●秋の花の移ろい、今年も、さらに
と聞くと目を思い出す。まさに杏の形という目をした若い女性が自治会にいて、最初にその人の顔を見た時にはたじろいだ。またその女性の2歳くらいの女の子の目はもっと杏型でしかも大きく、筆者はその子の話を家内に5回はしたことがある。



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めったに見ることのない目で、あまりに個性的なので、10代、20代になればどのような女性になるのかと思うものの、想像がつかない。失礼に当たるので訊いていないが、その女性にはインド辺りの血が混じっているのではないだろうか。それはさておき、杏というのはアプリコットで、その色は熱帯を感じさせ、ジョージ・ハリスンの3枚組LP『バングラデシュのコンサート』の箱の色がそうであった。筆者はその色が好きで、同じ色の無地のマフラーを持っている。それを首に巻いて数年前に裏寺町通りの宝蔵寺に行った時、二度目の対面であった住持の母堂が「いい色やね!」と意見された。高価なものではなく、むしろかなりの安物だ。女子高生が用いるものらしく、1000円もしなかった。それもどうでもいいことで、杏はその中の種子の形で認識されているのではないだろうか。銀杏の実は、雲古臭い果肉を取り除いた後の白い杏型の種子からその名前が来ていると思う。筆者は何年か前、大阪市立美術館の玄関脇の銀杏の木の下で実を拾い、それを持ち帰って水に浸した後、白すなわち銀色に見える種子を得たことがある。スーパーでも売っているが、種子を取り出すのがかなり手間なこともあって、わずかでも1000円近い。死んだ友人Nが銀杏の実が大好きで、家族総出で、実を拾いに行くと言っていた。どこで拾うのか訊くのを忘れたが、同じように拾う人がいるはずで、奪い合いになるのではないだろうか。御堂筋ではどうしているのだろう。大阪市の所有物なので勝手に持ち帰っては泥棒になるが、それを言えば筆者が大阪市立美術館で拾ったこともそうなる。だが、銀杏の実は踏まれると雲古のような強烈な臭いを発するから、そうならない前に、大阪市は金を出してでも拾ってもらうべきではないか。だが御堂筋では車が走るので拾うのに夢中になるとまずい。それもさておき、銀杏は雌と雄があって、1本では結実しないと学んだ。御堂筋ではたくさんの銀杏の木があるから、その心配はない。だが銀杏はたいてい大きな木が1本だけ立っている。大きくなり過ぎるので、1本で充分と思われているのだろう。去年だったか、鎌倉の鶴岡八幡宮の有名な樹齢千年ほどの銀杏の古木が倒れたというニュースがあった。それも1本で、銀杏はだいたいが孤独だ。さて、嵐山でも銀杏の木はいくつかある。今日の3枚目は昨日書いた中国人のカップルが撮影していたものだ。これをよく見ると、幹は2本で、枝が交互に入り組んで抱き合う形になっている。2本は植えられる距離が狭過ぎた。あるいは勝手に種子が飛んで来るかして成長したのだろう。昨日書いたように、桂川の最も外側の高い土手の上が車道となっていて、木はその下の公園の片隅から生え出ている。道路から下まで3メートルはあるか。全体では高さ10メートル程度と思う。幹は直径30センチ程度で、樹齢は2、30年か。2本の幹の間がまた30センチほどなので、もう数十年すると、幹は合体し始める。そうなると一気に古木の風格が出て、もはや伐採する気が起こらないだろう。だが、道路際ぎりぎりに立っているから、成長に伴って道路を破壊する。そうなると、待ってましたとばかりに役所は伐採に取りかかる。
d0053294_042679.jpg 2本の木が1本のように見えるのは昨日載せた最初の写真の金木犀もだが、昨日の写真ではそれがわからなかった。それで今日は同じ日に別の角度から撮った写真を最初に載せる。松尾橋の上から撮った。陽射しが今とは全然違っている。秋は変化がすぐだ。気づけばもう晩秋、冬だ。それを人生にたとえるのは月並み過ぎるが、還暦を過ぎると、人生の秋ということを感じる。上田秋成は名前に「秋」が入っていることもあってか、秋が好きであったようだ。秋と言えば菊で、『雨月物語』にも出て来る。今はちょうど菊の季節で、昨日は地元小学校の近くの小さな家の玄関前でたくさんの大輪の菊の鉢植えを見かけた。筆者はそういった菊を育てる趣味はないが、見るのは好きだ。そしてどのようにしてそのような見事な形で咲かせるのかと思う。とても手間がかかるはずで、筆者の年齢から挑戦しても、まともに咲かせる、満足出来る形に育てられるまでになるのはきっと無理だろう。そう思うとなおさら菊を育てる趣味のある人が眩しく見える。懸崖の菊もいいが、わが家ではそれを置く場所がないから、やはり直立した大輪がよい。ならばそのように咲く菊の写真を積極的に撮影すべきで、また今年は大阪でもちょっとした菊の展示を見たのに、カメラを向けなかった。懸崖菊ならもっと見たが、そうした鑑賞用の整えられた菊はあまりに形が完璧過ぎて、撮影する気になれない。完成度が高いものには圧倒されるということだ。そう言えば、最初に書いた杏の形をした大きな目の母親や娘の顔の写真を撮りたいと思ったことはない。カメラを向けることは、被写体の何かを奪おうという気があってのことだ。そして完璧な存在はそういう気を起こさせず、ただ見ているだけ、あるいは思い出すだけで充分だ。それで筆者が撮る写真はみな不完全なものと言ってよい。そのため、撮影する時には角度を考えるし、またブログ用にトリミングする時も1,2ピクセルにこだわる。不完全なものを撮影し、加工することで完全なものにするという考えだ。もっとも、それは全くの自己満足で、芸術作品であることを目指しているつもりは毛頭ない。話のついでに書くと、ブログ用の写真はほとんどが物か景色だ。人間は生々しく、また自分の姿ならいいが、他人では許可を得ねばならない。本当はきれいな女性を撮りたいが、女は好きな男にだけ最高の笑顔を見せるもので、そのことを知る筆者は最初から美女を撮ることは諦めている。話を戻して、今日は最初と3枚目の写真が、2本の木が合体して1本に見える。そこで思い出すのが梅津の梅の宮大社の紅白梅の2本の木だ。これは前にも一度書いたことがある。30年ほど前、本殿に向かって右手に紅白梅の若い木が植えられているのを見かけ、写真に撮った。2本は1メートルほどか、成長するにしたがって枝が絡み合う距離に植えられていた。それが今はどうなっているだろう。いつでも確認出来るというのに、今久しぶりに思い出した。神社としては雌雄の番の仲のよさを示すためにそのように至近距離で2本を植えたが、梅の木としては迷惑だ。根は絡むし、枝もそうだ。そして樹齢100年や200年となれば2本は1本の木にますます合体して行く。人間の夫婦はそういうわけには行かないから、せめて木でそういう一心同体を見たいのだろう。いや、人間でも一緒に死ぬ心中というのがある。とはいえ、シャム双生児は切り離されることが多く、同体はやはり不便で、木も迷惑だろう。そうそう、どこかの藤棚が長さが50か100メートルもあって、しかも1本の木と化していることをTVで最近見た。等間隔に植えていたものを、その伸びた枝同士をつないだのだ。つまり、根や幹は分かれているが、棚の上の枝の最も太いものは1本につながっている。筆者は裏庭向こうの小川沿いに紅白梅の苗木を買って来て植えたが、その時2本の距離は2メートルは開けた。その方がどちらの木ものびのびと成長出来る。そう考えるのが普通だろう。人間のつごうを優先するのはかわいそうだ。
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 イギリスの有名な女性園芸家のベス・チャトーと、彼女とは正反対の考えを持っていた天才園芸家のクリストファー・ロイドはお互い意見を文通で交換し合いながら、どちらも自分の考えを曲げなかったが、筆者はどちらかと言えば自然派のベスの考えの方に賛成する。そのベスがTVのインタヴューで、何を目的として庭を造って来たかと問われた。彼女はすぐには答えられなかった。そんなことは長年考えて来なかったのだろう。それほどに夢中に進んで来たと言えばよい。ようやく彼女は口を開いて答えたことは、この世の天国というものがあれば、それは自分の庭だろうといったことで、なるほどと思わせられると同時に、月並みな答えとも感じた。「この世の天国」への思いは庭師だけではないだろう。画家でも詩人でも建築家でも、人間として生まれたからには天国のような幸福感がほしい。だが、庭は絵や彫刻とは違って規模が大きく、その中を逍遥するもので、天国という言葉を使うのにふさわしい。先に作り立てる菊は完璧な形と書いたが、ベスもクリストファーも庭を「造る」ことでは同じで、また「造る」からには完璧を目指すから、自然に見えるベスの庭も全くの造り物に見え、それゆえ好き嫌いの感情が見る者に芽生える。日本の寺社の庭にも立派なものが多く、それらもまた石や水、草木の配置など作為あってのもので、イギリスの庭園とその点では変わらない。わが家にはとても小さい裏庭があって、そこには大きな木が何本かあるほか、草花もあるが、どの植物も筆者の好みで植えたものではない。それで気に入らない木もあるが、切り倒すのが面倒、またかわいそうという気がするので、目障りでないように枝を払うなどしている。それは写真で言えばトリミングで、筆者の思う完成形に近づける行為であり、自然そのものではない。つまり、造作が入った庭で、その点でベスやクリストファーとは同じ立場にある。違うのは彼らのように筆者が自宅の庭を天国とは思っていないことだ。では天国と思えるような庭にすればいいが、それには知識も根気もない。そこで散歩しながら目につく季節の植物を楽しむ方が楽しく、そうして撮った写真をブログにたまに載せている。今日は昨日の続きで、昨日の4枚目以降今日までに撮った写真を載せることで、今年の秋の記念にする。2枚目は22日に池田の逸翁記念館の庭で撮った。銀杏の木の手前に赤くなっているのは楓だが、まだ緑の葉が多い。この館ではもう2枚紅葉を撮った。それらはひとまず保管して機会が見つかれば載せる。この館の庭は詩仙堂の庭ほど大きくはないが、それを思わせる変化がある。そんな中にこの写真の銀杏は今後を考えるとあまり好ましい木ではないように思う。大きくなり過ぎて茶室などを日陰にするからだ。それを考慮して毎年枝が切られているのではないか。今日の最後は逆光だが、桂川右岸の河川敷のうち、最も幅が広い部分の中ほどに立って自転車道路を見つめて撮った。20日のことだ。前にも書いたように、この雑草だらけの河川敷に立つことが筆者は好きだ。それもあって、この写真はよく撮れたと思っている。中央にベージュ色に見えている猫じゃらし(エノコログサ)は人が踏みしめた道上に生えている。この道は真夏は全く見えないほどに雑草が繁茂する。この河川敷は全くの自然そのままと言ってよい。そうであるのに庭以上に気分がよいのはなぜか。生えている雑草はみな庭にあっては厄介なものばかりだが、それでも可憐な花を咲かせ、葉が赤く染まるものもあって、秋そのものを感じさせてくれる。欲を言えば杏型の食べられる実が出来ればいいのに、実と言えばジーパンに大量にくっつく「ひっつき虫」だけだ。
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by uuuzen | 2014-11-24 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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