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●立命館大学国際平和ミュージアム
昨日の午後に出かけた。実はマルク・リブー展を観て間もない頃、このミュージアムで『世界報道写真展2005』が開催されることを知って、何だかうまい具合に関連づいているなと思った。



さほど強い関心はなかったが、会場となっている立命館大学国際平和ミュージアムにはいつか行こうと思っていたので、ちょうどよい機会と考えた。このミュージアムの関係者が、映画『ヒトラー』の試写会で上映前の5分ほど、スクリーンの前で話をされた。その時にも、このミュージアムにはいずれ訪れてみようとの思いが起こったので、今回の展覧会はちょうどいい機会であった。というのは、常設展だけを観るためにわざわざこの館のある方面に出かけるのはかなり面倒であるし、どうせなら特別展が開催されている時の方が一石二鳥でよいからだ。だが、今日はまずこの館について述べる。立命館大学の前には堂本印象美術館があり、すぐ近くには金閣寺があるなど、京都市内でも特に閑静な地区だが、館が立命館大学の校内にあるのか、少し離れているのか、チケット裏面の簡単な地図ではわからなかった。それで息子の車で堂本印象美術館前まで送ってもらい、すぐに大学の門前に立つ警備員のおじさんを見つけて歩み寄った。場所を訊ねようとすると、こっちが言葉を発する前から、方向を指で示し、「次の次の信号を右に折れて100メートル」慣れた口調で言われた。おじさんにすれば長年の勘で、近寄って来る人の姿を見ただけで、どこへ行きたがっているのかわかるのかもしれない。おじさんの言葉にしたがって、小糠雨降る寒い中を行くと、すぐにミュージアムがわかった。予想とは大きく違って、とても広々とした大きくて立派な建物だ。立派過ぎると言ってよい。10数年ほど前のことになるが、大阪の大正区にある人権博物館に何度か行ったことがある。そこで開催される小企画展にはたまに面白いものがあった。企画展示室とは別に常設展示室もあって、同和問題に関する写真パネルや資料などを初め、人権に関する資料がいろいろと並んでいた。その博物館は大きな専用の建物ではなくて、ビル内の数部屋を使用していたように記憶するが、いつ行ってもガラガラで、人権問題に関心を持つ人がいかに少ないかを思ったものだ。この立命館の平和ミュージアムもおそらくその博物館によく似て、地味でしかも展示室にはほとんど人がいないだろうと想像していたが、全く違って、筆者の想像の数倍の広さ、豪華さ、それにちらほら人もいた。地下1階の常設展示をまず観たが、あまりにも説明パネルや映像資料、それに実物資料が多いので、全部じっくり観ると2時間近く要する。1時間程度で観たが、そのため、後半は足早になった。というのは、1階の企画展の「世界報道写真展」の方を観る時間がなくなってしまうからだ。帰り際に気がついたが、館の2階にも展示はあった。それは全く観ることが出来なかった。
 平和のためのミュージアムとなれば、美術展とは違って人が訪れないのはよく想像出来る。だが、8月の文化博物館における『無言館展』は大変な人出であったから、この館に人が集まらないとすれば、それは地の利がよくないことと、常設展示ならばいつでも観られるという気持ちを抱かせるせいだろう。少なくとも筆者はそうであった。入場時に手わたされたパンフレットは、A4サイズ16ページの総カラー印刷による立派なものだ。大きな館の維持やこうした資料印刷費などを考えると、経営が成り立たないのではと心配になる。パンフレットの最初には「ミュージアムの理念」が書かれている。はしょって書くと、「…2度におよぶ世界大戦を経験し、…地域紛争は今なお耐えることなく、…飢えや貧困、人権抑圧や環境破壊など人類が共同して解決すべき問題も、多様な形で浮上してきています。…人間の可能性が豊かに花開く平和な社会の実現にむけて努力することが求められています。…平和創造の面において大学か果たすべき社会的責任を自覚し、平和創造の主体者をはぐくむために設立されました。」ということで、これでおおよその展示内容も想像出来るはずだ。だが、会場の展示やその構成のあらましはよく示されていても、量と迫力の点では月とすっぽんで、パンフレットだけを読んで会場を訪れた気になったとすれば大間違いだ。資料の数の多さというよりも、むしろ本物の迫力と言えばいいか、戦時下の日本、京都の様子が当時の本物の生活具やチラシなどの印刷物、それに自由に手が触れてよい品物によって生々しく感得出来る。たとえば、日本の兵隊が背負っていた荷物を再現したカーキ色のリュック・サックが置いてある。これは誰でも自由に持ち上げてよいもので、戯れに持ち上げてみたが、とても片手では上がらない。説明書きを読むと、何と30キロもある。こんな重い荷物を常時背負って兵士が行進していたことを想像すると、急に涙が出そうになった。悲惨な戦争の写真を見るより、このリュックを実際に背負ってみる方が戦争の実情がわかる。今の人間は写真にはあまりに慣れてしまっている。そのためにも自分の体で感じなければならない。このリュックを背負って、急峻な山道を30分と歩ける大人がどれほどいるだろう。命がけと言われれば誰でも底力が出るかもしれないが、1日や2日で戦争は終わらない。いつ平和がやって来るかわからない張りつめた日々の中、南方のジャングルで食料もないままに生活しなければならなかった兵隊の気持ちを、さて今の人間がどのように知ることが出来るだろう。戦争が残酷で醜悪であることは、こんな重い荷物を兵士に負わせることだけでも充分にわかる。
 常設展示を観ている婦人のグループがあって、ボランティアだろうか、ひとりの同世代の女性が説明していた。その説明を聞けば、きっと共産主義的だと言って反論する人もあることだろう。だが、広々とした展示室の中での第2次世界大戦の説明に割かれているスペースはちょうどバランスの取れたものであった。展示は十五年戦争の説明から始まり、現代の紛争地域の紹介に終わっていたが、パンフレットにしたがって簡単に展示のテーマを列挙すれば次のようになる。(テーマ1)十五年戦争、(a)軍隊と兵士、(b)国民総動員、(c)植民地と占領地、(d)空襲、沖縄戦、原爆、(e)平和への努力、(テーマ2)現代の戦争、(a)2つの世界大戦と戦争をふせぐ努力、(b)植民地の独立と冷戦、(c)冷戦後の戦争、(d)兵器の開発、(e)現代の地域紛争、そして(テーマ3)は「平和を求めて」と題して4つの展示室が設けられているが、これは館の2階にあって、前述したように今回は観る時間がなかった。帰宅してパンフレットをよく見てわかったが、この2階の一室は無言館の京都分館になっている。無言館から作品を借りて来て、年に2、3回展示替えしているそうだ。これも知らなかった。8月の『無言館展』の時にこのミュージアムの宣伝はなかったように思う。開館したのは1992年だが、これは京都在住の中野信夫という歯科医の多額の寄付に負うところが大きいとのことだ。立命館大学の敷地の中にある施設とばかり思っていたのが、そうではなくて住宅地の中に建っているから、案外建物用の敷地を中野氏は寄贈したのかもしれない。もしそうだとして、あたりの環境を考えると、これはかなり高額なはずだ。よほどの強い信念がなければそんな寄付など出来ることではない。『世界報道写真展』が開催されていた1階は「中野記念ホール」と名づけられているが、これは中野氏の功績を記念するものだ。また、そもそもこの館の設立のきっかけを作ったのは、会場にあった説明によれば、読売新聞が8月に毎年主催していた『戦争展』であるようだ。この『戦争展』は筆者も一度出かけたことがある。高島屋か大丸か、あるいは勧業館であったかもしれないが、新聞では大いに宣伝され、展示物は一般市民の中から寄せられたものも多く占めていたと思う。何年か続いて、ある一定の認知度が高まった段階で、その恒例の展覧会は開催されなくなった。その代わりのような形でこの館が出来たわけだ。立命館大学が校内に計画している時に中野氏の寄付があり、今の場所に建ったようだが、出来てもう13年も経っているとは知らなかった。読売新聞で『戦争展』が話題になっていたことがつい最近のような気がするからだ。
 立命館大学がなぜ平和ミュージアムを建設する気になったかだが、これは地下1階の展示パネルの中の説明からわかる。それは1933(昭和8)年の京大滝川事件がきっかけになっている。この年はヒトラー政権が成立したことでよく記憶されるが、日本は国際連盟を脱退し、前年には満州国を建国している。京大滝川事件は学問、思想の自由を巡って戦われた反戦平和運動のひとつで、当時の鳩山一郎文部大臣は滝川幸辰(ゆきとき)京大教授の著書が共産主義的だとして大学を去らせようとしたが、京大教授会は大学の自治、学問の自由を守るために抵抗した。結局京大を辞める教官たちが出て、それを立命館大学が受け入れた。この館がこの事件をパネルでさり気なく説明しているのは、反米感情一辺倒の世の中に傾斜して行くことに、せめて大学が抵抗したという事実を示すためであり、1階の全展示物の中でもこの下りが最も強調したいことのように思える。歴史はつながっているし、京大滝川事件はほんの70年ほど前のことだ。立命大学がこのような施設でしっかりと事実を展示説明し、戦争のことをほとんど何も知らない若い世代に、学問、思想の自由のありがたさを教えて行く必要はある。単一民族的な日本人は一瞬にしてある方向に染まって行きやすい傾向を持っていると思えるが、そんな中にも冷静に事態を見つめて筋を通す人があったわけで、展示ではそういう抵抗運動の人々の紹介もきちんとなされていた。ただし、あまりにも出来事が多い戦争時代のことであり、見出し程度の紹介に終わっているものが少なくない。例えば大本教などの新興宗教への弾圧も、わずか1、2行の説明に過ぎない。大本教が当時どういう人物が主になって、どういう表現活動をしていたかなどは、大本教に何らかの決定的な関心を抱かない人でない限り、説明パネルを読んでも、まず弾圧があったことすら記憶に残らない。
 天井が高く、広くてきれいな館内は、国立民族学博物館を思わせる雰囲気があった。また妙な時代がやって来て、この館を壊してしまえと叫びを上げる野蛮な連中が登場しなければいいと思うが、政治家が治安維持法を巧みに制定し、いつ言論の弾圧を行なうようにならないとも限らないという想像が脳裏をかすめた。それほど展示が生々しいのだ。筆者のように50を越えると、自分の生まれた年を基点にして、自分の年齢分を遡って時代を想像してみることが出来やすくなる。すると、今の筆者の場合なら、1900年前後、つまり日清戦争の頃の世界までは容易に思い描くことが出来る気分がする。となれば第2次世界大戦などとてもそれほど昔とは思えない。昔と思えないからこそ、また同じようなことが起きるのではないかとの不安も強い。ところで、この館の展示物は一般の人から寄せられたものを多く使用しているのであろう。京都ならまだまだ戦時中の古いものは出て来るはずだし、骨董的価値もあまりないので、資料は集まりやすいだろう。展示物の中には、当時ならすぐに捨てられてしまう運命にあったような紙資料の中に面白いものがたくさんあった。反戦ビラがその代表で、与謝野晶子が日露戦争に出征した弟のために書いた詩「君死に給ふことなかれ」が印刷されたものもあった。説明パネルで知ったが、この詩の三連目は「すめらみことは戦いにおおみずからは出でまさね」(天皇は自分では戦争に出て来ないではないか)という下りがあって、晶子としてはぎりぎりの反戦思想を詠み込んだものと言える。話が少し戻るが、国立民族学博物館を思わせたのは、戦時中の民家の復元展示があったからだ。これは実際の民家が解体された時に材木を譲り受けて復元したものと思うが、部屋に上がってもよく、そのようにしたところ、急に自分がずっと昔からその部屋をよく知っている気分がした。何の変哲もない普通の部屋と言ってしまえばそうなのだが、それでも戦時中の空気がそこに籠もっているように感じて、いやな気がした。もちろん戦時中の空気は筆者は知らないが、前述したように、自分の生まれる前のことでも今では想像力を働かせれば、ある程度は実感出来ると信じている。特に体ごとを包む部屋という空間に浸ればなおさらで、その部屋が保っていた古き時代に一気に遡れる気がする。
 そのほか、いろいろと興味深い写真や地図などがあったが、京都市内における練兵場や兵器支蔽など、京都伏見区の師団街道西側一帯が全部軍施設になっていたことを改めて地図上で確認出来たのは、この地域を小学生時代からよく知っていた筆者にすれば、何だか心が痛むものがあった。そうした軍施設は今は龍谷大学や警察署などになっているが、たった100年の間に土地の光景が次々と変わったものだ。もう100年前は若冲がそのあたり一帯を石峰寺境内から見下ろしていたが、その頃は見わたす限り田畑で、遠くに西山がかすんで見えていた。大戦後1950年に朝鮮戦争が始まり、アメリカ軍への物資やサービスの供給が増し、開戦3年で10億ドル以上の収入をもたらした。これは当時の円に換算すると3600億円以上となるが、はがきが5円の時代であったので、今の価値に換算すると4兆円ほどになるだろうか。とにかく、このとんでもなく大きな戦争特需によって日本は高度成長時代の足がかりをつかんだが、隣国の人々がたくさん死んで潤うのであるから、残酷な話だ。日本が戦争に巻き込まれるのは御免だが、日本の近くで戦争が起こってくれると、また景気浮上になると考えている連中はいるかもしれない。「あなたが望めば戦争は終わる」とジョンとヨーコは言ったが、大きな力を持った連中が、地球上から決して戦争を終わらせたくないと考えている限り、世界平和は訪れるはずもない。展示の後半は「現代の戦争」で、新しい出来事があればただちに対応して資料展示を増やしていることがうかがえた。戦争はなくならないから、展示はどんどん増えることになる。そのためにも広い会場が必要であった。本当はこれはそうあってはならないことだが、この館に行けば端的に20世紀の戦争に関しての知識が得られるというのは日本が誇るべきことと言ってよい。国立民族学博物館が絶対に扱わない資料やテーマを大学が堂々と展示していることに、取りあえず今の大学の健全さを見る思いがする。もっと宣伝が行き届き、人々への認知度を高める必要がある点を除いて。
by uuuzen | 2005-10-23 22:49 | ●展覧会SOON評SO ON
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