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●『東寺・高松伸 こころの建築展』
「弘法大師帰朝千二百年記念」と銘打たれ、東寺の小子房(こしぼう)で開催中だ。毎月21日は東寺境内で弘法さんの縁日がある。それに合わせて観に行った。



●『東寺・高松伸 こころの建築展』_d0053294_0115795.jpg弘法さんに訪れるのは1年ぶりだ。露店を出している顔馴染みの業者がいくつかあって、みな相変わらず元気にやっている。少しずつ挨拶をし、露店区域をひと回りした後、金堂、講堂を見学し、そして小子房を訪れてこの展覧会を観た。その後、宝物館、観智院にも行ったが、今日はこの展覧会だけについて書く。東寺境内の西側中ほどにある現在の小子房の建物は、70年前に再建された。まだまだ新しいが、それを知らなければもっと古い時代のものだと思うほど、いい趣が出ている。この建物は700年前の鎌倉時代の後期、空海に帰依した後宇多法王によって命名された。今は年始の1週間のみしか使用されないので、建物内部にある堂本印象の襖絵はほとんど劣化の跡がない。印象は43歳の時にこの建物の6つの部屋(勅使、牡丹、瓜、雛鶏、鷲、枇杷)に描いたが、勅使の間のみが金箔地に多彩な岩絵具で描かれ、他はみな部屋の名前を題材とした水墨画となっている。43歳という年齢に全く納得の行く、勢いのある、しかしほんの少し硬さが見られる作風で、小子房と聞くと即座に印象のこれらの絵を思い出すほど印象は強い。東寺の中でもここは特別にぽつんと離れている。そのため、広々として落ち着いた別空間と言ってよいが、それは庭がよいからでもある。出入口近くの庭の片隅には、さまざまな形の大きな鬼瓦が数個置いてあって、そのすぐ隣にかなり古くて大きな銀杏の木が立っている。先頃の新聞に出ていたが、この木に寄生しているはぜの木が大きくなり過ぎて、銀杏の幹の中はがらん洞になっているらしい。そのため、養分を地下から吸い上げるのがうまく行かず、最近急に傾き始めたという。門を入ってすぐにこの木の出迎えを受けるが、その記事を知っていたので、真先に確認すると、やはり少し傾いていて、倒れそうな方向に茶色に塗った2本のつっかえ棒がしてあった。紅葉がもうすぐ始まるが、今年はまだ銀杏の黄色とはぜの赤のコントラストが楽しめるとしても、大きな台風が来ると一気に倒れるかもしれない。樹木が寿命を迎えるのは仕方がない。飛んで来たはぜの種子が幹に定着し、そのまま寄生された銀杏としては迷惑な話でも、そのたたずまいがまた変わっていて、秋には美しくなるという話題を今まで提供して来たのであれば、銀杏も充分役目を果たしたことになる。とはいえ、庭の片隅にアクセントとして立つこの木がなくなれば、小子房の雰囲気はがらりと変わるかもしれない。どうにか長生きしてほしいものだ。植樹しても同じ大きさに育つまでには100年はかかる。東寺にとってはそれはどうでもない短い時間かもしれないが、訪れる人にとってはすでに別世界だ。
 さて、銀杏を見始めた途端、若い女性が声をかけて来た。そう言えば、庭の縁の地面上や小子房と事務所をつなぐわたり廊下手前にたくさんの花が活けてあった。グラリオーサや赤くて小さい実など、赤や黄色が目立つ花を中心にしたもので、会期中に枯れてしまうものが出て来ているので、一部を造花に変えていると、その女性は語った。確かによく見れば、布で出来た緑の葉が確認出来た。花の塊は地面に直接置かれたものや、また背丈ほどの高さの位置に見えるように、針金のような細い1本の足を取りつけて設えられたものもあって、全部を合わせると花の数は馬鹿にならない。毎日交換すれば大きな出費になるだろう。だが、造花を混ぜるのは残念だ。花の枯れは最初から予想出来たはずであり、花を現代美術のインスタレーション風に活けるのであれば、もっと計画をしっかり立てて、不要な部分は思い切って省略してもよかったと思う。あまり成功していたとは言い難いからだ。堂々としている前述の銀杏の木に圧倒されてしまって、存在感がうすれていた。また、高松伸に届けられた白い胡蝶蘭の鉢がずらりと並んでいたのは、そのすぐそばのせっかくの生け花とは調和せず、むしろ雰囲気をぶち壊していた。通常の個展会場ならいざ知らず、歴史ある、そして庭もよい小子房での展覧会であるので、高松伸のつき合い関係者の自己顕示の場にはなってほしくはなかった。後で気がついたが、小子房の周囲全体の庭や地面にインスタレーションがあって、花を使用せずに表現したものもあった。これら全部を最初に話しかけた来た女性が担当したと思うが、きっと有名な人なのだろう。すでに完成している時代を経た空間を利用して、何らかの個人的な表現を加える時、よほどうまくやらない限り、ちぐはぐな印象を与えてしまう。クリストがあれだけ有名になったのは、一色の布で包むというごくシンプルなことを大規模に、しかも継続したからだ。生け花でインスタレーションをやる場合にも同じような単純さが効果的ではないだろうか。だが、本来は家の中に活ける生け花を、広い庭のような外の空間で表現するのは、あまりに事情が違って困難であるのがわかる。家の外には地面に花が咲いているから、わざわざ生け花をする必要がないとも言えるからだ。人工的な作為で、花の美しさをより引き出そうとするのは、利休が秀吉に見せたように、花一輪だけ残して、後は全部摘んでしまうといった、実世界にはあり得ないような思い切った方法が必要だろう。中途半端なものなら、ない方がよい。
 高松伸展は10年ほど前、大阪難波のキリンプラザで観たことがあるし、そのほかにも1、2回機会があった。キリンプラザは高松伸の設計であるから、それは自分の領域での主張であって、違和感がなかった。今回は歴史の重みがある木造建築の中での、木材を使用した新しい作風の公開で、それだけに高松としても意気込みが大きかったであろう。高松は真言宗総本山の長者と呼ばれる砂原秀遍と知己の間柄で、そうした人のOKの言葉があって実現した展覧会だが、世界的に有名な建築家となれば、普通の人には到底借りることの出来ない場を提供され、そこで自己の新作の披露が出来る。そうした人物の存在は当然あってしかるべきであるし、なければならないものと言える。だが、建築家は画家と同じように個人の能力で作品を呼べるものを作るとしても、画家と大きく違うのは一旦建てられた建築物は、いやでも人の目に入り、しかも長年そのままであり続けるから、社会的責任の重さでは比較にならない。街中に設置する彫刻も同じようなところがあり、一時はそうした芸術作品の展示は環境を害するものだと論議されたこともあった。これは全くそのとおりで、個人が作った大きなモノが否応なしに街中に恒久的に置かれるのは、街の景観、雰囲気をある方向に持って行くこととなって、それがやがて街にうまく溶け込んで人々から愛されるものになるとは限らない。芸術は個人的なものであり、個人が作って個人が鑑賞すればよく、大きな市民権を得たかのように街中に個性を主張するのは、筆者はあまり感心しない。建築物も個人が建てるのであれば何をしても勝手ということはない。そこには法律があるし、また、法律に抵触するぎりぎりならどんなものでも建てればよいというものでもないだろう。法律制定が現状認識に追いついていない場合がしばしばあるからだ。京都という歴史ある街も今は無残に景観が破壊され尽くしてしまったから、もうどうにでもなれというやけっぱちな気分が京都人には少なからずある。仏教がまだ大きな力を持っていて、東寺などの立派な寺が次々と建てられた時代とは違って、今では昔の人々ほど仏教はありがたがられない。そんな現在に、立派な仏教寺院と同様の風格ある木造建築が可能かどうか、可能としてどんな意義が理念があるのかという問題はほとんど議論されたことがない。そういうところに今回の高松伸の木造建築物の案だ。すでに建ったかどうか知らないが、天津博物館や国立劇場おきなわの模型、それに3つの木造建築物の模型が小子房の各部屋に1個ずつ置かれていた。小子房の6つの部屋の周囲には廊下があるが、その板床を全部強化ガラスで覆い、その下に高松が描いた建築スケッチ案や設計図がびっしりと敷き詰められていた。ガラスのうえを歩くのは、割れないとはわかっていてもひやひやもので、高松の作品をなるべく多く見せるためには仕方のない方法だったとはいえ、全く寛ぎのない空間になっていた。それは、外気と隔たる廊下回りの戸を全部締め切って、その内側にやはり高松が描いた建築のドローイングの額をずらりと並べていたことも原因となっていたが、いつもなら、外の庭を楽しみながら一巡出来る廊下が、今回はすっかり密室空間を恐々に歩むことを強いられ、小子房のよさを打ち消していた。それでも考えようによっては、閉じられた胎内のような空間で高松の作品案とじっくり対話出来る場となっていたので、短い期間の展覧会としてはこれもよかったと言える。
 木造建築物の3つの模型は、それぞれ「大蓮宮(だいれんぐう)」「遍照塔(へんしょうとう)」、それに「大規模高層木造建築高層」と名前がついていた。最初の2点は東寺を意識して設計されている。最後のものはチケットにも印刷されているように、ガウディのサグラダ・ファミリアにどこか似ている。誰しも木造建築には憧れがある。京都に住んでいればなおさらだ。いや、京都以外の人もそうだろう。西陣の空き家となった木造の町家は、今では京都以外からやって来る若い人々が住むようになっている。京都に木造の家は似合うとして、それがどのように可能なのか、問題は山積している。道路幅が狭く、火災があればたちまち延焼することや、平屋や二階建ての木造の建物は、敷地を要する割りに居住面積が小さく、また大工や佐官の賃金を考えると、今ではとても贅沢なものになっている。であるので、高松伸は個人の木造住宅の新たな案を提出するのではなしに、モニュメントとして機能するような建物を考える。これは最初に書いたように、この展覧会が「弘法大師帰朝千二百年記念」であることを考えれ当然だ。そして、それらが前述の3点だが、力学的はクリアしても、日本の多湿な環境において問題が起こらないのかどうかは疑問がある。3つの案とも瓦屋根がないから、材木は常に風雨に常に晒されたままで、早い劣化が心配ないのであろうか。ところで、東寺の講堂や金堂は、中の仏像の単なる入れ物にしか機能していないと言ってよいが、それでもその用を極めての外観の美しさには圧倒的なものがある。何の奇も衒っていないのに、個性がある。これはただちに当時の人々の信仰の力によるものとばかりは言えないだろう。奇を衒う必要がなかったと見るのも間違いで、為政者の好みや力によってはいくらでも変わった木造建築は建てられたはずだ。だが、不思議と明治以前に建てられて今に残る木造建築は、ただ古風というだけにとどまらない安心感のようなものを感じさせる。これは建物が自然とは無理のない状態で拮抗しているからだ。可塑的素材のコンクリートはどんな形の建物でも可能にしたが、そんな時代に生まれた建築家は、建物の外観というものを、本人は意識はさほど意識していないかもしれないが、個性を出せばそれでよいと思ってはいまいか。それに、すでにあるものに倣うことをいたずらに拒否して、とにかく斬新なものだけを追求しがちになる。20世紀の美術の歴史がそうであったので、建築家もまたそれから逃れらないのはよくわかるが、前述したように、絵画や小さな彫刻とは違って、建築は巨大であり、恒常的なものであるので、ただ個性を表現すればそれでよいというものではない。そんなことは偉大な高松なら重々に承知しているはずだが、それでも現在の京都の町中の景観がどうあるべきかの議論も曖昧なままである状態で、ただ木造建築であるからというだけの理由で、どんな突飛な建物が許されるとは言えない。
 大蓮宮は砂原秀遍の命名で、高さが39メートルと設計されている。この建物が何に使用に適するのかわからないが、ピラミッドの上下を反転させたような形で、平面、側面とも左右対称性があって、しかも上方から見ると方形をしているので、東寺所蔵の曼荼羅を意識しているのは誰にもよくわかる。だが、この建物を仮に東寺の境内に建てるとして、どこがふさわしいか、今境内の図を見ながら考えるが、筆者にはよくわからない。次の遍照塔は東寺の五重塔を意識したものだろう。高松は大日如来のたとえと考えているようで、高さ99メートルというから、五重塔の倍だ。となると、これが建てば、京都で最も高い塔と言ってよい存在になる。京都市内の塔は、京都駅前の京都タワーでもう充分という気がしているから、今さら木造で変わったデザインの塔を建てる必要もないと思う。それに、大日如来にたとえるのは反対はしないが、京都の人々が大日如来を常に意識して生活している信仰心の厚さを持っているとは言えないし、こういった高い塔を建てる意味が見出せない。建てるのであれば、今ある五重塔と同じものをもうひとつ、左右対称の位置になるように、境内の西側にすればよいと思う。だが、すでに建物が建っていたりして、境内を拡張しない限り、これも無理だろう。3つ目の大規模高層木造建築構想と名づけられた建物は、模型を撮影して実風景に合成した写真が1点展示されていた。その位置は四条大橋西端にある東華菜館という中華料理店のすぐ南だ。そのあたりは飲み屋やピンク・サロンなどが多い場所で、あまり観光客も入り込まず、再開発で全く違った様相に区画整理出来る可能性があると思えるから、高松のこの案は実現の可能性がある程度はあるように思える。だが、高さ90メートルだ。このあたりでは最も高い建築物になる。珍しい形でしかも目立つ高さとなると、観光客誘致にはなっても、そんな建物が建つことによってますます違法すれすれの建築が後を絶たず、景観悪化に歯止めがかからないことになる可能性があることを危惧する。これはあまりに保守的な思いかもしれないが、繰り返すように、建築は絵画や彫刻とは違う。個人の表現の自由があるとはいえ、建物は個人だけがこっそりと使用するものではない。
 小子房を出た後、短いわたり廊下に続く事務所の建物では、展覧会の図録や関連書籍が販売されていたが、すぐ目につく場所に大型TVが置かれ、そこで10数分の高松伸のインタヴュー映像が流れていた。畳に坐り込んで全部観たが、端的にまとめられた内容は、高松の考えをわかりやすく伝えていた。高松は今まで700の建物を設計して来たそうだ。子どもの頃、出雲大社の境内で遊んだ記憶が建築家としての原体験かもしれないと語っていた。そこからは木造建築への憧れが実は幼い頃からあったという見方が出来る。これは実際そうだろう。人は一生かけて、幼い頃に感じた何か閃きに似た瞬間を少しずつ噛み砕いて実現化して行く存在であるからだ。万に及ぶデッサンをしてようやくイメージが固まる建築案という話もよくわかる。これは画家や工芸家でも同じことで、実作品を生むまでには何百、何千の写生や小下絵をこなす必要がある。だが、高松が続ける話は少し違って興味深い。建築家は自分の指や手、腕で紙に案を描くが、完成した建物は自分からはとても離れたところに存在する。高松はこのことがとても面白いと言う。これもわかりやすい話だ。だが、そうだろうか。画家や彫刻家でも同じことではないか。作品は作られた瞬間に作家の手元を離れるからだ。建物は大きいためにそばに置けないだけで、作品が直接触れられないかどうかはどうでもよいことだ。それよりも重要な点は、作者の手から遠いところで存在し続けることの大きな意味だ。誰にも見せずに自分の手元にずっと作品を置くならばまだしも、買われたり、あるいは寄贈されたりして、人目に触れるようになる場合は、作者は本当に真剣に作品に嘘をつかずに作るという態度が求められる。無責任であってはならないのだ。その責任感をどれほど重く感じているかの大小で、作品の質がそうとう違ったものになる。技量もさることながら、自分の分身となって人目に触れるものに対し、どれだけ恥晒しになってはならないかの高い志が必要だ。これは理想を言っているのかもしれないが、理想は必要なのだ。それがある限りは、たいして道を踏み外さない。高松も同じように建築を考えて設計し続けて来ていると思うが、信仰の厚い時代でなくなった現在の日本、しかも京都にあって、伝統を視野に入れつつ、それをどう破るかは途方もない孤独な作業で、しかも容易に理解が得られないことに思える。この展覧会が「こころの建築」と名づけられたのは、なかなか含みがある。心の中だけで建つ、実現不可能な建物であるという意味と、真心から設計したという自負だ。せっかくの「弘法大師帰朝千二百年記念」であるから、本当は平安神宮のように、100年経っても人々からそれなりに歓迎されるような建物を高松の設計で実現化してほしいが、どうもそんな話は聞かない。ともかくこの展覧会が、京都の景観をどうするかという話題の提供にはならないものかと思う。もしそうでなければ、ひとりの建築家が思う以上にみんなの建築に対する関心はとっくに冷め切っていることを示す。この無視の態度が作家にとっては最もつらいのだ。
by uuuzen | 2005-10-24 23:53 | ●展覧会SOON評SO ON
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