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●「IN MY ROOM」
弱し切って消え入るようにレニ・リーフェンシュタールは死んだそうだが、日本では100歳を超えてもそれなりに元気な老人が増えている。家内の母親の母親は100歳以上生きて当時の総理大臣から賞状をもらった。60年代終わりの頃と思うが、当時はまだ100歳は珍しかった。



それが今では100歳以上が万単位となって、増加の一途だ。それはさておき、7月は『思い出の曲、重いでっ♪』のカテゴリーに投稿するのを忘れた。あえてしなかったのではなく、すっかり忘れていた。筆者は痴呆症になるのが早いかもしれない。ま、それもさておき、7月分を今日投稿する。ザ・ウォーカー・ブラザースの曲「孤独の太陽」を取り上げる。彼らの日本でのヒット曲はいくつかあり、そのどれでもいいのだが、以前写真を載せた「ダンス天国」は彼ららしい曲とはあまり言えず、それで筆者が彼らの名前を聞いて直ちに連想する「孤独の太陽」にする。原題は「イン・マイ・ルーム」で、「孤独の太陽」とはまるで違うが、「孤独」な思いを歌っているので、昨日書いたように、邦題は内容をわかりやすく説明するために工夫が凝らされる。そして「孤独の太陽」はよく出来た題名だ。もっとも、彼らの本曲以前のヒット曲が「太陽はもう輝かない」(The Sun Ain‘t Gonna Shine Anymore)で、「太陽」はその二番煎じを狙ったものだ。それに格好いい青年3人組は「太陽」と形容するにふさわしいとレコード会社は考えたのだろう。「ダンス天国」のヒットは本曲の次で、1966年秋ではなかったかと思う。当時筆者はビートルズの大ファンで、ウォーカー・ブラザースの3人組は大人っぽい印象は受けたがビートルズのように演奏も自分たちでするというバンドではなかったのでさほど関心は持てなかった。これはモンキーズについても言える。筆者はビートルズのように自作自演のミュージシャンこそが最も有名になるべきと考えていた。その点からすれば、ウォーカー・ブラザースは声は確かにとてもいいが、単なる歌手で、それはビートルズが蹴散らしたミュージシャンの末裔に過ぎないという思いがあった。今でもその思いは変わらず、筆者は他人の手を借りずに作品をひとりで作り上げる才能こそが芸術家に値すると考えている。そういう頑固さがあったので、京都に来て友禅界に入った時は驚き、また失望もした。分業があたりまえと言うより、どの工房でもそうで、作家はいわばプロデューサーであり、自分では作らず、弟子や外注に任せ、そして自分の名前をつけて高く売る。それほど友禅は工程が多く、ひとりで全部をこなすことは不可能とされている。だがそんなことはない。筆者は自作をすべてひとりで作って来た。その点は天に対して恥じることはない。だがそういうことを言うと、キモノの生地は自分で織ったのかと嫌味を言うのがいる。では画家はキャンヴァスを自分で織り、音楽家はピアノやヴァイオリンを自分で作らねばならないのか。話を戻すと、筆者がビートルズを聴き始めた中学生の頃、ビートルズはアイドルで、早い話がレコード会社などが儲けるために量産しているミュージシャンのちょっとした成功例で、2,3年経てば消えて行くと思われていた。それどころか、ラジオではビートルズがあれほどのヒット曲を量産出来るはずがなく、作曲は何人かに手分けいて任せているのではないかと言うDJまでいた。自分の才能のなさを棚に上げて天才を貶めようとするのはいつの時代でもいる。そう思ったものだ。それはさておき、アイドルと言えばその代表がウォーカー・ブラザースに思えた。何しろ彼らは自分では演奏せず、歌うだけだ。声のいい、そしてルックスのいい青年を集めてくればレコード会社はまんまと大金が儲けられる。レコード会社の操り人形のようにウォーカー・ブラザースのことを思ったのだ。
●「IN MY ROOM」_d0053294_0192375.jpg

 彼らは日本のチョコレートか何かのTVコマーシャルに登場した。それによってさらに人気が出て、ついに来日してTVで歌う姿を披露した。それが1967年の冬休み明けではなかったか。当時のTVは白黒であったが、どのような格好と振りで歌うかは充分わかる。朝の番組に登場した時はほんの少しだけ見たが、登校するとそれまでビートルズなどの洋楽に全く関心を示さなかった同級生Kが顔を紅潮させながらウォーカー・ブラザースのTV出演での歌い方が格好よかったと筆者に話した。そして「ダンス天国」の振りつけを真似して、手を前に突き出しながらくねらせた。彼にとっては当時最大のカルチャー・ショックだったのだろう。Kは女っぽい仕草を時にしていて、それは姉が数人いる末っ子であったからだろう。今から10数年前にKに会った。彼はシャンソン歌手になっていた。そして同性愛者であることを隠さなかったが、彼の歌手としての原点は、本人は否定するかもしれないが、筆者はウォーカー・ブラザースの歌う姿をTVで見たことにあると思っている。彼らは日本で大人気を得たのはいいが、すぐに解散してしまい、3人のうちのスコット・ウォーカーがソロで活動するようになった。3人の中では一番貫禄があって目立っていたので、それは当然であったろう。「歩行者兄弟」の3人の歩行はデビューして3,4年で足並みが乱れてしまった。グループでの活動ではよくある話だが、ビートルズより後に結成され、先に解散してしまったのは、それだけグループとしての活動が難しいことを意味している。その理由はメンバーの考えが大きく違って来ることが一番であろうが、そのきっかけはレコードの売れ行きが芳しくなくなる場合が多いのではないか。ビートルズはそうではなかったし、またウォーカー・ブラザースも当時の人気からすれば解散するより、グループで活動する方が収入の点ではよかったのではないか。あるいは、スコットがソロ活動しながら、一方でグループを存続させるかだ。たぶんそのような話も他のふたりとの間であったかもしれない。だがスコットは潔くソロで活動を始めた。70年代半ばに一時的に再結成するが、もうその時は時代が変わっていて日本のファンも関心を失っていたであろう。ウォーカー・ブラザースは3人とも「ウォーカー」という名字で、それで「兄弟」と名乗ったが、血のつながりはないし、またこの名字は芸名だ。モンキーズのように、レコード会社が売らんがために集められた3人ではなかったか。面白いのはいかにもイギリス的な感じの3人組であったのに、アメリカ出身であることだ。今手元に「孤独の太陽」のジャケット見開き内部の解説を読むと、「イギリスに帰化申請中」とあって、「永久にイギリスにいようと思っている」と書かれる。WIKIPEDIAによれば、スコットは1965年にイギリスに住み始め、70年に同国に帰化している。他のふたりについてはわからない。アメリカに生まれながらイギリス人になりたいというの、その逆に比べてはるかに少ないのではないか。それはともかく、スコットの物静かな雰囲気はイギリスに似合っている。詩を含めたイギリスの文学というものにスコットは憧れがあったのではないだろうか。そういう大人っぽさはその歌声や顔つきに滲み出ている。それでアイドルのように若い女性からろくに歌を聴いてもらえずにきゃーきゃーと騒がれることがいやであったのかもしれない。スコットは1943年の生まれで、ビートルズと同世代だ。ビートルズがツアーしなくなったのと同じように、ウォーカー・ブラザースもアイドル・グループという世間の見方に耐えられなかったのだろう。そして、自分が本当にやりたいことをして行きたいと考えた。
●「IN MY ROOM」_d0053294_0203663.jpg 本曲のイントロはバッハの「トッカータとフーガ」で、これは当時ラジオでも言われた。手元のシングル盤の解説にも書いてある。バッハの同曲は学校の音楽の授業でステレオで鳴らしてもらった記憶があるが、記憶間違いかもしれない。ひとつはっきり覚えているのは、オープン・リールの小型録音機を母がどこかからもらって来て、それを中学生の時に筆者が使っていたことだ。ビートルズの来日公演もそれで録音したし、翌67年のNHKで放送された初の衛星中継にビートルズがスタジオから「愛こそはすべて」の録音風景が放送された時もそれを録音した。テープは貧乏中学生が買うには高価であったので、カセット時代のように数百本も買うことは無理で、数本を何度も録音しては消した。そういう中で深夜のラジオ放送から流れて来るバッハのオルガン曲を録音したテープがあった。最後は演奏途中で切れていたが、その録音が気に入り、何度も聴いた。その演奏の中に「トッカータとフーガ」が入っていた。そのため、筆者は同曲については中学生で馴染んでいた。ついでに書くと、その録音はオルガン演奏の前にチェンバロ曲も入っていて、そのふたつの音色を聴くのは夜にぴったりだと思ったものだ。当時筆者は学校が楽しくて仕方なく、孤独をほとんど感じず、ウォーカー・ブラザース野「孤独の太陽」が深刻な内容を歌っていることは気づいていたが、それ以上の詮索の興味がなかった。当時はこの曲のレコードを買わず、歌詞を知るすべもなかったが、歌の最初の1行だけは中学生にもよくわかり、ホール突き当りの部屋で孤独を噛みしめて坐っている男の気持ちを歌ったものであることは想像がついた。簡単に言えば失恋の曲だ。だいたい歌詞つきの洋楽は失恋を歌ったもので、本曲もその類で珍しくも何ともないと思ったが、当時イギリスのバンドのクリームも人気急上昇で、本曲の翌年であったと思うが、ジャック・ブルースが歌う「WHITE ROOM」のヒットがあって、「ROOM」という言葉が流行っていたのかもしれない。これは「閉じ籠る」のイメージがあって、そこから「失恋」が暗示される。つまり、「暗い」曲で、またその分本曲は大人びていると感じた。当時はウォーカー・ブラザースの作詞作曲と思っていたが、彼らのヒット曲はカヴァーばかりだ。これはオリジナルがさして出来がよくなく、ヒットがあまり望めなかったのに、彼らが取り上げると世界的にヒットしたことであり、その点はビートルズと同じで、グループとしてのカリスマがあった証拠だ。何より売り物であったのはスコットの渋いバリトンの声で、これに痺れたファンが多かったはずだ。筆者もその口で、スコットのように艶があって色気もある声の持ち主はその後登場したかと言えば思い当たらない。その声がウォーカー・ブラザースの代名詞であって、スコットが早々とソロ活動したのはわかる。先にクリームが出たので書いておくと、ウォーカー・ブラザースも同じ3人でまた同じくギター、ベース、ドラムスをそれぞれ担当する。本曲のジャケット写真には中央のドラマーのみ楽器を担当していて、これは日本のTVに出た時も同じであった。その前にヴォーカルのふたりが並んで歌ったが、本曲シングル盤ジャケットでは左のジーンズの上下を来た男がスコットだ。彼は本来はベースを担当するが、これはリード・ヴォーカル担当であるのでポール・マッカートニーやジャック・ブルースと同じだ。クリームのように楽器の即興演奏を聴かせるバンドではなく、ビートルズのように3分までの短いヴォーカル曲を歌うバンドで、楽器の演奏は重視されなかった。それは3人で奏でるロック・サウンドでは限界があると感じていたからかもしれない。本曲からもそれはわかる。多彩なオーケストラをバックに高らかに歌い上げるというのがスコットの好みのようで、自分は楽器を演奏せずとも、声という最大の楽器を持っているという自負が感じられる。それは実際正しい。
 さて、本曲は誰のカヴァー演奏かと言えば、ジャケット見開き内部の解説には、「最近“Tar & Cement”(黒い太陽)のヒット曲を放ったアメリカの黒人女性歌手ヴァーデル・スミスのデビュー曲です。彼女の歌で‘66年3月5日付ビルボード誌の62位までランクされました。」とある。便利なネット時代になったので、このVERDELLE SMITHという歌手についてはすぐに調べられるし、またYOUTUBEでは彼女が歌う本曲も聴くことが出来る。ややハスキーな優しい声で、当時絶大な人気があったダスティ・スプリリングフィールドを多少思わせる。アレンジは本曲と全く同じと言ってよいが、イントロは本曲のようにトランペットではなく、ハモンド・オルガンによる「トッカータとフーガ」の冒頭のメロディが使われている。同じアレンジというのはビートルズが他人の曲をカヴァーした時もほとんどそうで、驚くに当たらない。だが、本曲に関しては事情が複雑で、先の説明の続きにはこうある。「原曲はイタリアのカンツォーネです」。この申し訳程度の説明に1966年にこのシングル盤を買った人は歯がゆい思いをしたであろう。だが、当時はカンツォーネも日本で流行していて、ビートルズやヴェンチャーズのヒット曲に混じって違和感なく筆者は聴いていた。それは70年代に入った途端にロック一辺倒に世の中が変わってしまうが、ではイタリアでカンツォーネが歌われなくなったかと言えばそれはない。それはさておき、シングル盤のレーベル面には「Prieto」というラテン系の名前と「Pockriss-Vance」と、計3名が挙げられている。プリートかプリエトかどう読むのかわからないが、これが作曲者で、後2名は原曲の歌詞を英訳した人たちだ。ではPrietoとは誰か。これは「Joaquin」という名前で、「ホアキン・プリエト」という南米チリの作曲者だ。同じ人物と思うが、彼の大ヒット曲に「ラ・ノヴィア」がある。1960年の作曲で、日本でもカヴァーされた。ジャケット内の解説にある「イタリアのカンツォーネ」は間違いで、同じラテン国ながら、スペインで本曲のオリジナルが発売された。それをYOUTUBEで聴くことは出来ないが、AMAZONでスペインで発売されたCDを買うことが出来る。歌っているのはJaime Moreyという男性歌手で、原題は「El Amor」だ。本曲のようにイントロが「トッカータとフーガ」を使っているのか、また失恋の歌かどうかわからないが、「愛」という原題はそうではないように思わせる。ジェイム・モーリーの歌う「El Amor」はさほどヒットしなかったのだろう。それをアメリカの黒人女性歌手がカヴァーし、そしてウォーカー・ブラザースがさらにカヴァーして世界的に有名になった。ホアキン・プリエトやジェイム・モーリーにどれほどの印税が入ったかわからないが、たぶん雀の涙であろう。モーリーの若い頃の姿や歌声はYOUTUBEで見ることが出来る。スペインでのみ有名な歌手で、日本の歌謡曲の大御所を思えばよい。それはさておき、60年代半ばの大ヒット曲はけっこう複雑な経路をたどって生まれていることが本曲からわかり、またそのことは今で言うグローバルであって、70年代以降より断然ユニークで面白い。作詞作曲自演を旨としたビートルズがトップの座を獲得してからは、モーリーのような歌手はみな食い上げになったも同然であったはずだが、それなりに美声はいつの時代でも大人気で、中学生の筆者も好みであった。楽器の演奏もいいが、何より自分の声で歌うことが楽しい。スコット・ウォーカーについては明日も書く。
by uuuzen | 2014-09-29 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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