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●『開館三十周年記念 円山応挙展 ≪後期≫』
倶胝和尚の話を読んだのはおそらく相国寺が所蔵している水墨画についての説明であったと思う。その作が本展で展示された。絹本の双幅で、右幅に倶胝和尚と侍者の若者、それに対面する武人を描く。絹本はそうとうに茶色と化し、墨の明暗がわかりにくい。



●『開館三十周年記念 円山応挙展 ≪後期≫』_d0053294_1311118.jpg描いたばかりの状態を想像すると、和尚たちは晴れた青空の下で対話しているように思えた。今の技術ではそういう複製を作ることも可能なはずで、この双幅はもっと明暗をはっきりさせた状態で見たいものだ。武人は刀を地面に突き立てていて、その様子が韓国の時代劇によく描かれるので、中国人の和尚がどのように武人に応対したかは思い浮かべやすい。そう言えば韓国の時代劇に和尚はたまに登場するし、武人にいろんなことを示唆し、また一緒に行動することもある。そのことは、朝鮮が中国に近いことを今さらに思わせる。倶胝和尚は意見を求められた時、指を一本立てた。その様子を想像するに、かなり茶目っ気のある人物で、きっと笑顔で指を立てたのだろう。どの指を立てたかはわからない。たぶん中国に伝わる文献に書かれていないのだろう。これが残念だ。立てる指によって相手への説得力が違う。親指を立てることは今ではOKを意味するが、倶胝和尚の時代もそうであったと思う。相手の武人に笑顔で小指を立てると、武人は『お前は小指のように小物だな』あるいは『お前の女はいいか?』の意味に受け取って、怒りから刀を地面から引き抜き、和尚を切りつけたかもしれない。やはり親指を立てたはずで、そのことで相手は満たされた気分になり、爽やかな顔つきで和尚のもとを辞したであろう。それはさておき、和尚の侍者は和尚の指を立てる様子をそばで見続けていたせいか、自分も同じ仕草をするようになった。猿真似だ。今でも嫌われるが、昔からそうだろう。それはともかく、本展の図は武人が和尚に対峙しているが、和尚のそばにいた侍者も和尚と同じように指を同時に立てたと考えるのがよい。その様子を見た和尚はすぐさま侍者のその指を切った。侍者は痛いので逃げ、そして『何すんねん、和尚!』と内心叫んだはずだ。その眉をしかめた侍者の顔を見て、和尚はにっこりといつものように指を立てた。その瞬間侍者は悟った。指一本失って悟ったのであるから、和尚に感謝せねばならない。そして、もう猿真似はしないと決めた。つまり、一人前になった。侍者が指を一本失ったことは、先日書いた速水御舟の足首を切断した事故を連想させる。御舟はその事故によって画家として悟ったかもしれない。
 本展は応挙展の後期で、前期展については去年12月中旬に感想を書いた。早いものでもう3か月経つ。これには倶胝和尚のように指を立てる気にはなれない。60過ぎてまだそんな考えでは悟りからはほど遠い。ともかく、後期展は障壁画を中心とした展示ということがわかっていたので、応挙についてはそれほどのファンでもないが、見に行った。結果を言えば、前期と作品がかなりだぶっていて、同じ料金では具合が悪く、前期と後期のもぎり部分が1枚のチケットに印刷され、しかもそれが1000円程度であれば、もっと多くの人が見たのではないか。前期も後期も筆者が訪れた時は同じほどの人の入りで、さほど少なくもなかった。それが先月の『若冲ワークショップ』で聞いたところによると、宝蔵寺で新発見の若冲画が展示された1週間の来場者数が、本展より多かったそうで、若冲人気は応挙をはるかに凌駕していることになる。そうなると作品の価格も鰻上りだろうか。『若冲ワンダーランド』展に出品された芭蕉翁を描いた簡単な最晩年の水墨画が、同展の2年前に650万円の値段がついていた。比較的珍しい作品でもあるからだが、それにしても高騰ぶりは凄まじい。応挙も高値のはずだが、若冲と比べてどうなのだろう。それに応挙の新発見作はあまり聞かない。贋作は無数にあるが、それが若冲とは違って出来がよいものがあって、真贋判定が難しいものが多いだろう。真贋で言えば、前期展の感想に書いた芦雪の対幅の贋作が今回も展示された。寺に伝わったものなので、まさか贋作ではないと考える人は多いだろうが、寺であろうが金持ちの家であろうが、贋作はどこにでも入り込む。話を戻して、作品がかなりだぶっていたのは、相国寺の所蔵作のみを展示しているからだ。京都の画商に連絡すればすぐに大量の応挙の作が集まるはずだが、承天閣美術館の矜持からそんなことはしない。だが、見方を変えれば、よくぞ2回に分けた企画展が開催出来るもので、それほど多くの作を同寺が所有している。これは京都でも稀有のことだ。それは潤沢な資金をほのめかしている。応挙やその周辺の画家の作でいい出物があれば今後も購入し続けるのかどうか。まずは若冲優先で、しかも珍しい著色画をじっくり収集して行く方針であるだろう。筆者は同寺が次にどんな若冲画を買うかが楽しみで、たぶん来年や再来年にはまた若冲展を開催すると思っている。その前祝い的に応挙を持って来たと考えれば応挙がかわいそうか。
●『開館三十周年記念 円山応挙展 ≪後期≫』_d0053294_1312069.jpg

 筆者は応挙の絵を見ながらほしいなと思うものがない。もちろん買えるはずはないが、買えるほどのお金があったとしての話だ。応挙は真面目で努力型であった。その人格を上田秋成は手放しで誉めている。そういう画家の絵があまり面白くないと言う人は、きっと応挙のように真っ直ぐで清廉ではないのだろう。つまり、筆者はひねくれている。開き直りではなく、本当にそう思う。だが、画家という職業は元来変わり者が携わるのではないか。真面目や努力はどんな画家でも必須条件であり、また言われなくてもしている。そのため、真面目や努力型という言葉は画家の本質を形容するのにふさわしくない。その反対の表現、すなわち「狂気」がどの程度見られるかが問題で、それを応挙に当てはめると、応挙が狂った時期があったのか、また狂気を感じさせる作品があるのかという疑問に行き着く。そう、応挙が真面目や努力から逸脱している作が見たい。だが応挙はそれが必要となると、真面目に努力して狂おうとするだろう。どこまでも真面目というのが応挙で、この金太郎飴状態が退屈だ。そして、見方を変えればどこか不気味でふてぶてしくもある。それはそうだろう。どんなことがあっても素顔を見せまいとする態度は何か信用の出来ないものを感じさせる。茶目っ気や遊びといったことに応挙は無関心であったのだろうか。若い頃の眼鏡絵の仕事は遊び感覚が必要であったと思うが、そうした一種の玩具絵にも応挙は真面目な態度を貫いている。応挙の名前は銭舜挙に由来していることは以前書いた。その舜挙の作が今回展示された。先の倶胝和尚を描いた絵と同じ部屋で、相国寺伝来の宋元明の絵画が全部で8点並んだ。それらは相国寺の寺宝展でよく巡回展示されるが、今回まとめて見られたことは応挙の作よりもよかった。圧巻は辺文進の「百鳥図」の大幅で、これは1時間ほどじっくり眺めていたいものだ。これほどの大作が同寺に伝わったことはさすがの貫禄で、こうした中国画を規範にして応挙などが登場して来る。寺は文化の大きな担い手になっていたわけで、その同じ態度を同寺は今後も持ち続けるべきだろうが、江戸時代と違って今では公立の美術館、博物館がその役割を担っている。そうであるからこそ、承天閣美術館がまた別の風格を持っていることを認めたい。それは明治以降にどこかから買ったというのではなく、伝来という重さだ。だが、同寺が明治の廃仏棄釈の時期に若冲画を手放したことは有名で、他の寺も同様の運命をたどった。となると、「応挙が学んだ中国絵画」と題しての8点は、売り物にならないほど当時は人気がなかったのかと意地悪く考えてしまうが、実際のところはどうであったのだろう。呂紀の作はあまり出来がよくないように見えるし、日本に舶載された中国絵画は当時の一流の作ばかりではなく、むしろそうしたものが少なかったことはよく知られている。それでもはるばる海の彼方から持って来られたものというありがたさから、応挙を初め、画家たちはみな真剣かつ真面目に咀嚼に努め、そして日本的な味わいを盛ることに進んで行く。本展は中国と京都の画家が比較出来るもので、同じような展覧会は多いが、寺の境内を通り抜けながら到達する美術館であり、自ずと気分は引き締まる。
 今回応挙の障壁画で印象に残ったものは全5面の「山渓樵蘇図」で、広々とした空間に応挙らしい人物や渓流が描かれている。隙間がかなり目立つが、そのことが山間部の清新な空気をよく伝える。応挙にすればさほどの力作でもないだろう。だが手抜きというほどではない。描き込み過ぎないのは、時間が惜しかったからではなく、何もない空間をどう処理するかを考え抜いたからだ。応挙に学んだ呉春はもっと空間を大きく採る絵を、晩年になるほどよく描いた。それはしばしばかなりの手抜きに見えるが、秋成はそれもまた味わいがあると認めているし、実際そうした作はいかにも京都の洒落た部分を表現しているように見える。応挙に学びながら、応挙には真似の出来ない境地に至ったが、空間を大きく採る呉春の絵は真似しやすかったと見え、弟子はみな小粒になった。そのことも秋成は書いている。「山渓樵蘇図」は亀岡という田舎で生まれ育った応挙ならではの作で、応挙が若冲のように街中で生まれ育ったのであれば、画風はかなり違ったものになったと思える。「山渓樵蘇図」や前期展にも出品された二曲一隻の「雪中山水図屏風」は、若冲にはない遥かなる眺望があり、それはたとえば頻繁に旅をした池大雅の山水図にどこか共通する味わいがあって、応挙の大きな心とでもいうものを伝える。呉春にはあまりそういう作はなく、やはり都会育ちのためか。だが、呉春は池田に滞在したから、若冲とは違って京都以外の感覚が入っている。その伝で言えば呉春の最初の師の蕪村は大雅と同じかそれ以上に旅をし、その糧が絵画に表現されている。本展には蕪村の障壁画も展示された。金閣寺方丈に描いたもので、状態はよくないが、中国画や応挙やその弟子筋の作品に混じって蕪村を見るとほっとする。その軽妙な墨の跡を目で追うのは楽しい。応挙はそれを真似しようとは思わなかったし、また出来なかったであろう。一流と目される画家はみな指を一本立てている。それを真似すると、指がちょん切られることを肝に銘ずべし。最後に書いておくと、前期展のチケットは応挙の「牡丹孔雀図」で、それを応挙の弟子であった芦雪が天明二年に模写している。ふたつ折り屏風で、プライス・コレクションに入っているが、芦雪はどういうわけか雄孔雀の背後の雌を省いた。そのため、対角線構図はより強調され、空間が広くなって前述の応挙の風景画の味わいに近くなった。応挙は芦雪に雌を省くように言ったのか、それとも芦雪が勝手に省いたのか。筆者が思うに、芦雪は応挙から何も言われずに雌を省き、親指を立てて顔をほころばせた。応挙は最初に書いた倶胝和尚と武人の対話の図を見ていたはずで、芦雪も知っていたであろう。
●『開館三十周年記念 円山応挙展 ≪後期≫』_d0053294_131519.jpg

by uuuzen | 2014-03-03 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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