燈籠が4つ見えている。今日の写真は去年7月23日の撮影で、昨日の投稿によってちょうど1年ぶりから1日投稿が遅れた。また最後の写真は定点観察とは違って臨時に撮ったものだ。その理由は木造の建物がなくなったのに、移動しにくい石の燈籠が放置されているのが面白かったからだ。
懐石弁当を食べさせる店であったので、庭は広く、燈籠を4,5個配置することが出来た。建物に再利用の価値のある材木が使われていたのかどうか知らないが、古材として活用出来ないならば、写真左端に見えるようにトラックに山積みされて廃棄処分だろう。あるいは銭湯の燃料として使われるか。石燈籠はバック・ホーの重機が壊さずにいたようで、これは壊しても瓦礫になって処分に困るだけで、運搬費用が多少かかっても石材屋や造園業に引き取られたであろう。だが、それらが再利用されるかと言えば、これからはますます需要がないだろう。そうそう、筆者が京都に出て来て最初に住んだアパートは、旧四条通りとされる、曲がりくねりながらも梅津地区を東西を走る狭い道路際にあった木造の古い民家の離れの2階であった。1階は倉庫で、2階は6帖が2間あって、左右に分かれた階段によってそれぞれの部屋に入るようになっていた。筆者が南側に住む以前に70代の男性が北側にいて、昔は染み抜きの仕事をしていたと聞いた。筆者がそこに住んだのはきっかり2年で、その間、毎月電気代を二分してその男性から半額をもらうために訪れた。電気メーターは2部屋でひとつで、基本料金も含めて1か月の料金をきっかり二分していたが、短い会話を交わしたのはその時だけで、しかも1年少し経った頃、娘さんと暮らすと言って部屋を引き払った。老人から半額をもらい、筆者の分を足してそれを大家に持参したが、それは若い奥さんがほとんどであった。子どもが確か3人いて、一番上の子が小学5,6生であったから、30代後半から40歳までであったと思う。離れの倉庫には水道とトイレがなく、水が必要な時は大家が住む母屋の向かって右端にあった暗い通路を抜けて突き当りの台所に行く必要があった。その台所は昭和30年代のタイルが目立ち、また布袋の伏見人形が一体と火の用心の札が祀られていたが、当時は伏見人形に関心はなかった。朝と夜の二度は必ずその台所に行って歯を磨くなりしたが、家主が使う台所は別にあって、それは見たことがない。その台所にいると、たまに家主の母親が笑顔でやって来て、言葉をかけてくれた。顔馴染みになった頃、その女性は嫁に対する愚痴を言うようになった。自分を疎外していると言うのだが、結婚していない20代の筆者としてはどうしていいかわからず、ただ黙って聞くだけだ。トイレは反対方向、すなわち玄関に近い方にあって、電気がなかった。そのため、夜は月明かりを頼りに用を足す。そういう不便なアパートでは家賃6000円でも誰も住まない。筆者がそこを出てからもたまにその家の前を自転車で通ることがあった。いつ間にか母屋も倉庫もきれいに建て変わったが、たぶんご主人の母親が亡くなってからだろう。建て変わったのがいつか忘れたが20年ほど前だと思う。その付近は今でも江戸時代とさして変わらないほどの古い家が少なくないが、母屋の前に広い庭があって、田舎によくある農家を思えばよい。さて、その大きな家は2か月ほど前に取り壊しが始まった。自転車で久しぶりに通りがかった時、まだ新しい家がバック・ホーによってガツガツと齧られていた。驚いた。新築して20年ほどで建て替えるとはもったいない話だ。だがどうしてか。
2,3週間してまた通りがかると、筆者が知る以前の家主とは違う名字を記した工事看板がぶら下げられていた。以前の持ち主は何らかの理由で家を手放したのだ。それがわかった時、筆者が真っ先に思い出したのはいつも筆者に笑顔で接してくれた老婦人だ。だが今にして思えば70歳になるかならないかの年齢であったと思う。描けるほどにその顔をよく覚えているが、記憶する顔が満面の笑顔というのはいい。それに引き替え、家賃を手わたした嫁はふっくらした、またいつもお洒落な服装をした美人ではあったが、笑顔を見たことがない。ご主人もそうだ。これは前にも書いたことがあるが、そのアパートを出ることになった時、数万円の保証金の一部をどのように返してもらえるのか相談に訪れた。応対したご主人は素っ気なかった。染料であちこち汚してあるので、むしろ自分たちが保証してほしいくらいだと言った。そう言われると引き下がるしかない。染料で汚れた箇所はごくわずかだが、部屋をまた誰かに貸すには畳を入れ換える必要はあるだろう。その後すっかりきれいに建て替えられたのか、あるいは外装だけ変えたのかどうか、モルタル造りのその倉庫は新しくなり、また人が入ったようであった。さて話を戻すと、その家がなぜ取り壊されたのか。ご主人は古い家柄であることを筆者に一度自慢したことがある。その地域では庄屋くらいしていたのかもしれない。家内にその家の取り壊しを伝えると、おそらくご主人が亡くなり、子どもが遺産相続して財産を分割する必要があったのではないかと返した。ご主人の年齢は筆者より20歳くらい上に見えた。ということは80歳ほどで亡くなったことになって、それは充分あり得る。筆者が暮らした倉庫もなく、全部更地になったその家が次にどうなるかを知りたいため、またその家の前を自転車で走ったところ、大きな建売の看板が敷地内に立っていた。それによれば、敷地中央に4メートル幅の出入り用の道を作り、その両側に2軒ずつ建つ。大きな屋敷は4軒の建売住宅に姿を変えることになった。それがわかった途端、筆者はその家の前の狭い道をもうあえて通りたいとは思わなくなった。財産は三代でなくなるように日本の法律は出来ていると学生時代に話してくれた友人がいる。それを聞いても全く筆者は驚きも憤慨もしなかった。親からもらったのはただこの体のみという筆者は、息子に1円の財産を残してやるつもりもない。子孫に美田を残すなという西郷さんの言葉を真似するわけではないが、働かずして大金が転がり込むことを期待するのは醜い。筆者が2年暮らした家でどんな遺産相続の話が持ち上がったのかわからないが、子どもが3人いればそれなりに揉めるだろう。相続税を払うためには代々続いた家を手放さなければならなかったのではないか。あるいはもっとほかの理由か。そこで思い出すのが、ご主人の母親が筆者をつかまえて話した嫁に対する愚痴だ。その母親は何か予期していたのかもしれない。簡単に言えば、『あの嫁では家がいつまでもうまく行くはずがない』といったことだ。それはかなり意地悪な想像だが、前述のように、筆者のその家の人たちに対する思い出は、おばあさんだけが優しい笑顔で接してくれたのであって、ほかはドライであった。それにしてもあの広い敷地がほとんど一瞬と言ってよいほどの日数で更地になり、また同じような短期で模型のような小さな家が4つ建つとは、数十年の間に風景が著しく変わることを今さらに思う。前置きが長くなった。同じようにわが自治会にあった高級な弁当を食べさせる店が更地になり、4階建てのマンションが建とうとしている。
今夜は駅前の喫茶店でその説明会が開かれた。建物を建てる前に土地を均したりする整地工事がまず必要で、その説明会は先月あった。それによれば、その工事は今月19日から始まり、10月半ばで終わる。少々長い気がするが、それはわが家の裏庭際を流れる小川に敷地が面していて、その川岸の護岸工事をする必要があるからで、それには川を流れる水嵩がかなり減った頃でなければならない。10月には川に人が入っても大丈夫なほど水深が浅くなる。建物の建築工事の開始は今日もらった資料によれば11月からだ。竣工は再来年の2月で、もうその頃には全戸が完売しているのではないかとのことだ。戸数は25で、これは思ったより少ない。また敷地面積は600坪に満たず、これは筆者が聞いた800坪とはかなり違うが、教えてくれた人の勘違いだろう。今日の説明会は地元からは筆者を含めて自治会の四役以外数人というさびしさで、説明会を開いた人たちは拍子抜けしたようだ。彼らは10名近く、むしろ地元参加者より多かった。それほどに地元ではこの工事に関心がないと言える。筆者は今日の写真からもわかるように、定点観測をすでに始めていて、それを再来年2月まで続けることになるだろう。もらった設計図によって、筆者の脳裏にはどのような建物がどのように建つかはもう充分想像出来るが、それはコンピュータを使えば、写真のような完成図を描くことは可能で、たぶんそういう図は設計会社や施工会社はすでに作っているだろう。それはともかく、このマンションは駅前ホテル「花伝抄」と同じ高さで、デザインもそっくりだ。風致地区であるので瓦屋根になるが、4階建てはそれなりに圧迫感がある。最上階との4階のみ5戸で、たぶん6000万円台の分譲だろう。説明が終わった後の質疑の中で筆者はいくつか質問した。まず、このマンションはわが自治会に属する地域に建つから、出来れば自治会に加入してもらえる世帯があるのが望ましい。それには小さな子どもがいる世代が入居出来るかどうかだ。それは分譲価格がいくらかということと大きく関係するが、答えによれば5000万円台以上であるようだ。また、嵐山という有名な名所に建つからには、広く宣伝し、金持ちがセカンド・ハウスとして所有することを狙っているとのことだ。つまり、地元に暮らして子育てをする人は住まない。たまに嵐山にやって来て別荘代わりに使う人たちのもので、こうなれば自治会加入はあり得ない。25戸に対して駐車場は8で、これは17戸は近くに月極駐車場を借りてもらうつもりかと訊くと、自家用車を持って暮らすような人に売るよりも、電車を利用してやってたまにやって来る人向きとのことだ。5000万円台であれば今の若い人でも買えるだろうが、筆者の予想では着工して間もない頃に完売するのではないか。中国の金持ちが買うことも充分あり得る。5000万円台くらいははした金で、よく日本にやって来てホテルを利用するより割安になる。不要になればさほど損をせずに売ることも出来る。嵐山は今後どんどんそうなるのではないか。
質疑応答の最後に筆者は「余談ですが」と断ったうえで、これからの嵐山地域の変化ぶりを質問してみた。すると筆者の前に会長を長年担当していた人は、「もうこんな大きなマンションが建つことはない」と言ったが、そうとも限らない。駅の北側はわが自治会の区域ではないが、40年ほど前に田畑が売られて建売住宅が密集し、高齢化を迎えて空家が増えている。小さな家をごっそり取り壊して広い土地を確保すれば、4階建てマンションは建つ。今後はそういうことが駅周辺で増えると筆者は予想している。それは最初の段落で書いた筆者が京都で最初に住んだ倉庫を所有した家がなくなって4戸建つことの正反対の「細かい土地の統合」ではあるが、大きな屋敷が建つのではなく、4階建てのマンションで集合住宅だ。前々会長は古い住民で、その住居は今後もまず売却されないはずで、また売られても小さな土地であるからマンションは建ちようがない。筆者が考えているのは前述のように駅の北側やまた駅の南側の線路際といった地帯で、それらの区域はまさに駅前であって、大阪に出るのに1時間要さないところから、マンションをほしい人はいくらでもあると思う。だが、嵐山に4階建ての大きなマンションがたくさん建つのはどうか。そうしたマンションはたいていは地元に溶け込まない人が住む。そうなると自治会が機能しにくくなる。そうであっても筆者は何ら困らないが、戸数の少ない地域に顔も名前も知らない人がたくさん住むのはあまり感心しない。そういう人たちは古い住民から新参者と思われることすらもない。何せ顔を合わさないから、住んでいるかどうかもわからない。そういうことは今までは都会の現実であった。それが嵐山でも起こっている。説明会の後、今までに二度ほど、しかもほんの少し言葉を交わしたことのある男性と喫茶店の前で立ち話を20分ほどした。彼は嵐山に住んで40年というから、筆者より10年古い。そしてお互い言い合ったのは、この3,40年で大きく嵐山が変わったことだ。その延長で行けばさらに変化の速度が大きくなるだろう。それを思っての先の筆者の質問であった。それに対して同じように余談的に答えてもらったが、嵐山の名前は全国的であるから、開発は今後もあり得るということで、筆者の予想と同じだ。古くから住む人たちは、駅前から離れた山手に家があって、4階建てマンションが建つことはあり得ない。問題は40年前に出来た建売住宅だ。それらの寿命が来た時、そして少子高齢化がさらに加速化した20年や30年先は、大規模な開発が行なわれる気がしている。もちろんわが家はその対象になっている。筆者は死ぬまで今の家に住むか、あるいは住めるか。車を運転せず、電車で梅田や河原町に出るのに便利だというので30年前に梅津から引っ越して来た筆者だが、何となく居心地がよくない。家柄と呼ぶべきものがなく、筆者も息子もどこでどう住もうがいいと思っているとしても、今と同じような交通の便がよく、しかも風光明媚なところとなれば、ほかに見つけることは難しい。5000万円台であれば筆者が1戸買えばどうかと、監査役のFが二度ほど笑顔を言ったが、その金があっても4階建てのマンションには住みたくない。わが家の裏庭には石燈籠はないが、ごく小さなものなら置き場所がある。駅前マンションは快適に暮らせるが、石燈籠を奥場所はない。もうそんな古い文化は若い世代は欲していない。そして毎年古くなる筆者は、古いものに魅せられながら、若い人の視界に入らなくなる。それが自然というものだが。