●緑のタペストリーと絨毯、その24
模様になった嵐山がわが家の3階の窓から見える。紅葉と書くと斑ではないように思われる。黄色も混じっているし、緑のままの葉もある。また赤もさまざまで、全体に斑模様だ。今日は夕方のNHK京都のTV番組で、視聴者が撮影した各地の紅葉の写真を3点紹介していて、その中に嵐山があった。



d0053294_1204789.jpg

どれも実際とはまるで違うよう鮮やかさで、特に嵐山がそうであった。写真では金平糖のカラフルさで、ピンク色も混じっていた。どう見てもわが家から見える様子とは違う。カメラの感度がきわめてよいのか、それとも特殊な撮影か、あるいは画像の彩度を上げているのだろう。筆者も写真を鮮やかに加工してブログに載せることがよくある。特に紅葉の場合はそうだ。撮った時の印象とあまりにも違って写真はくすんで見える。それで記憶を頼りに彩度を強調する。カメラを信用していないわけだ。同じ場所、同じ時刻に違うカメラで撮影すれば違う写真が出来る。写真は真実ではないのだ。それで加工することは全くかまわない。自分の記憶が一番正しい。とはいえ、それもいい加減なところがあって、結局のところ、写真はどこからどこまでが真実か誰にもわからない。話を戻して、T番組で紹介された嵐山の写真は凝っていた。近景に松が1本写り、それに接して紅葉した楓の木もあった。そして左遠くにカラフルな金平糖のような嵐山がぼやけて写っていた。その松がどこの松かはだいたい想像出来る。中ノ島公園の渡月橋付近だ。見慣れた嵐山が金平糖の山のように写っているのは楽しい。それではもっと徹底して画像を加工してもよさそうだ。写真はもはや目に見えるままというより、こうあってほしいという思いのとおりに加工すべきものとなっている。そのTV番組で紹介された紅葉写真では醍醐寺の紅葉を撮ったものが最も印象的であった。この世のものとは思えないほど鮮やかな楓の紅葉を初めて見たという撮影者の言葉がそうだ。筆者も10年近く前に嵐山でそういう紅葉に出会ったことがある。その時以降、同じ見事な紅葉は見たことがない。数十年に一度の見事な紅葉であったのだろう。それが今年の醍醐寺では部分的にあったようだ。筆者は今年は強いて紅葉狩りには出かけていない。明日、明後日は紅葉を楽しむ最後の土、日だが、筆者は嵐山には足を向けない。わが家の3階から見える様子では今年はさほどでもないとわかるからだ。それに、ブログに紅葉の写真を載せるのであれば、嵐山以外がよい。醍醐寺は地下鉄を利用すれば便利だが、嵐山からではかなり遠い気がする。醍醐寺の近辺に他に見たい何かがあればいいが、それがない。それで今年は特別に撮った紅葉の写真を載せない代わりに、毎月投稿が恒例になっている今日の題名に便乗して紅葉した蔦の写真を使う。紅葉と書くのはまずい。最初に書いたように斑だ。紅葉の美とは斑になった色合いのそれを指す。そのことは今日の3枚の蔦の写真を見ても明らかだ。どれも真っ赤ではなく、黄色や緑、そして茶色が混じる。楓のように炎が燃え盛るような色に全体が染まることもあるのだろうが、そういう蔦はあまり見た記憶がない。それは紅葉した途端に散り始めるからでもある。真っ赤な蔦の葉は真夏の緑一面のタペストリーか絨毯のようにはならず、ぼろ雑巾のように部分的に壁を覆う。風が強く当たらないところではそうでもないのかもしれない。陽当たりと風当たりがうまい具合に作用すれば、真っ赤で壁一面を覆う蔦も当分の間は見られるのだろう。蔦は青々としている時は意志を働かせてそうなっているに違いない。では紅葉の季節はどうか。強い風が吹き、雨に打たれると、葉は散る。そのことを蔦は残念に思っているだろうか。もう葉は用がなくなったので散るのはいつでもかまわないというのが実情だろう。そのため、広い壁一面に真っ赤な葉が覆うという状態は、蔦にとってはどうでもいいことだろう。喜ぶのは人間だけで、紅葉を「この世のものとは思えない」というほどに大げさに絶賛するのは、植物からすればおかしいことだ。
d0053294_121286.jpg なぜ真っ赤な葉を人は美しいと思うのか。赤が好きなのはなぜか。人間の血が赤いからだろう。それが葉のように緑であれば、紅葉を見ても何とも思わないどころか、緑の方が断然いいに決まっていると文句を言うだろう。赤は炎の色でもあるから、炎を使うことの出来る人は、動物にはないその特別の才能を獲得した時に、紅葉も美しいと思うようになったと思える。「この世のものとは思えない」ほどの紅葉に話を戻すと、それは体全体で感じることで、言葉や写真でいくら説明しても実感とはほど遠い。確かに今日のNHKのTVで紹介された醍醐寺の紅葉は見事の一語に尽きるもので、写真を見て明日にでも行ってみたい気が一瞬湧いた。だが、それは醍醐寺のおそらくごくわずか、ひょっとすれば写真に写っている1本の楓だけかもしれない。そう考えたのは、前述した10年近く前に筆者が感動した嵐山の紅葉を思い出したからだ。それは嵐山そのものだけではなかった。渡月橋から上流の桂川右岸をどんどん遡り、大悲閣付近まで行き、その途中で見えるすべての紅葉と黄葉が生まれて初めて知った秋の美しさで、徒歩で往復した時間全体が天国と思えるほど、非日常的であった。夢を見ているのではという気分で、今その時のことを思い出して書いていても、その思いが蘇る。それはその日のその頃の数時間だけのことで、それ以外はもう同じ空気は漂わなかったはずだ。そんな幸運な時間は毎年ありはしない。数十年に一度はおおげさではない。そういう見事は紅葉に一生に一度会えるかどうかだ。筆者はもう遭遇したので、紅葉に関しては思い残すことがないと思うほどだ。そんな見事な紅葉と比べられるのは、あるいは比べたいのは、人生における最高に美しい紅葉的な時間は何かだ。そのことを見事な紅葉を思い出すと連鎖的に考える。そして筆者が思い出すのは遠い昔に去った楽しい記憶で、それは思い出すたびに同じ時間を味わえる気がする。ただし、筆者はひとりで散歩しながらそういう遠い過去を想起し、また今の筆者はその過去とは違って、老いてみすぼらしくなっている。それを自覚するからではなく、筆者は歩きながら次の瞬間にその遠い過去が眼前に出現すればいいのにとは思わない。それは他者から見れば悲しいことかもしれない。遠く作家人生最大の喜びと思えることがもはや二度と自分の前に現われないし、またそのことを望まないというのは、人生を諦めているも同然ではないかと思われかねないからだ。だが筆者は悲しくはない。それは確かな記憶を持っているからだ。想起した瞬間に筆者はその遠い過去の喜びの瞬間に立ち会っている。そのため、わざわざその過去の喜びの対象が現前する必要はない。むしろ、その過去が目の前に現われると、幻滅するかもしれない。なぜなら筆者が年齢を重ねたように、その遠い過去も実際は色褪せている。では筆者は過去のよき思い出だけに浸って今後も生活して行くのかと言えば、そうとは限らない。美しいことや喜ばしいことは無限にある。長く生きるほどに醜いことにも多く接するし、また老いるほどにその醜さに耐えられなくなりがちで、長生きが全くいいことずくめとは言えないが、筆者のことを言えば、若い頃に関心を持ったままになっているいろんなことに対し、それなりにけじめをつけたい思いがあって、全く未知のことよりも、かすかに知っていることをより深く知って行きたい。早い話が、買ったままで長年読んでいない本を読破したり、聴いていないCDをじっくり味わったりすることだ。もちろん頭に浮かんでいる作品は目に見えるようにしたいし、そう考えるとまだ数十年は必要なのに、もう還暦を過ぎてしまい、「光陰矢の如し」の言葉が頭をかすめる。
d0053294_1211941.jpg さて、今日の最初の写真は家内が入院していた時、筆者が徒歩で家に帰った時に見かけた斑模様の蔦だ。昔は西京図書館に自転車でよく通った。最初の写真を撮ったのはたぶん10年ぶりに近かったが、同じ図書館に調べものに行った帰りだ。そのことは以前書いた。図書館がまだ開いている間に早めに病院を出た。病院から図書館までは5分ほどだ。幸い調べものは首尾よく終わった。日を改めて府立総合資料館まで行こうかと思っていただけにとても嬉しかった。その帰りに1枚目の写真以外にも面白いものを見かけた。その写真をブログに載せるのはいつになるだろう。それはいいとして、家内の病室からは桜と楓の木が間近に見え、しかもそれなりに紅葉していた。同じ場所と角度で毎日定点撮影をした写真が5枚ある。それもブログに使う機会が今のところ見つからない。写真はたまる一方だ。それはよくない。気がかりが増すからだ。そしてそれが増大したまま誰しも命を終える。そうはなりたくないと筆者は思うが、それを切実に思うのであれば、もう新しく写真を撮らないことだ。ましてやこのブログをいつきっぱり終えようかとまた思案し始めているこの頃だ。ブログの最後の投稿日に保存している写真がないということにしたいのに、そうなるかどうか。2枚目の写真は3,4日前に撮った。場所は書かない。家には誰も住んでいないのだろう。蔦が玄関周りのあらゆるところに密かに忍び寄り、そして赤や黄の斑に染まっている。見様によっては恐いが、蔦だけに目をやれば一人前に紅葉して面白い。このまま数年経てば、玄関は蔦ですっかり覆われ、扉を開けて中に入るのに苦労する。3枚目は先日池田の逸翁記念館の庭で見かけた。庭の端の塀に蔦が覆っていて、陽射しを浴びて蔦の葉の裏に光が当たっていた。その様子を撮ろうとしたが、蔦の手前に植え込みがあって視界をかなり遮る。仕方なくその塀を見下ろす位置まで行って撮った。それでも蔦だけを収めるのは無理で、さして面白くない写真となった。最初に見かけた時は、蔦の葉は裏に光が照って、どれも鮮烈な透けた黄色に見えた。その光の具合を写し込みたかったが、視界を邪魔するものがなくても筆者のカメラでは無理であったかもしれない。4枚目は確か去年の夏に滋賀の瀬田で見かけたレストランの道路際の蔦の植え込みだ。「飛び出しボーヤ」が写っているが、これは店の看板で、手にカップとフォークを持っている。せっかくの面白い看板が蔦で覆われてよく見えないのは店主の怠慢か、それとも蔦を切るのに忍びないからか。またこの蔦は葉に艶がある品種で、おそらく紅葉や落葉はしないだろう。そのため、今ではもっとこの看板は蔦で見えなくなっているかもしれない。筆者の好きな蔦は1,2枚目の紅葉タイプだ。わが家にもそれは生えているが、先日全部むしり取った。それでもまた元気よく生えて来る。蔦をむしり取るのは簡単で、芋蔓のようにずるずると根が一気に剥がれる。今日の最後に「飛び出しボーヤ」の写真を載せたのは、「飛び出しボーヤ」の投稿をまたしなければならないと思っているからで、シリーズと化している今日の投稿といい、「飛び出しボーヤ」といい、厳密に分けられるものではなく、どのシリーズもお互い侵入し合いながら斑模様となっている。それもそうだが、今日の写真は題名にふさわしくなく、「斑模様のタペストリーと絨毯」とせねばならない。題名まで斑になる。
d0053294_1213032.jpg

[PR]
by uuuzen | 2014-11-28 22:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


●嵐山中ノ島復旧、その31(松... >> << ●飛び出しボーヤ、その21
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
何年も前に書いた文章に感..
by uuuzen at 16:20
はじめまして。興味を引く..
by 文学座支持会元会員 at 11:15
最近あまりに多忙で録画は..
by uuuzen at 15:31
唐突に失礼いたします。ど..
by タイタン at 14:59
暴力事件は訴えても警察が..
by uuuzen at 15:11
地下鉄の件事件になります..
by ネイル at 19:07
上から目線で頭が悪い人
by 名無し at 08:13
上から目線で頭が悪い人
by 名無し at 08:13
漢詩や篆書など、中国のサ..
by uuuzen at 12:57
サーチしました所、ビスタ..
by インカの道 at 11:38
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venusha..
ファン
         ブログトップ
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  © Copyright 2017 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.