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●薔薇の肖像、その2
別の専門家がいて薔薇の新しい品種を見分けるのだろうが、それは花だけではなく、葉や棘も対象にすると思うと前回書いた。それは植物は花だけを鑑賞するのではなく、花に似合う形の葉がついているからでもある。



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とはいえ、薔薇の花を見ずに葉こそが面白いと思う人は稀だろう。それにしても薔薇の新品種は花以外の部分の違いも考慮するだろうか。また、葉のつき方や色や形が違うのに、全く同じ花が咲くことがあるだろうか。それはほとんどないように思うが、わずかな可能性を考えたいのは、「茶」のように、花よりも葉が重要な植物があるからだ。だが、薔薇はやはり花が命で、その新しい色や形が出現すれば新品種として認められるのだろう。これは花を全部摘み取ってしまうと、残された葉や茎からではどんな花が咲いていたか判別出来ないであろうことを意味してもいる。「花」という漢字は「艸」と「化」から成り立っていて、植物の本質は「草」で、「花」はそれが一時的に化けたものと考えられて来ている。そして人間が花を愛でるのは、普段の姿のものよりそれが化けた状態を本質的に好むことであり、「化ける」ということを好意的に捉えると言える。昨日「ワクワク」について書いたが、その気持ちはある対象に心を躍らせることであり、その対象が普通ではないからだ。つまり、普段見慣れているものとは違って、化けたように見えるからと言える。「怖い物見たさ」という言葉があるが、その時の思いと似ている。これは人間に変身願望があるからではないか。その変身の対象には手がきわめて届きにくいから、人は憧れ、そして少しでもそれに似た存在になろうと努力する者もある。そうでない人でも花を好むであろうし、人間は化けたものが好きで、またその化けたものはごく短い間だけのものと知っているからなおさら心を寄せる。年中咲いている花もあるだろうが、それでは人間は注意を注がない。人間にとっての花の時はいつかとなると、これも昨日書いたように若い頃だけのはずだが、若いにもいろいろあって、人によって意が違う。それでも植物にたとえると、受粉して種子を残せる間であって、健康な子を産みやすい年齢となる。ではその花の時期を終わった人はどうすればいいかとなると、枯れて行くのを見つめ続けるしかない。それは無茶で、そもそも植物と人間を比べるのが間違っているとの意見が多いはずで、そう考える女性は50、60になっても濃い化粧をするし、男は派手な服装で青年に負けないでおこうとする。それは個人の勝手だが、女性がどうにか化けられるのか顔だけで、首や手には年齢相応の皮膚のたるみが明らかで、男も髪が減り、腹が出っ張って来る。それは花も同じと言ってよい。老化に抵抗しようとするのは生き物の本能で、女性が化粧をするのも自然なことだ。ただし、程度があると考える人は多い。
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 今日はわが家の近所から梅津までの範囲で見かけた薔薇の写真の後半で、また5枚の写真を載せる。薔薇の花を見かけた時、どれを撮影しようかとまず考えたのは言うまでもない。その気持ちはおそらく蜂などの蜜を吸う虫と同じだろう。筆者はなるべく撮影しやすい場所にあって、少しでも完全な形をしたものを選んだが、花弁の縁が褐色に変化し始めているものを無視したことも蜜蜂と同じと思う。あるいは筆者が知らないだけで、枯れ始めた薔薇を好む虫がいるかもしれない。いやいや、花は受粉が目的で虫を誘うから、すでに枯れ始めたものはもう受粉の能力がないのだろう。そういう花があるかどうか知らないが、一生独身で過ごす男女がいるから、花も虫に無視されるものがあるだろう。それを花はさびしく思うだろうか。受粉した花と同様、花弁が茶色になってしまうから、受粉しようとしまいと、同じ老化の道をたどり、一見差はないように見える。それは人間と同じで、結婚して、あるいはしなくて、子どもを得ようか得まいが、どちらも同じようにいずれ皺が増え、体力が衰える。3年ほど前に死んだ友人Mは一生独身で、ある年筆者とこんな会話をした。「毎日さびしいで」「結婚しててもさびしさはあるで」「いや、それはずっとひとり身でいることのさびしさに比べたらずっとましやで」 Mのさびしさは筆者は想像するだけで、実感は出来ない。またそれはMにしても同じで、結婚しようがしまいが、さびしさは誰でも抱えるだろう。それに、一生独身であれば、配偶者を失うさびしさに出会わずに済む。晩年の上田秋成は妻に先立たれ、涙々に暮れる日々を過ごしたが、彼が独身を通していたならばそんなことはなかった。それでもMが言ったさびしさは何となくわかる。毎日ひとりで、そばに語りかける相手がいない。それで酒を飲むことになり、体を壊しやすくなる。それはさておき、虫がやって来ない花の気持ちは独身者のさびしさと同じかどうかは誰にもわからない。また、確率としてそんな花が多いのか少ないかもわからない。筆者が郵便局への途上でよく見かける背丈2メートルほどの深紅の蔓薔薇は、毎年秋から冬にかけて親指の先ほどのオレンジ色の実をつける。それが花があった茎の先端はどれもそうで、おそらく受粉しない花はない。以前書いたことがあるが、イギリスであったか、薔薇の実のジャムを作っていた。それがとてもうらやましかった。ジャムにするほどであるから、数百個ほどは収穫出来るのだろう。それくらいの数の花を咲かせるにはどれほどの庭が必要だろう。天王寺公園内の薔薇苑では、ある品種の蔓薔薇は数百の花を咲かせていた。その木が必要としている面積はさほど大きくはない。庭で言えば2坪もあればいい。ただし、薔薇は陽当たりと風通しのよさを求めるから、その2,3倍の面積は必要となる。それでもそれほどの庭を確保出来ないという家は田舎では少数であろう。つまり、その気になれば日本でも薔薇の実のジャムが作られるのではないか。にもかかわらず、そのような話はほとんど聞かないのは、薔薇の花を育てる家が少ないというより、結実しないからではないか。蜜蜂が極端に少なくなって来ているそうで、ますます薔薇の実ジャム作りは難しいようだ。話を戻すと、先の深紅の薔薇の結実を見るたびに筆者はそれがほしくなるが、まだ一度ももぎ取ったことはない。道を行く人は誰でもすぐに手が届くところにあるから、いつの間にか亡くなっているところを見ると、黙ってもぎ取って行く人があるのではないか。その人はジャムにすることは考えず、その実から種子を取り出し、薔薇を新芽から育てようとするのかもしれない。
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 薔薇は苗木で買うのが普通で、薔薇の種子が袋入りで売られているところを見たことがない。素人では難しいからだろう。不可能ではないにしても、かなりの専門的知識が必要ではないか。今日の写真の20種はほとんどどれも鉢植えで、陽当たりのよい場所に置かれている。鉢植えならば移動出来るからよいが、ある家では鉢に蔓性の薔薇を植えていて、鉢から遠く数メートルも家の屋根に向かって大きく曲線を描いているものがあった。薔薇はどこかに絡まりたいのに、それがない。そのため、とにかく支えとなる何かに届くまで成長し、壁などに行き当たったところでたくさんの花を咲かせている。薔薇は蔓性と直立性がある。後者を正式にどう呼ぶのか知らないが、鉢で育てるものだ。この鉢が直径30センチ以上の大きなものが必要で、土をいっぱいにすると大人ひとりでは持ち上げられないほどになる。それほどの大きさがあって初めて見栄えのよい花が咲く。また鉢が大きければ盗まれにくい。その代わり、咲いた薔薇を切られる恐れがある。花泥棒は盗んでいる自覚のない人が多く、見つかっても平気で、自分の家で育てるつもりでしたなどと言う。八尾の家に赤い薔薇があって、その枝を隣家の人が母に無断で切り取ったことがある。その話を3年ほど前に隣家の人から直接聞いた。彼女は切った枝を挿し木で育て、近くの小学校の花壇に直植えしたそうだ。すると陽当たりがよく、とてもよく成長してたくさんの花を咲かせるようになったと言う。それを聞いて筆者も枝を切り取ってわが家で試したが、そのまま枯れてしまった。本気で育てる気がなかったからだ。それに陽当たりがよくない。陽当たりが悪いと成長が悪いのは人間も同じかとまた人間と比べてみる。もちろんこの陽当たりは本当の陽当たりの意味ではなく、比喩だ。何のたとえかと言えば、子どもがすくすく成長するのにあればあるだけよいものだ。そう言いながらそんなものがさて人間にあるのかと思う。たいていの人が思うのは、いい家柄で両親が美男美女、そして頭がよく、経済力があり、大きな屋敷に住み、何の不自由もない状態だ。それは植物で言えば陽当たりがよく、栄養たっぷりな土壌に恵まれていることで、確かにそのような環境にある天王寺公園の薔薇苑は見事な花を咲かせる。だが、今日の写真と後日登場させる同苑の薔薇とを比べてほしいが、立派な様子には差がない。前回の「その1」と今回はすべて小さな家の玄関脇に咲いていた、半ば放置された薔薇ばかりだ。これは人間で言えば放任主義だ。前述のような理想的とも言える環境で育つ子に秀才や天才が多いだろうか。筆者はそうは思わない。植物は養分があり過ぎて成長が阻害されることはあるし、人間も同じだろう。努力しなくなるからだ。陽射しを浴びることが乏しければ、それを求める思いが強くなる。その思いによって立派な花が咲く。
●薔薇の肖像、その2_d0053294_2358418.jpg

 さて、今日は段落を少し短めにしている。労力と時間の節約もあるが、書くことがなさそうであるからだ。そう思いながら、この段落を書き終えれば5枚の写真を載せることが出来る。薔薇の実ではなく、花びらのジャムがTVで紹介されていたが、食べられるのだろうか。薔薇の実も食べられそうな雰囲気はないのに、花びらとなると、ビロードの感触があって、どことなく毒がありそうだ。それをたくさんの砂糖で煮つめると、多少の苦味があってもわからなくなるのだろう。先ほどのTVでは京都の「哲学の道」の桜が実をつけた話題を取り上げていた。それはどう見てもサクランボで食べられそうだが、アナウンサーは食べられないと断っていた。それが不思議だ。サクランボほどではなくても、食べられないはずはないだろう。あまりに酸っぱいからそう断ったのかもしれない。サクランボは品種改良で人間が食べてもおいしいと感じるほどに甘くしたものかもしれない。サクランボで思い出した。昨日は裏庭に出てグミの木の実が赤くなっていることを知り、早速摘み取った。10数個で、まだ青いものが残っているから、今年は最も多いだろう。その理由がわからない。それでもここ数年は根元がめっきり弱って見えたから、それなりに米の研ぎ汁を毎日施すなど、筆者としては面倒を見た。その愛情が伝わったのかもしれない。早速食べたところ、それなりに甘くておいしい。薔薇の実は生では食べられないと思うが、鳥はついばむだろうか。そんな光景は見たことがないから、たぶん自然に地面に落ちてそのままになるだろう。発芽するのであれば、薔薇の幼葉を見たいものだ。このように書くと、本当に前述した親指の先ほどのオレンジ色の実を今度摘み取って来て植えようかと思う。理想は自分の庭で薔薇を育てることで、裏庭のどうでもいいような木をいくつか抜き取ればそれは可能だ。陽当たりが問題であるならば、裏庭向こうの小川沿いの幅狭い道とも呼べない部分がよい。そこに紅梅と白梅を植えたことは以前書いた。実は今日、京都市や洛西土地改良部の人たちが10人弱やって来て、小川沿いにある小さな畑と筆者が所有するガレージとの境界を正式に定める見分があった。その時に聞いたが、やはり筆者の裏庭のフェンスを越えた幅80センチほどの小川沿いの土地は京都市のものであった。つまり、勝手に植物を育ててはいけない。だが、1年に一回梅雨入り前に行なわれる小川の清掃の際に出る藻やゴミはその土地に捨てられ、それはわが家としては大いに迷惑で、今日は干からびたその藻を移動した。今日の説明会では筆者が植えた梅の木は問題視されなかったが、もし何か言ってくれば交渉するつもりでいる。そこをきれいな空き地のままにしておくべきであるのなら、京都市としては毎年雑草を刈り、清掃時のゴミを処分しなければならない。その作業を筆者は自分で無料で行なっているのであるから、こちらに任せてくれればいいのだ。梅の木から少し離れた箇所に蔓薔薇を植えると、陽当たりはとてもよく、また蔓は金網に絡まるから成長はよいだろう。ただし、花は小川に向いて、つまり太陽に向いて咲くから、裏手になるわが家からは花は見えない。それに薔薇が繁茂し過ぎると、金網のフェンスに設けられている扉から小川沿いに出ると、筆者のことであるから、腕や足を薔薇の棘で引っ掻くはずで、毎回シャツが裂け、血が滲むだろう。自宅で薔薇の花を楽しみ、実を収穫してジャムを作ることはかなり遠い話のようだ。それに運動不足の筆者はなるべくあちこちほっつき歩いてきれいな薔薇に遭遇する方がよい。そうして撮った20種の写真を見てほしい。品種が識別出来る人がいるのかどうか。
●薔薇の肖像、その2_d0053294_23585199.jpg

by uuuzen | 2014-05-30 23:59 | ●新・嵐山だより
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