稚拙な表現というものがあるだろうか。それは結局人間性が稚拙であることを意味し、また稚拙であるかどうかは比較の問題で、当人にはわからないことと言ってよい。人間は変わらないものであると思うようになるのは還暦を過ぎて以降のことだ。
筆者はある人の印象深い行動が、その人が以前にも行なったこととそっくりであることに気づくことが最近よくある。もっとも、人間が変わらないものであることは昔から思っていたことで、その考えを年々強くしていると言った方がよい。性質は変わらないということだ。愚かなことをしている人に対し、何か大事な行動を起こす時は少し立ち止まって考え直すどころか、正反対なことをした方がよいのに思うことがある。ところが、その人は自分に自信があるからまずそんなことはせず、毎回同じ考えで物事を運び、そして失敗している。それでも自分が間違っていて、考えを変えるべきとは決して思わない。年長者の場合は忠告することは出来ず、「ああ、またやったな」と思うだけだが、その人に限ったことではなく、人間は大なり小なりみな同じようなところを持っている。そう言う筆者もそうだろう。還暦を過ぎると、もう頭の中が固まっていて、反省して違う行動をしようとなどとは思わない。つまり、上達がない。だがこれは人間をあまりに否定的に見過ぎか。上田秋成の小説にもあるが、悪人は一生そのままとは限らない。上田秋成自身も若い頃は放蕩したらしい。そう考えると人間はいつでも今までの自分から脱却出来ることになる。そう考える方が人生は楽しい。とはいえ、誰しもそう考えながら、実質は少しも変わらない。これはどういうことかと言えば、放蕩していてもそれから抜け出さねばと思っていたから、上田秋成は文筆家になった。稚拙な文章の進め方で今日は何を書けばいいのか、もうはたと停まってしまうが、自分の表現が稚拙かどうかは自分ではわからないということを書きたかった。では他人にわかるかと言えば、その他人はさまざまで、まるで正反対の意見があるはずだ。そのため、他人の意見は参考にあまりならないが、自分でもわからないから、困ったものだ。ネット社会になってそういう文章が爆発的に出現した。自費出版ではなく、依頼されて出版される本ならば、編集者の目をくぐるから、稚拙な箇所は大部分除去され得るが、筆者のこのブログのように、思いつくまま書き散らしては稚拙の極みもいいところで、その自覚がほとんどないまま、毎日徒労同然に文章を書き散らす。これは公害になりかねないが、面白くないと思う人は読まないだけで、紙に印刷される本のように資源の無駄の観点からはさほど実害はない。さて、最初に稚拙と書いたのはふたつの理由があるが、そのひとつを書くと、昨夜もアマゾンの『殉愛』の書評を拾い読みし、文章、言葉の重要性をつくづく思った。結局のところ、文章を読んでの読者の文章による反応で、言葉の戦いと言ってよい。言葉が人間そのものなのだ。その当然のことを改めて思うと、こうして書くことに多少のたじろぎがある。つまり、自分の稚拙さを毎回世間に晒していて、恥知らずだということだ。それを真に自覚しているならば、少しでも稚拙さを減らそうと努力すべきだが、先に書いたように、人は変わらない。ましてや筆者の年齢になればなおさらだ。それで相変わらず稚拙のまま今後も過ごして行く。そうそう、稚拙ということを考えながら、先ほどは見事な演奏のことを思っていた。それは練習の積み重ねの賜物だが、文章や絵も同じだろう。圧倒的に多い練習がまず基本で、それに支えられて稚拙さから免れる。そう考える筆者はこうして毎晩何か書くことを自分に課しているが、さして目的のない練習では成長には役立たない。そこで教えてくれる師が必要となり、あるいは私淑してその人の個性を研究するかだが、筆者は何事も独学で、やはり稚拙の範囲から脱却出来る可能性が低い。したがってもう諦めてこのまま行くしかない。
今日は雨が降った。そして連休明けで嵐山への観光客はほとんどいない。昼頃に雨は一旦上がったので、また桂川沿いの自転車道路に行った。そして数枚の写真を撮り、そのうち4枚を加工して載せる。連休の間も工事は続いていたことがわかる。松尾橋西詰めから北の中ノ島まで達する予定の河川敷内の仮設道路は前回よりも伸びていた。松尾橋西詰めを根元として、その木の梢としての位置が2枚目の写真で、その先すなわち北側が最初の写真だ。この2枚の写真は河川敷の幅が10メートルもない区域で、どのように重機が通るのかと思っていた。その答えが2枚の写真から明らかだ。河川敷は通らず、河川敷を避ける形で川の流れの中に新たに道を造る。そのためには左岸の現在の工事と同様、川を堰き止め、大きな土嚢を積み重ね、そうして区切られた内部の水を側に吐き出す必要がある。なぜ10メートルの幅の中を通らないのだろう。そこだけ特別保護すべき植生があるということはない。その区間の自転車道路は河川敷から真っ直ぐ立ち上がっている護岸上にある。そのほかはみなかなり緩い斜面で、そこから思うに、直立護岸を傷める可能性があるのではないか。自転車道路が陥没や崩落すれば修復費用の問題が生じる。そこで無難であることを優先し、その直立護岸の区域は仮設道路を護岸からかなり離したところに設けようということなのだろう。工事にも稚拙はあり得るが、多少費用がかかってももしものことを考えて無難な方法を採るのが最善で、今日の1,2枚目の写真を改めて見ながらそんなことを思う。とはいえ、工事現場で働く人の中には経験不足もあるだろう。そういう人が酷い事故を起こしては保障が大変で、それで現場には「安全第一」とよく書かれる。そうまでしても事故は起きるし、そうなれば現場責任者が稚拙だと言われかねない。よくYOUTUBEで車の運転の初心者が駐車場に車を入れるのにとても苦労している映像がある。重機を扱う人が同じようでは現場はお笑い劇場となって、事故にはつながらなければたまにはそんな人がいても面白いが、そのように稚拙にはどこかかわいらしさもある。初心さと言ってもよい。とはいえ、筆者のように63の男が初心とは気持ち悪いだけで、ここは稚拙さを感じさせない文章としたいところだが、慣れない重機の運転のように話がどこへブンブン回って行くのは自分でもわからない。で、1,2枚目の写真に戻ると、午前10時頃に傘を差して郵便局に行った後、地元小学校の正門前を通り、そして桂川沿いに出て工事現場の様子を確認した。工事がかなり進んでいたので、今日は撮影を決めたが、雨では出にくいので、雨が上がるのを待って出かけた。ところがわずか2時間の間に現場の様子がかなり変化していて、しかも現場には誰もいなかった。昼時なので食事に行ったかもしれないし、また雨のための今日は午前中の作業で終わったかもしれない。2時間で何がどう変わったかだが、川の中に白いロープが張られていたのが、そのロープの線のとおりに今度は赤い浮きの鎖が設置されていた。その内側に土嚢を積むはずで、白いロープは絵で言えば下書きだ。その先端は直径50センチほどの白い円形の中に白い十字のロープ巻きで、それが水面ぎりぎりに浮いていた。その写真を撮りたかったのに、2時間でそれがなくなった。
2枚目は白い砂をユンボが盛っていて、松尾橋西詰めから伸びる仮設道路の梢箇所だ。後方に軽トラックが仮設トイレを積んでいる。これはどこかに設置されるものではなく、こうして梢の成長とともに移動するようだ。寒い時期であるので、すぐ近くにトイレが必要だ。また、このトイレは右岸の工事の最重要箇所が、白砂を順次敷き詰めて行くその先端であって、松尾橋西詰めではないことを示している。今日はその橋まで行かなかったが、それは正解で、変化はないだろう。ただし、銀杏の黄葉がどうなっているかは気にかかる。3枚目は200メートルほど下流で、2枚目の現場のユンボは写真の左端に見えている。河川敷の中に立って撮ったように見えるが、自転車道路上からで、白い鉄の柵が筆者の前にはだかっている。中央に見える道路部分は以前はもちろん雑草だらけで、ほとんど人は踏み込まなかった。こうして見ると、アマゾンのジャングルがひとたまりもなく道路が出来て開発されて行く様子がよく想像出来る。4枚目は前回書いた桂川に流れ込む水路だ。白砂道路の下に太いパイプを三連並べ、さらにその上に鉄板を敷いて重機の重さに耐えるようにしてある。雨が降ったので小川のように見えるが、晴天が続けばほとんど水は流れない。先日書いたように、この箇所の工事に際してパイプを運んで来たトラックを見かけ、それを下ろす様子の写真を撮った。その時、4枚目に見える太い蛇腹状のパイプとは別に、直径30センチほどの塩ビ管が2本積まれて来ていた。それがどうも現場に合わないことを知って新たに太いパイプを3本運んで来たのだ。その用のない2本は持ち帰ったかと言えばそうではなく、現場に放置されている。これは最初の見込みが稚拙であったためだ。だが、現場全体の工事費からすればその塩ビ管2本の費用など、無視出来るほどに少額だ。そこで白砂道路の際に無造作に放られたままで、これが工事が終わってもそのままなのか、注目したい。持ち帰る場所はないであろうし、地元住民が拾って使うにしてもその用途がまずない。かといって現場にゴミとして残されるのはよくない。それとも、今回の工事の別の場所で使う予定があって、一緒に運ばせたのかもしれない。何しろ筆者の勝手な想像はまことに稚拙で、外れることが多い。