる。話をまた戻すと、今日は展覧会の感想を書くつもりが、書き始めたのが日が変わる寸前、それで保存している画像を順に眺め、魚ばかり集めた。題名を考えずにここまで書いて来て、さてどうしたものかと思いながら、もう一段落を書かねばならない。二段落のまとめとして書いておくと、今日の4枚の写真で最初に撮ったのは2,4枚目で、どちらも夏に奈良国立博物館の新館前の池で見かけた鯉だ。なぜその写真を撮ったかと言えば、5月に地元の畑の真ん中に鯉のぼりが建てられ、それが泳ぐ写真を撮ってブログに載せたからだ。その時、布の鯉ではなく、本物の鯉を撮るつもりであることを書いた気がする。書かなくてもそのつもりがあった。そしてすぐに奈良で鯉を見かけて撮ったのはいいが、その後が続かなかった。それでも諦められない。そうしているうちに死んだ鮎を発見し、また3枚目の魚介の小さな模型の展示も見かけた。それに今日は載せないが、別の場所でわずかに緋鯉が見える写真も撮った。鯉ばかりでまとめようと思うことが、もはや年内にその機会はなく、魚に広げて投稿することにした。
d0053294_2353254.jpg 筆者の投稿はカテゴリーが違っても内容がつながっていることがしばしばで、今日はそのことを思いながら書いている。鯉のぼりの写真を使った投稿とつながる一方、今後投稿することとも関連を持たせる。そのために4枚を選んだと言える。つまり、鯉ばかりでない点は諦めだが、それが却って今後の投稿とつながってよいとの思いだ。代償ではあるが、そうは思わせないということだ。これは美しい形ということに無頓着になって来ているからとも言えるし、そのくらいの自覚はまだ筆者にある。だが、無頓着も必ずしも悪いとは言えないと思うことにしている。先日鮭が大きな川を遡上する場面をTVで見た。産卵のためにそれこそ必死で、それを終えた後はもう全身傷だらけだ。きれいな鱗で包まれていた体は人生の最終段階ではもう必要がないということだ。それを人間の老いて皺やしみだらけになった肉体と比べたいのではない。苛酷な肉体労働をし続けて来た人ならそれも可能だが、風風の湯で見る裸はどれもお世辞にもきれいとは言い難い。若者でもぶくぶく、ぶよぶよ太った人はよくいるし、草食男性が好きと言う女性でもそんな男の体を見ると、いっぺんに幻滅するだろう。50代、60代、70代とだんだんに肉が垂れ、皺が増え、輝きを失い、体の中にどれほどの毒を抱えているのかと想像してしまう。それは女でも同じだろう。先日寝る前に顔を洗うと、何か薄くて黒い膜のようなものが剥がれ落ちてぎょっとした。一瞬まつ毛がごそりと落ちたかと思ったが、セロファンのかけらのようなものが顔についていたのだろう。顔を洗いながら思ったことは、女性の洗顔だ。化粧が落ちるのは顔が剥がれるのと同じだ。化粧によって女性は化けているからにはそうだと言える。顔を洗って顔がなくなるとどうだろう。のっぺらぼうになると面白い。毎日鏡に向かって自由な顔を描けるではないか。だが、実際はそのとおりで、女性は化粧で別の顔を手に入れる。その考えは、自分の顔がのっぺらぼうと思っているからだ。あるいは、理想の形から遠く、その現実が諦め切れないからで、せめて化粧で代償行為を働く。それも我慢出来ない人は整形に走るが、もう心の中までのっぺらぼうだ。それでまた鮭を思う。全身傷だらけになって死んでしまうその壮絶さは見事だ。人間もそうだと思う優しさはあっていいかもしれないが、たいていはそういう末路を恥と考える。そして悪あがきをするが、それこそ恥であることを知らないでは、人間は醜悪のまま死ぬのが多いということになる。きれいな体のまま干上がった小川で死ぬ鮎はもっときれいで、人間も多少美しい肉体が残っている間に死ぬ方が見栄えはよい。求肥入りの若鮎の菓子を今年は夏に食べたが、その形はどう見ても姿のきれいな鮎とは似ていない。それでも鮎を象ったと言いたいのは、鮎の姿が美しいからで、人間も美しい年頃があって、その姿を象って鑑賞することは古代から行なわれて来た。その伝統は今もあるが、人間は服を着る動物であるから、肉体美については鮎や鮭のような魚を見ることほどに敏感ではない。それは、服で肉体を隠さねばならないほど、大概は醜悪な肉体を持っていることを自覚したからではないか。鮭のように最期は全身がぼろぼろになって死ぬという人生を選ばないようになって来たからだが、人間は心の底では壮絶な生き方というものに憧れているだろう。それでというのでもないが、洒落た服を着ずに、ボロをまとえばどうかと最近思っている。前にも書いたかもしれないが、筆者のジーパンは膝と尻にひどいつぎはぎがある。座ってばかりで磨り切れ、尻はパンツが覗くという具合であった。いわば「ひび割れ」だ。そこで折り曲げていた裾を切り放し、それで破れた箇所を覆って縫いつけた。家内は針仕事が苦手で、筆者がやる。縫って履いているとまた別の箇所に穴が開くので、さらにつぎあてをするを繰り返すが、そのたびに愛着が湧く。それを履いて風風の湯や郵便局、買い物に平気で行くが、ホームレスでもそのようなひどいボロは着ていない。だが、自分で補修したものであるし、何となく格好だけでも鮭の最期のように壮絶っぽいのが気に入っている。今日の題名をようやく今思いついた。
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by uuuzen | 2014-12-18 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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