痕跡を留めたく思っても、時の流れは何事も容赦せずに消し去って行く。ピラミッドや万里の長城でもいつかはMUST PASSで、有名人がいつまでも有名であり続けるのも不可能というものだ。そう考えると、『何事も焦ったりこだわったりする必要はない』と気が楽になる。
そうは言っても生きている間の人間はいろんな欲があり、それが生きて行くための原動力になるから、人間は時の流れに対してまことに小さくて憐れなものだ。この「もの」を今「存在」と書きかけたが、人間全体からすれば個人の「存在」はあまりにちっぽけで、「存在」という言葉を使うほどではないと考えた。そうそう、先日書き忘れたことを思い出した。
承天閣美術館で開催された円山応挙の後期展に柴田是心の著色画の掛軸が出品された。天秤にかけられた多くの人間が財宝よりも軽い様子を描く絵で、是心がどういう思いを込めたのか興味を抱かせた。彼の時代でも拝金主義が目立ち、人間の命が軽かったことを皮肉ったのだろう。是心は明治半ばまで生き、日清日露戦争は知らなかった。それでもそれ以前の日本国内の戦争でたくさんの人が死んだことは実感していたはずで、そういう戦争を風刺したのかもしれない。人間の命よりお金が大切というのは、強盗殺人者が絶えないところ、今も一部の人間、人間の一部にとっての真実だ。それはともかく、是心のこの絵は相国寺の蔵品であるから、今後数百年経っても人々の記憶から完全に消えることはないであろうから、少なくてもその間は彼の名もひとつの痕跡となって風化しない。もちろん永遠ではなく、数百年あるいは数千年といった単位の年月で、それより長期となると日本という国がなくなっているか、人類が滅びているかもしれない。つまり、人間がこの世に痕跡を残すのは古生代の動植物が化石となって発見されるのと同じような偶然の作用であって、痕跡を留めようとする意志は無力と言える。『夢を持て。強い意志を抱け』などと子どもを教育しても、それは現在に接近した近未来を見定めてのことで、どんな優れた人物になっても、彼の業績が人類全体に記憶の痕跡となり続けることはまずない。だが、それを言ってしまうのは身も蓋もなく、生きている間はせいぜい楽しく過ごせるように考えればよい。その楽しい行為がたとえばこのブログで、ひとまずは生きた証としての痕跡となり得るが、まことにはかないもので、仮にブログを半永久的に残す技術が生まれたとしても、読み手がなければ痕跡となり得ないも同然で、痕跡はつまるところ、自分の記憶の中においてのものと思っておくのがよい。そしてその個人の記憶も老化に伴って薄れて行くから、やはり個人が痕跡を留めることは難しい。
先日のTVで、3年前の東北の大震災で家や家族を失った人たちが、仮設住宅に移ってそれなりにまた新たな知り合いを得て生きている様子を伝えていた。その中で印象に残ったのは、80代のある女性だ。彼女はとても幸福そうな笑顔を浮かべていたが、1年後には仮設住宅が撤去され、別の地域の仮設住宅に移動させられる予定を話す時には表情を曇らせていた。現在の仮設住宅での生活は不便を言えば切りがなくとも、同じ仮設住宅の住民同士は仲がよく、それなりに心が満たされている。それが別の仮設住宅に移住するとなると、せっかくこの3年で親しくなった人たちと離ればなれになり、また仲間意識が出来上がっている別のグループの中に新参者として入って行かねばならず、その予想がストレスになっている。このことは、人間にとって大事なのは親しく話せる人がいるかどうかを示している。巨大地震以前も近所の人たちとそれなりに親しかったはずだが、財産を失ってしまうと、改めて人とのつながりの大切さを実感する。それは仮設住宅の住民がみな同じような境遇で同じように経済的に困窮しているからで、その様子は戦後間もない頃の日本にはどこでも割合普通にあって、そういう時代を今の80代は知っている。日本がまだ貧しかった頃とよく似た環境が仮設住宅の住民たちのコミュニティにあるとすれば、人間の幸福は経済的な貧しさとはあまり関係がなく、むしろ全体的に貧しかった時代の方がより幸福を実感出来たと考えることも出来る。仮設住宅の住民がそうでない人たちより幸福であると言いたいのではない。人はどんな境遇にあっても幸福を感じることが出来るということで、先の80代の女性の笑顔はとても仮設住宅の住民のものとは思えず、それだけに別の仮設住宅に移ることの不安がこちらによく伝わった。彼女は仮設住宅の住民同士がよく助け合っていることに生き甲斐を見出していて、たぶん震災以前の経済的に豊かな生活に戻れるとしても、それを幸福とばかりは思わないのではないか。傍から見ればとても生活出来ないような悪い環境に見えても、人はそこで幸福を見つけようとする。これは生存して行くための本能で、それがなければ絶望のあまり死ぬしかない。また、そういう人も大勢いて、人間はどこでどのように思いが揺れるかわからないが、先の80代の女性から想像するに、世の中が比較的貧しかった時代に子どもの頃を過ごした人はそれがどこかであたりまえと思い、自分を惨めであると思わなくて済む割合が大きいため、財産を失ってもその境遇に耐えられるのではないだろうか。
痕跡の話からいつの間にか書こうと思っていないことに入り込んでしまった。人間が見ている光景は人手によるものか自然の作用によるものかの違いはあるが、すべて痕跡だ。そして、どの瞬間の痕跡が理想であるかは誰にも決められない。とはいえ、誰が見ても美しい痕跡というものはあるし、それが名所となって比較的長年なるべくそのままの状態に保たれる。嵐山はそのひとつの代表だ。嵐山は狭い意味で言えば嵐山という名前の山を指すが、その山もここ100年で著しく植生が変わった。山の形は変わらずとも、生えている樹木が変われば、衣替えと同じで風景としてはかなり違ってしまう。それでも同じ嵐山として認識されるのは、人々が嵐山という山だけを見るのではないからだ。その前には川の流れがあるし、また川の両側を人は歩くことが出来る。それに嵐山の奥には峡谷が連なっていて、そこにも桜がや楓が豊富で、そうした嵐山という山を中心とした辺り一帯を広い意味での、つまり世間で通っている嵐山と呼ぶが、それは嵐山という単体の山のこれまでの変化以上にさまざまな変化を経て来ている。それは時代に応じてそれなりに造り変えて行こうという意識の表われと見てよい。この意識は京都を代表する名所として今後もなるべく同じ状態で残して行こうという考えがもっぱらであるべきだが、先日からこのカテゴリーに何度も書いているように、日本は経済的に豊かになり、人々は昔とは比べものにならないほどの財産を抱えるようになった。そうなればそれを守ろうとするのは人間の本能であり、行政はそのことに協力すべきという考えが出て来る。見事に美しい痕跡である風景がよくても、数十年に一度の大雨は川を氾濫させて家を水浸しにする。それは困るので、風景の痕跡を醜く変えても財産を守ってもらうのがいいという人はいるだろう。だが、その財産は美しい風景があってこそ今後ももたらされる人と、そうではない人とが同じ地域に混じって済む。これでは地元で考えがひとつになることは難しい。見事な風景の痕跡をいつまでも同じ状態に保つことが無理なのは日本中の名所を見てもわかる。それは最初にどこかが大きく風景を無残に作り変えてしまった象徴的な事件があったという見方が出来る一方、物事はそう単純ではなく、どこもかしこもごくわずかずつ風景を変えて行くしかない状態にあり、その積み重ねとそれに便乗した大規模な改造工事があるためと言ってよい。それは大局的に見れば正しいかもしれないが、長年続いている同じ痕跡を今後も留めておこうという意識を持っている地域はあるだろう。12日の地元喫茶店での会合では、10年ほど前か、ソウルで大きな暗渠を元の川面が見える流れに戻す工事が実行されて話題になった。日本ではまずそんなことは起こらないのではないか。都会のど真ん中を流れる川は車の通行にとって邪魔で、道路下あるいは鉄道下に移す工事は今後も実施され続けるだろう。桂川を暗渠にすれば渡月橋は大きな交差点になって車をもっと走らせることが出来る。そういう痕跡に造り変えた方がいいと唱える政治家もやがて出て来るかもしれない。今日の4枚の写真はちょうど1年前、去年3月16日に撮影した。工事中の写真であるので、もちろん今はこれらの痕跡はない。目まぐるしく変わる痕跡を紹介するのがこのカテゴリーだ。