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●『新収蔵品による 杉本健吉展』
今日、正倉院展を観た後すぐに奈良県立美術館に行った。予想どおり、館内はがらがらで、小1時間ほどの間、他に入場者はひとりしかいなかった。チラシが作成されていないので宣伝が行き届かず、また杉本健吉という画家の名前も比較的有名でないためであろう。



●『新収蔵品による 杉本健吉展』_d0053294_22174350.jpgところで、今気づいたが、健吉の吉という字はパソコンでは士に口であるのに、チケットや館内でもらった目録の表示では士が土になっている。どちらでもいいようだが、杉本自身は後者を採用していたようだ。いろいろの資料を見るとみなそうなっている。また、士より土の方が何となく杉本の絵には合っている気がする。杉本の名前を最初に意識したのは大阪四天王寺の障壁画の『聖徳太子絵伝』だ。これは着手してから5年かかって1983(昭和58年)に完成している。当時話題になったのを知っているが、その後四天王寺の境内には二度ほど訪れたにもかかわらず、見ていない。また、四天王寺の障壁画と言えば、中村岳陵が金堂に描いたものがさらに有名で、これは見ている。こっちは1959年に着手されて1960年に完成しているから、当然杉本はこの絵を見て『聖徳太子絵伝』を描いた。ちなみに中村は杉本より15歳年長であるから、ふたりとも同じような年齢で四天王寺に描いたことになる。中村の絵の丹精かつ端麗な味わいは筆者の好むところだが、杉本の絵はジャンル分け不可能なところがあるとはいえ、洋画があくまでも基盤であり、しかもやや荒削りで素描的な作風のため、勢いや親しみやすさはあっても、神経が張り詰めたような、たとえば鉄線描を特徴とした仏画に特有なような完成度はない。そのため、物語的な大画面を埋めるのは得意でないような気がするが、今日見た作品の中に四天王寺障壁画の画稿が10点ほどあって、それらからは完成までに何度も構図を練っているのがよくわかった。原寸大の画稿ではなく、小下絵であるので、実際の迫力は伝わらないにしても、それでもあまり面白い絵とは思わなかった。聖徳太子の誕生から死までを何枚かの画面に順に描くとなれば、誰でもある程度は同じような内容になるであろうが、それでもなお、何となく杉本らしい伸びやかさに欠けた雰囲気があった。
 杉本の代表作がどんな絵かは知らない。杉本の絵をある程度まとめて見た最初の経験は、2年前の4月に開催された同じ奈良県立美術館における『大和を描く 杉本健吉展』においてだ。初期から晩年まで全部で86点が並べられた。その時の印象がとてもよかったので、その後古書店ではなるべく気をつけていたところ、杉本美術館の図録が7、8冊まとまって出ているのを見かけたことがある。杉本美術館は杉本の生まれた名古屋市にちなんで、知多群美浜町に1987年に開館した。画家がまだ存命中であるのに、こうした立派な美術館が建てられるとは、いかに杉本が優れた画家で、人々から愛されているかがわかる。古書店で見た図録はその美術館が毎年発刊していたものであったと思うが、おそらく所蔵作品が多いため、少しずつ図録にまとめて掲載しているのであろう。その後筆者が入手したのは『杉本美術館』と題する図録で、1997年に開館10周年を記念して出されたものだ。今それを手元に広げて順に図版を眺めているが、2年前に奈良県美で見た作品はほとんど収録されておらず、どうも物足りない。それほどに2年前の展覧会はよかった。ところで、今日もらった目録によれば、杉本は去年2月に名古屋で亡くなっている。つまり、筆者が2年前に奈良県美で見て8か月後のことだ。これは知らなかった。今回の展覧会は新収蔵と銘打ってあり、遺族の遺志によって奈良県美に寄贈されたものだ。。いずれにしても杉本は奈良に非常に関係が深い画家であるので、こうしてある程度作品がまとまって奈良の公的機関に保存されるのはいいことだ。だが、作品の充実の度合いから言えば、2年前の展覧会の方がよかったように思う。それは大半を杉本美術館から借り受けながら、テーマが「初期」「古都を描く」「挿絵を描く」「世界を描く」「『芸』を描く」「花を描く」といったようにわかりやすく分けられていたことも理由としてある。今回もテーマ別に展示されていたが、すべて紙に描いたもので、キャンヴァスに描いた油彩がない。これが物足りない理由に思える。
 杉本の師匠は岸田劉生と梅原龍三郎だ。前者には19歳で、後者には30歳で出会っている。こうした巨匠と言われる人に相次いで師事すれば、その絵がどのような圧倒的な影響を受けるかは想像にかたくない。実際手元にある『杉本美術館』を見れば、梅原張りの華麗で豪放な牡丹の絵が30点ほども収録されている。それらは圧倒的な梅原の影響を感じさせるが、どこか劉生の晩年の日本画をも思わせる味わいがある。このようなところから出発した杉本が35歳で奈良に旅行し、東大寺の上司海雲師を知り、以後奈良と深い結びつきを持ったことは、杉本の転機となった意味において幸いであった。岸田も関東大震災直後に京都に移住し、そこで古美術に開眼して積極的な収集もし、作風の変化にも至ったが、杉本は岸田が興味を抱いた江戸時代よりもっと以前の奈良時代の仏像や、あるいはそれらを生んだ奈良の風土に関心を抱いたことは、その後の仕事の広がりを自然と用意したと言える。もし、杉本が京都に落ち着いたのであれば、またその芸術はまた少々違ったものになっていたろう。杉本は京都も題材にしているが、やはり奈良を描いたものがはるかによい。奈良の夕暮れの鹿のいる風景や、あるいは国立博物館内部の法隆寺百済観音像を収めた大きな陳列ケースなどを描いた油彩画を2年前に観た時、絵具を自在に操って、その魅力を限りなく引き出している見事な才能を感じたものだ。油彩画の理想的な、つまり無理のない姿がそこにあると言ってよい。極端なデフォルメに走らず、また几帳面過ぎる写実でもなく、着実に筆が動いて迷いなく一気に仕上げたものにだけ宿る充実した快適な感覚に満ちていた。省略は多いのにもかかわらず、実物の細部までもがそこから浮かび上がって来るようなリアルさがある。そこには岸田や梅原の絵からすっかり脱却して、対象に自分の感覚き技量のみで対面している姿がはっきりと表われている。目録を見ると、1941(昭和16年)に「奈良博物館」、翌年に「博物館中央」、46年に「博物館彫刻室」を、それぞれ新文展や国画会展に出品し、後2点に関しては特選を受賞している。これも今気がついたが、2年前に見て大いに感心した博物館の陳列ケースを描いた油彩こそが「博物館中央」や「博物館彫刻室」で、これらは東京国立博物館や奈良国立博物館の収蔵だ。このことから、前者は東京国博を描いたものかもしれない。いずれにしろ、奈良で一人前の画家として育った杉本にすれば、その記念碑的な作品が、それを題材にした場所に所蔵されていることは、画家にとってはこれ以上の本望はないだろう。それほどにこの2点は圧倒的な風格があったが、その記憶があまりに強いため、今回も期待して出かけたのだったが、前ほどには感銘を受けなかった。つまり、杉本の代表作は知らず知らずのうちに2年前にすでに見ていたことになる。だが、奈良の何でもないような風景、あるいは1949年に上司海雲師の厚意で東大寺観音院の古土蔵をアトリエに改造し、奈良を題材として制作を本格化させることになった当時の、その建物や内部、そして静物などをモチーフにした数々の素描はどれも見応えがあった。
 杉本は常に鉛筆と紙を携帯し、寸暇を惜しんで素描に勤しんでいたというが、そうした熟練者にのみ宿る自在な線の動きが杉本の素描にははっきりと存在している。実に洒落た省略や、また画面の一部に影をつけるなど、通常の素描を枠からはみ出て、それ自体で完成している状態を見れば、杉本にとっては本画や素描の差はあまりなかったのかもしれない。デフォルメもわざとらしくはなく、一見雑なようでいて、実はそうではなく、目配りの届いたていねいな精神で隅々まで描かれているのを感得すると、それはもう杉本の絵の魅力の虜になった証拠だ。須田剋太のタッチに似た面もあるが、須田の方はやや鋭角で、杉本は丸みがあると言ってよい。須田もまた奈良を愛してよく題材にしたし、実際ふたりはつき合いがあった。奈良に志賀直哉が住んでいた時のグループとしてで、その中には写真家の入江泰吉もいた。入江の写真を常設展示する奈良写真美術館で出来た1991年には杉本は陶壁画を制作しているが、それは同館を訪れるとすぐに目に飛び込んで来る印象深いものだ。洋画や日本画の枠を越え、さらに陶壁画といったものにまで手を広げたところに杉本の自在な境地を見るが、2年前の展覧会の目録によれば、「…近年は絵画のジャンルさえ越えて、木や紙や布や陶などによる彫刻や工芸、玩具のようなものにまで及ぶ多彩な創作活動を見せています」とある。こうした多彩な活動の原点もあるいは奈良に住んでいた時に見た数々の彫刻や工芸、郷土玩具などにあるかもしれない。その多彩な活動、ジャンル分け不能な点において、杉本の画家としての名声をあまり一般的でないものにしていると考えられないでもないが、そうした名声云々を越えてとにかく杉本は作ることが楽しくて仕方なかったというのが本音であったろう。そのような生の喜びに通じる楽しさが杉本のどんな小さな作品からでも伝わって来るからだ。たとえば、「水門の釣り人たち」と題する墨による印象に強い線描画があった。水門で隔てられた小さな溜池を囲んで5、6人の釣り人が水中に糸を垂れている。その様子を7、8メートルほどうえから眺めて描いているが、そののんびりとした、しかしどこか静かで孤独な空気は実によい。この絵は『骨皮帖』という全218枚が綴られた手作りの写生帳に描かれていて、制作は昭和21年だ。正確な日づけはないが、おそらくまだ戦争が終わっていない時期だろう。それというのも、杉本は戦争が始まった時、すぐに墨をたくさん買い込み(奈良は墨で有名)、これで10年ほどは絵の道具には困らないだろうと考え、毎日猛烈に描き続けた。そんな中で得られたに違いない「水門の釣り人たち」には、戦争とはまるで無関係な超然とした空気がある。これを否定的に捉えてはならない。戦争中のことであるので、のんびりと絵を描くことは肩身の狭い思いをせねばならなかったが、それでも戦争に加担する絵は描かず、ひたすら自分の描きたいものだけを描いた。その一端が『骨皮帖』と題した素描群に見られるのだが、戦争であろうが平和であろうが、一貫して変わらぬ態度で自分の進むべき道を邁進した態度は実に立派だ。そして1962年を皮切りにインドや中近東、南ヨーロッパなど、毎年のように世界各地へスケッチ旅行をし続けたのも、見聞を広めて自在な絵を描くためには欠かせぬ行動であったろう。2年前の展覧会では特に中国各地を描いたものがよかった。そこには梅原の北京を描いた絵への追憶があったのかもしれないが、明らかに杉本でしかあり得ない作風に仕上がっていた。目録によれば1986年に東京、大阪、名古屋で展覧会が開催されているが、その後18年描き続けて98歳で天寿をまっとうしたから、全画業から選んで本格的な回顧展が開催されるのはまだ先のことだろう。その機会を楽しみに待ちたい。
by uuuzen | 2005-10-30 23:58 | ●展覧会SOON評SO ON
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