餅は餅屋と言うが、桜餅は菓子屋の領分だろう。渡月橋北詰めに桜餅を食べさせる茶屋がある。昔から気になっているのにまだ入ったことも買って食べたこともない。一度は観光客気分を味わいながらその店内で桜餅を食べるのもいい。それを実行するなら、桜が満開に近い今に越したことはない。
それで午後から家内を誘って食べに行こうかと思うが、たぶんそうはならないだろう。桜餅はどのスーパーでも売っているし、数分の1の価格で済む。主婦感覚ではそう思うだろう。嵐山に住んでいるのであるから、桜はその気になれば早朝から深夜まで満喫出来る。それをめったに京都にやって来ない観光客の気分になって味わうこともない。一昨日の
「その307」に載せた3枚目の写真には、桜の木の下の芝生でおにぎりを食べる家族が写っている。撮った時のことは覚えている。その家族に接近してカメラをかまえた時、彼らは素知らぬ様子を装った。筆者もさっと撮ってその場を離れたので、お互い何事もなかったかのような気分で済ました。うるさい人なら、「食事しているところを勝手に撮るな」と文句を言った。桜の林は阪急の土地だが、誰でも立ち入ることが出来る。それでその家族も筆者がすぐそばで写真を撮ることに無関心な態度を取るしかないと思ったのだろう。前に何度か書いたが、筆者の家内は青空の下で食べることを嫌う。満開の桜が目の前にあっても、絶対に口をもぐもぐさせることを拒否する。花見弁当は花を見ながら食べるもので、青空の下で食べることは昔から風流とみなされているはずだが、家内は屋根のないところで食べる行為は下品との先入観がある。先日は四条河原町の高島屋1階の玄関を入ってすぐの最も目立つ椅子に40歳くらいの男女の西洋人が並んで座り、折り詰めを広げて頬張っていた。昔の日本人はやらない行為だが、かといって筆者は眉をしかめることもなかった。もう少し遠慮してあまり人目につかない場所で食べることも出来るが、椅子があって一応は外気に晒されていない場所となると、四条河原町ではほかに適当な場所見つけることは難しい。百貨店の中は公共の場で、誰からも文句を言われる筋合いはないとの思いだろう。公共の場であっても食事するなどもってのほかという意見と、なぜ悪いと言う人のどちらが多いだろう。たくさん人が乗る電車の中でハンバーガーやおにぎりにパクつく女子高生やOLを今では普通に見かけるが、時にひどい臭いをかがされ、顔をしかめたくなる。公共の場で他者に迷惑をかけていいはずがない。梅津のスーパーのトモイチでは40畳ほどの休憩場所があって、冷温の茶が2種無料で用意されている。何も買わなくてもそこに坐って時間を潰すことが出来て、筆者はごくたまにはそこで休みたくなる。1年半ほど前まではビールなど酒を飲んでもよかったのに、酒臭さが漂うことと、飲み過ぎてトラブルを起こす人が現われるのを警戒したのか、酒は禁止となった。ほとんど休憩客がいない時くらいはいいと思うが、それを許可すれば見境がなくなるだろう。
以上まで書いて7時間ほど経った。やはり渡月橋方面には散策しなかった。その代わり、家内の用事につき合って区役所まで自転車で行った。帰りに梅津に寄り、トモイチで買い物をし前述の休憩場所でしばし坐った。筆者だけだ。家内がレジを済ませるのを待っている間に喉の渇きを潤そうとした。桜餅を思い出したので、買った。直径4,5センチの小さなぼた餅と桜餅が2個ずつ入って100円ほどだ。一口サイズであるから、4口で食べられる。家に帰って早速パックを開いてフォークに刺して口に運びながら、『餅は餅屋かもしれないが、安価なものは餅屋とは呼べないような工場が量産していて、餅屋ならではのさすがの味わいといったものはない』ことを思った。それでも自分で作るとたくさん出来るがもっと高くつくだろう。それで餅は餅屋なのだ。こう書きながら、筆者はどんな餅屋すなわち専門家なのかと思う。昔は「これなら自分に任せておけ」というほどの専門があれば食いはぐれはないと言われたものだが、筆者が30前の頃、ある女性が筆者に「専門家は潰しが効かないから駄目」と言った。専門を活かせる時代がずっと続くとは限らないからだ。会社が倒産したり、また流行が変わって専門職が不要になったりする。そういう時、ひとつのことに命をかけて来たような人はたちまち困る。なので、その女性は専門など身につけず、収入さえ確保出来るならどんな仕事でもよいとの考えを持っていた。どっちの生き方がよいかは個人が決める。どうあがいても専門職が身につかない人もあるし、専門を絶えず磨くことに生き甲斐を見出す人もある。ある専門職のほとんど頂点に立つ人はどんな時代が来ようとも食いはぐれることはまずないと思うが、大部分はいかに優れた専門性を持っていても収入に結びつけられないだろう。そういう厳しさをたいていの人は知っているので、専門職で生きようとは思わないのではないか。だが、専門職もいろいろだ。資格を必要とする職業はみなそうだと言えるが、筆者が考える専門職は資格がある職業ではない。資格の取得は簡単で、それを取っただけでいっぱしの仕事が出来ると錯覚しているような人を筆者は思っていない。たとえば「この道50年」といった職人仕事で、仕事から年輪が見えるような人だ。そういう人でも仕事がなくてやめざるを得ないことがしばしばある。時代に合わなくなって、誰からも求められないか、あるいは個人の手仕事では追いつかなくなり、機械に委ねて大量生産するしかない。後者はまだ恵まれている。自分の人生が別の形で活かされるからだ。餅は餅屋だと言いながら、餅屋がどんどん少なくなって来たこの半世紀で、そのうち「餅は餅屋」の意味を理解しない人がたくさん出て来るだろう。「この道50年」といった専門職に携わることがますます難しい時代になっている。そうなれば誰も高い技術などわからないから、さらに専門職の高みは低くなる。
満開の桜を見ながらビールでもというのに憧れるが、嵐山に住んで30年を過ぎているのに、まだ一度もそんなことをしていない。徒歩2分で桜の林に着くので、駅前のコンビニで缶ビールを買えば済むことだ。それを実行しないのは、桜の林でビールを飲んでいると自治会の顔見知りにでも会うかもしれないという思いが多少あるからかもしれない。筆者も家内同様、青空の下で飲食をしている姿を他人にあまり見られたくないようだ。それに、ビール片手の花見はすでにいい場所が観光客に占領されているので、林の片隅で遠巻きに彼らを眺めることになる。その姿を想像するといささかわびしい。それで今年も桜の林でビールを飲むことはないだろう。家内は飲まないので、まず絶対について来ないし、来ても筆者から50メートルほど離れたところで素知らぬ顔をする。そこまでして桜を見ながらビールを飲むこともない。家の中からでも嵐山の桜は遠くに見えるし、好きな音楽を聴きながら飲めばなお楽しいだろう。そう言いながら、そんなこともしたことがない。桜の林で思い出した。息子にわたした米を先日回収して来た。たぶん2年は経っている。試しに少し炊いたところ、多少酸味がした。古くなってもう食べられない。3キロほどあるので捨てるのはもったいから、桜の林に行って雀にやろうかと考えている。鳩は駄目だ。彼らは糞をよくするし、わが家の隣家ではベランダが糞だらけにされている。雀が果たして古々々々米を食べるかどうか。冬場なら我慢して食べると思うが、そうなると古々々々々米となって酸っぱさが増す。今朝家内は雀の声があまりにうるさいので早朝に目覚めたと言った。先日合歓木をかなり切ったが、その隣りに同じほどの高さの椿が満開で、その木を目指して飛来するのだろう。そこで寝床で思ったことは、桜の林に米を持って行かず、わが家の裏庭で雀に与える方法だ。思い描いたのは椿か合歓木の地面から2.5メートルほどの高さにところに皿を1,2枚水平に固定し、そこに毎晩少しばら撒いておくことだ。そうすれば雀は見つけてくれるだろう。ただし雨になると米はふやける。それに皿をどう固定するかが問題だ。今日は駅前のコンビニの脇にある満開の桜の木に10羽ほどの雀を見た。みな元気よく、春の訪れを楽しんでいるようであった。そこで思ったのは彼らの寿命だ。2,3年と聞いたことがあるが、それなら春や桜の開花はとても新鮮に違いない。桜も何十年と見続けると、そう大して感動はない。長生きするものではないということか。
今日家内と自転車連ねて区役所そしてスーパーでの買い物など、用事を全部済まして嵐山に戻る途中、松尾駅まで徒歩800歩という筆者だけが目印にしている場所まで来た時、鶯がとても鋭い声で鳴いた。あまりに大きい声で元気がありあまっていると見える。聞こえた場所から50メートルほど先に行ったところでまた同じように鳴いた。雀も元気、鶯も元気、みんな元気の春だ。そう言えば昨日は同じ小川沿いの道を歩いていて、猛速度で飛ぶ燕を4,5羽見た。今年初めて見る。もうそんな季節が来ている。燕は虫を求めて飛んでいるから、花の開花と同時に虫が湧いている。それで正常だ。鳥にも虫にも専門がある。餅屋だ。その伝で言えば人間もと言いたいところだが、人間はさまざまで、働く者もいれば、「餅は餅屋に任せておけ」と何もしない者もいる。それでも人間全体はどうにか動いている。その点では鳥や花と変わらない。餅屋になりたい人はなるし、それが真っ平と思う人は時代に合わせて職業を変える。いずれにせよ収入を得なければならないが、人間は精神的な満足を一方で求めるから、いやな仕事は絶対にしない人もある。筆者はその部類に属して今まで生きて来たが、今日は消費税が上がり、先ほどのTVでは低所得者ほど収入に占める消費税アップの影響が大きいと伝えていて、内心ぎくりとする。一方で生活保護費は削られることが決まり、受給者の老人が食べるものを始末するしかないとTVで訴えていた。貧しい者はますます口を閉じ、金持ちが威張る世の中になって行くということか。今朝は家内が雀の声で早く目覚め、寝室のTVのスイッチを入れた。その音が眠っている筆者に届き、半分目覚めながらその番組に耳をそば立てた。整理で有名な女優が自宅を紹介していた。彼女は一時精神的に病んで顔が曲がったとか聞いた。今は昔の笑顔でまたTVによく出るようになったが、家の中の整理法を書いた本で稼いでいるようだ。それもあって自宅は見事にきれいであった。また金もかかっているようだ。だが、筆者も家内も少しもその家に住みたいとは思わなかった。きれいではあるが、生活感がない。TVで紹介されるので懸命に磨き倒したのか、あるいは普段からそうなのだろうが、ドア・ノブなど、目立つ金属にはすべて金メッキを施すなど、金運をつかむための願かけが成金趣味で、それが随所に表われて薄っぺらな印象があった。それはその女優の表情にも出ている。1か月ほど前か、彼女はネットで株の売買をしていて、数千万か億単位の金を儲けたと言って身につけた宝石を同席したタレントに見せていた。その様子が嘘っぽく、悲しく見えた。いずれまた精神病になるのではないか。金持ちかもしれないが、筆者は彼女と親しくなる機会があっても拒否したい。
「餅は餅屋」という表現が幅を利かしていた頃、どの餅屋もそれなりに食べて行くことは出来たであろう。多少味が落ちても安い方がいいと思う人が増えて餅屋は減少し始めた。その安いことにも消費税の上昇だ。今日はエイプリル・フールであるから、まさか消費税8パーセントは嘘ではないかと疑ってみる人もあったかもしれないというのは嘘で、そんな冗談が通じないほど消費税は深刻に受け留められている。家内と出かけたトモイチは普段より人が少なかった。買い物は昨日大量にしたという人が多いのだろう。缶ビールを買おうとした家内を筆者は止めたが、花見ビールはいいにはいいが、なければないで済ませることが出来る。喉が渇くのであれば水でも飲んでおればよい。そう思ってトモイチの休憩所でレジを済ませる家内を待つ間に紙コップに2杯の無料の茶を飲んだ。家内がやって来て買ったばかりのミニぼた餅とミニ桜餅の4個セットの透明パックをテーブルに置いた。だが、箸かフォークがほしい。それでまた蓋を閉めて家に戻って食べることにした。休憩所から見える桜と言えばピンク色の造花ばかりで、それには100円の安物の桜餅は似合う。渡月橋北詰めの有名な桜餅を食べさせる店で観光客に混じって大きな桜餅を食べるのではなく、トモイチの休憩所で下町の貧しい身なりの老人たちを眺めながら座っている方が筆者には似合う。もう10年もすれば彼らの仲間入りかなとふと思ったが、先のことはわからない。さて、今日も去年3月30日に撮った写真を載せる。前回のこのカテゴリーに投稿した「その307」の写真を眺めていると、最初の写真にどうも家内が写っている。ピンク色の上着に黒のスラックスで、後ろ姿だ。1年前のことであるので記憶が曖昧だが、小さな後ろ姿の写真からでも身近な者はわかる。家内はその写真を筆者が撮り、ブログに載せていることを知らない。あえて家内を写し込んだのではない。ふたりで満開になった桜を見るついでに渡月橋まで行ってみようと出かけたのだ。渡月橋をわたったかどうか記憶にないが、帰りは桜の林の中ではなく、違う道を歩いたことは今日の写真からわかる。4枚目の写真の左下隅に同じ服装の家内が小さく写っている。ぎりぎり収まった。黒い帽子を被っているのがわかるが、この帽子は筆者用に沢辺さんに作ってもらったが、小さいので家内に譲った。「まつ屋」の看板が大きく見えるが、ここは2年前に自治会の集会で使い、食事もした。突き当りにごく小さく看板が見える「花筏」は先日の年度末総会で使用した。この写真に見える電線が無粋であるというので、地下に埋める工事がいずれ行なわれる。