●嵐山中ノ島復旧、その32(桂川左岸、重機専用道路)
蓄のある言葉というのはまず語り過ぎないことだ。筆者のこのブログのように写真つきで毎日となると、さっぱりそれには縁がない。含蓄がないということは、軽いということで、他者から軽んじられる。



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つまり、いてもいなくてもどうでもいい存在ということだ。先頃亡くなった俳優の高倉健は不器用という形容詞でよく語られる。それは政治家のように意味のないことをぺらぺらとしゃべり続けるのとは正反対に、ぽつりぽつりと少な目に語ることだ。それゆえその言葉が含蓄があるように受け留められ、また頻繁にマスメディアに姿を見せずとも、どこかに生きていることがわかっているだけで、誰もが何となく安心出来るという存在であった。高倉健が不器用であったとTVが言っている時、筆者は隣りに座っていた家内に自分のそうだと言うと、無言でうなずいていた。筆者は手先は器用であると子どもの頃から思っているが、それと高倉健が言われる不器用、器用とは関係がない。むしろ、手先が器用な人は人との交際が苦手で、寡黙である場合が多い。高倉健はそういうイメージがあった。その意味での不器用で、筆者は自分もそうだと思っているので、TVの前でそう言ったのだが、家内が納得したのは、筆者が還暦を過ぎて人生がほとんど終わったというのに、何の実りもないことを思ってのことだ。花も咲かず、実の出来ずの人生で、不器用を絵に描いたような人生であった。過去形で書いているが、それはこれからは違うぞという密かな思いがあってのことと言うより、もういつ死んでも不思議ではない年齢を自覚してのことだ。先ほどTVで95歳であったか、下駄屋の主人が出ていた。長生きの秘訣はのんびりすることと言って笑っていた。それはくよくよするなということでもあるだろう。筆者は昔呑気と言われたことがある。作品展の批評会で重鎮から言われた。その意味を図りかねたが、ま、侮蔑の類だ。筆者はむっとしたが、大勢のいる前でそれに対して「どういう意味ですか」とは問いただせない。今から思えば、黙っていた筆者はやはり呑気であった。だが、その言葉にはくよくよしたので、今も思い出してここに書いている。作品の批評に呑気はないだろう。だが、その先生からすればそうとしか見えなかった。というのは、その先生は2,3日で屏風を1点染めてしまう。筆者は数か月はかかる。手先が器用でまた慣れた人の倍以上の速度で仕事をこなす筆者にしてそれほどかかるのであるから、呑気という以外に言葉がない。2,3日で1点完成させることと、その100倍の時間を要することの間に何らかの差があるか。あるのは製作時間のみで、作品の芸術性は別問題だ。それは筆者もわかっている。だが、長い時間を費やさねば出来ない仕事があり、その一方でごく短時間しか要さない場合もあって、前者を選ぶ自由はある。それは確かに呑気で、しかも不器用だが、不器用には不器用でしか持ち得ない味があるし、またそれが性に合う人はいる。ただそれだけのことで、筆者が呑気であるとして、「はい、それがどうかしましたか」と言い代えしてやればよかったのだ。だが、それが出来るくらいなら不器用ではない。不器用な者は批評されもせず、みんなの前で軽んじられておしまいだ。もちろん筆者はその重鎮であった人物の作品はどれもさっぱり感心しない。そういう筆者の思いをその先生は日頃感じていたのだろう。以心伝心というやつだ。物言わずとも、作品でお互いの考え、品性がわかる。そして生き方が上手な、つまり器用なひとはだいたいが品性に欠ける。政治家を見ればよい。あるいは売れっ子作家か。

 ということは、有名になった高倉健も本物の不器用な人間ではなく、生きることに誰よりも器用であったということになりそうだ。実際そのとおりだろう。世の中には生きることに不器用な人が器用な人よりはるかに多い。そして不器用な人は引っ込み思案となって、それが容認されて有名になることがない。それでも本人は満足だ。芸能人のように有名になるのは、そうありたいと必死で願うからで、その気が多い者ほど有名になって行く。とはいえ、生き方の器用とはどういうことを指すのか、その定義をしておく必要があるだろう。まず、知能指数と生き方の器用不器用は関係がない。そして家内が筆者の不器用さに納得するのは、無名でありまた無収入の連続の人生であったことを思ってのことで、それは世間のだいたいの考えと一致する。不器用な筆者であることを見抜けずに今まで一緒に暮らして来た家内も全くの不器用というべきだが、それは全くそのとおりで、不器用のよくないところは、さらなる不器用を呼ぶことだ。そうなると、そういう不器用な夫婦には誰も近寄って来ない。不器用な人と仲よくなっても金儲けが出来るはずがないからだ。先日書いたように、たかじんが死んで『殉愛』という本が出たが、それを出版した最後の奥さんと書き手は、生き方に器用な人物で、その点でたかじんと共通している。つまり、器用な人には器用な人が寄って来ることの典型だ。その意味で『殉愛』の出版やそれにまつわるいろんな動きは、たかじんが招いたことだ。有名人は有名人とつき合う。それは言い代えれば器用な人は器用な人とつながって行くことだ。筆者が知るある成金が、「金持ちは金持ちとしかつき合わない」と筆者に言ったことがある。その言葉をただせば、「成金は成金と仲よくなる」で、まさにそのとおりだ。それで筆者は黙り、今ではその成金とつき合いがない。成金になるには生き方が器用でなければならない。これは含蓄のある言葉と思うが、成金は筆者が誉めていると勘違いするだろう。つまり、含蓄の意味を理解しない。さて、うまい具合に今日は雨で、紅葉の季節は昨日の日曜日で終わった。今月12日か、「嵐山花灯路」が開催される。駅前ホテルの前の歩道にはすでに5メートルほどの間隔で行燈型の照明が据えられたので、準備は始まっている。路上に設置する照明や電気のコードなどは桜の林すなわち「風風の湯」の真正面に3連の白い大きなテントの中にまとめられていると思うが、今日のような雨では作業ははかどらない。ともかく、紅葉目当ての観光客があまりに多いことに対し、12月の嵐山は100分の1ほどに減るのではないか。それでは地元の商店街が商売上がったりで、どうに客を呼びたいということで「花灯路」が開催され始めた。その効果が少しずつ出て来ているのだろう。だが、極寒の中、嵯峨野まで足を延ばす気にはなれず、筆者はライトアップされる竹林の小径をまだ歩いたことがない。今年は暖冬の気配というので、あまり寒くなければ嵯峨野に行ってみようと思う。それより興味があるのは、今日の題名にあるように、桂川の歴史始まって以来と言ってよいほどの大工事が両岸の河川敷で行なわれていることだ。今は渡月橋や中ノ島から1,2キロ下流でのことなので、観光客の目には全くつかないと言ってよいが、観光客にしても見て楽しいものではない。そんな地味な出来事を2,3日おきにこうして取り上げることにも筆者の不器用さが滲み出ているだろう。以前に書いたように、毎日載せる写真があまりにも地味過ぎる。おいしそうな料理やきれいな外国の風景を載せるとわんさか訪問者が集まるのだろうが、筆者には縁がない。
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 さて、今日は工事がどうなっているのか気になりながら、雨のため、自転車に乗れず、諦めていた。それが午後4時過ぎかなり小雨になったので、カメラ片手に自転車道路を松尾橋方面に歩いた。日の暮れるのが早く、もうかなり薄暗い。だが5時までは1時間近くある。対岸を見ると、ユンボやダンプが動き回っている。雨でも関係ない。そう思うと、写真を撮るために家を出たことが何だかいいことをした気になった。今日も4枚の写真を載せるが、実際はもっと暗く、加工でかなり明るくした。手先が器用なので、それくらいのごまかしは出来る。寒々とした光景で、早朝に見える。筆者は早朝にはほとんど起きたことがないのでよくはわからないが、乏しい経験からそう思える。それはいいとして、徒歩であったので、松尾橋西詰めまでは行かなかった。それでもいつものように4枚載せる。順に上流から下流へと歩いて撮ったが、1,2枚目は左岸、3,4枚目は右岸に着目している。また、1枚目は初めて載せる現場で、左端に大きな暗渠の口が見える。地図を見れば一目瞭然だが、これは三条通りと罧原堤が分かれる場所から150メートル下流だ。もちろん罧原堤の下をくぐって桂川に合流しているが、愛宕山の裾から流れて来る川の最終地点がそこだ。去年の台風18号ではこの暗渠も水でいっぱいになったはずで、そのすぐ下流の河川敷がかなりえぐられたことが想像出来る。写真では暗渠の口の真正面にユンボが工事していて、その右手には二段積みになったベージュ色の大きな土嚢の列が出来手いる。ユンボは川中の堆積土砂を浚っているのだろう。あるいは破壊された、また別の場所に流された波消しブロックを移動させる。現在のところ、この工事場所が最上流だ。自転車道路からは200メートルほどあるが、目の前の河川敷は最も幅が広い区域で、その河川敷の水辺まで行くと、ユンボまでは数十メートルだ。雨なので河川敷の雑草の中を歩くとずぶ濡れになる。それで自転車道路上から最大ズームで撮った。2枚目はクリックすると大きなパノラマ画像が現われる。1枚目とはつながらないが、それは工事区域がないからだ。つまり、2枚目は1枚目を除けば松尾橋に至るまでの左岸工事のほぼ全景を収めている。こうして見ると、左岸はほとんどが修復工事の対象になっている。2枚目と、上流を向いて撮った3枚目を比べると、筆者がどの程度下流に向かって移動したかがわかる。目印になるのは左岸を覆う横長の巨大な直角三角形の青いシートだ。何年か前に枯れたが、3,4枚目の筆者の立ち位置は、自転車道路とグラウンドに挟まれて立っていた1本の大きな合歓木より50メートルほど下流だ。その合歓木は周囲に他の木がなく、松尾橋上からもよく見える目印で、またいかにも孤独な感じがよかったのに、ついに枯れてしまい、今は切り株となっている。何度かブログに書いたが、30年前に筆者はその木の種子を拾って帰り、家で芽吹かせて育て、今は裏庭で一番大きな木になっている。筆者が生きている限りは切るつもりはない。これも器用な人は好きな、そしてもっと見栄えがよい、あるいは柿などの食べられる実が出来る木にさっさと植え替えるだろう。その方が野鳥にとってもいいので、不器用さは自慢するものではない。3枚目には赤い浮きの鎖とどうやら土嚢を覆う青シートが見えるが、これは前回、27日の投稿の時点ではなく、4日でどの程度工事箇所が伸びたかがわかる。下流を向いて撮った4枚目は、前回の4枚目の写真と同じように、白砂の最先端箇所を収めるつもりであった。写真左端ぎりぎりに白砂と黒砂の切れ目が写っている。実際の距離はわかりくいが、前回の3枚目と比べると、50メートルほどは伸びているようだ。この区間は少し工事の進みが遅いようだが、それは川の中に土を盛っているからだ。合歓木があった場所まで遡るとその後は河川敷の中の雑草を刈った部分につながる。3枚目には見えないが、すでにその付近まで黒い土は盛られている。渡月橋から松尾橋の間では最も大きく河川敷が湾曲している箇所で、言うなれば、仮設道路を造るのに最も厄介な区域だ。
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by uuuzen | 2014-12-01 23:59 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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