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●飛び出しボーヤ、その17
とも思わない」という表現が1か月ほど前に読んだ本に出ていて、とても印象に残った。ある職人の話で、他の職人が名工の肩書きや勲章をほしがって行動することを見てのことだ。だがそういう気骨のある職人は少なくなって来ているだろう。



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京都には「現代の名工」の制度があるが、それになりたがる職人とそうではない者とがいる。なので、「現代の名工」の指定を受けた者がそうでない者より優れた技術を持っているとは限らない。ところが世間の大半はそうは思わない。そういう現実を知っているので、職人は「現代の名工」の肩書きをもらうために奔走する。本来の仕事の技術とは関係のないことで時間と気力を奪われるが、肩書きを得れば仕事が以前より評価され、収入もよくなると思っている。それはさておき、「屁とも思わない」という言い回しを昨日家内との話の中で使った。家では筆者は下品な言葉をよく使うが、「屁とも思わない」が下品だとして、それを上品に言うと「おならとも思わない」となるのかどうか、これでは締まりがない。もともと締まりがないので「屁」は思わず出てしまうが、いったい何の話か。話を戻して、思い返せば「屁とも思わない」と思った最初の経験は、以前にも書いたが、学校を出て最初に就職した設計会社でのことで、ある男が酒の席で筆者に自慢げに車の鍵を見せびらかし、羨ましいだろうと言ったことだ。よほどの俗物で、そんな屁みたいな男を相手にする必要はないので、そのような素振りを見せると、今度は食ってかかって来た。当時は車があれば女に持てると言われた時代で、その屁男が早速車を買ったのは早く女の上にも乗りたかったからだが、下品な蝦蟇のような顔をした男で、似合いの女の想像出来る。それはさておき、世間はそんな屁みたいな男、すなわち筆者からすれば「屁とも思わない」男がたくさんいる。そういう連中に共通しているのは、金があれば怖いものがないと思い込んでいることだ。そして次に自分が屁みたいな男であることを死んでも悟らない。そしてもうひとつつけ加えれば、屁みたいでない男が目の前にいてもわからないことだ。では筆者が考える屁みたいでないことを具体的に列挙せよと言われると、たとえばこのブログに書いているようなことだ。ただし、このブログは筆者の興味の全体を万遍なく覆っているかと言えばそうではない。むしろあえて書いていないことの方が多いだろう。それでも書くことはそれなりに関心を抱いた、屁つまりとも思わないことではないからだ。とはいえ、たとえば今日載せる3枚の写真は屁のようにどうでもいいことと思う人が多いはずで、筆者もそう思わないでもないが、今までの成り行き上、載せておきたい。「飛び出しボーヤ」の写真は数十枚保存したままとなっていて、去年のうちにその大半を紹介するつもりが、その機会を逸した。それで真夏に向けて少しずつ消化して行こうと思う。今日3枚の写真を使う気になったのは、昨日の投稿がきっかけにもなっている。「緑のタペストリーと絨毯」と題しての投稿と、この「飛び出しボーヤ」は当初セットのような形で始めた。そのことを覚えているので、昨日の投稿の時点で今日の投稿を決めていた。ただし、どの写真を使うかは未定であったが、今日で書けて撮って来た写真を早速使う。それは3枚目だ。
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 最初の写真は伊丹市立美術館の近くで1年ほど前に見かけた新型の「飛び出しボーヤ」の看板だ。これが店の両脇にふたつ並べられていた。早速撮影し、投稿するために加工も済ました。ところがその画像を保存していたMOが壊れ、画像を取り出せなくなった。また撮りに行けばいいが、せっかく撮ったもので、どうにか復元したい。それ用のソフトをダウンロードし、そしてカメラの記憶媒体を調べると、幸いなことに復元された。ただし、無料ソフトであるので、画像の斜め方向に大きく黒い文字が入る。それをうまく消して元の姿に可能な限り近づけたのがこの最初の写真だ。どこに黒い大きな文字が入っていたのかわからないほどだと思う。それはさておき、この看板を置く店の真正面は、木造の古い住宅で、3間ほどのガラスの扉があった。その全面に、薔薇ではないが、それと同じようにピンク色の花を咲かせる蔓性の植物が覆っていて、壮観であった。写真を撮ったのは言うまでもない。ところがその写真もMOに入ったまま取り出せなくなった。また、無事であったとしてもブログにどういう形で載せるか迷ったはずで、今も使わないままであった可能性が大きい。それはさておき、新型の「飛び出しボーヤ」は伊丹のその店でしか見かけないと思っていたところ、京都の四条通りを走るバスの中から見かけた。帰りしなにそこまで歩き、写真を撮った。それが今日の2枚目だ。1枚目と同じ場所のように見えるのは歩道の敷石が似ているからだ。それはともかく、この1年、この新型の「飛び出しボーヤ」を他の場所で見かけたことがない。それを置く店の元締めが独自にデザインして作ったものかもしれない。青い服を着た子どもは保育園児か幼稚園児で、その頭に赤い破裂マークが描かれているのは強烈だ。もちろんこれは車が誤って跳ねてはならないという警告だが、最近はあえて人を殺傷しようという狂人が世界的に目立って来て、この看板を見て児童の頭を破裂させてやろうと思うかもしれない。警告はどぎつさと接していて、そのどぎつさが過剰になって逆効果が生じるという心配をしておいていい加減だろう。これら2枚の写真だけで「飛び出しボーヤ」の1回分の投稿にするのは気が引けていた。せめて3枚はほしい。かといって別のタイプの「飛び出しボーヤ」ではまとまりに欠ける。そして今日は1年ぶりではないが、伊丹市立美術館に行き、最初の写真の「飛び出しボーヤ」のある道をたどって駅に戻ることにしたところ、看板がまだ健在であった。そうして撮ったのが3枚目で、これは1枚目と同じものだが、約1年の開きがある。店の両側に設置された「飛び出しボーヤ」は傾きの角度まで同じようで、1年経ったとは思えないが、今日は驚いたことがあった。店の前にあった木造の建物はなくなり、更地になっていた。となると、去年撮影した木枠のガラスを嵌め込んだ扉を花が覆い尽くしていた写真はやはり保存されているべきであった。これも前に書いたが、筆者が撮影するものは撮影後になくなるものが少なくない。命を終えようとするその最後を筆者は本能で感じ取っているのか。まさかそんな霊感は筆者にはない。筆者は昭和の古い人間で、古めかしい、レトロな雰囲気のものが好きなのだろう。蔓性の植物が壁や扉を覆うことは、その家の持ち主がそのことに鈍感であるからとも言える。そこまで気が回らないほどに経営困難に陥っていると見てもよい。簡単に言えば倒産間近だ。それで植物は伸び放題になり、ある日家屋が取り壊される。そうなると、蔓性の植物も生き残れない。蔓性の植物は建物の死期が近いことを暗示している。「緑のタペストリーと絨毯」ではもっぱら蔦の繁茂の写真を使っているが、今日の3枚目の左端には新緑の季節というのに、茎だらけの蔦の壁が見えている。ふたつの「飛び出しボーヤ」の看板を置く店は1年前と変わらないのに、向い側は大きく更地になって、来春はまた新たな建物が出来ているだろう。そういえば「白雪」の小西酒造の真向いも広大な空き地になっていて、その向こう数百メートルには高層マンションの林立が見えた。以前からそうであったのだろうが、古い建物が視界を遮っていた。だがその古い建物が何であったか今日は思い出せなかった。古くて取るに足らない屁みたいな建物であるから、新しく高層マンションに建て替えられるが、筆者はその新築の高層マンションを屁とも思わない。
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by uuuzen | 2014-05-25 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
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