堰止めに使う土嚢であることを教えてもらった。
前回の「その13」の3,4枚目に見える黒い大きな袋だ。「その13」を投稿した直後、その袋は、工事が中断していて剥き出しになっている中ノ島の最下流に近い護岸を埋めるための材料かと思った。
だが、そうではないことが24日に天龍寺の友雲庵での会合へ向かう途中でわかった。同行した同じ自治会の住民Fから、「あの黒い袋は川の堰止めに使う」と聞いた。なるほどと思った。というのは、23日に連合会会長が、国土交通省が渡月橋下の堆積土砂を浚渫することをFに伝え、それを筆者が電話で聞いていたからだ。その浚渫については初耳であった。自治連合会の会長にはそういった情報はいち早く伝わって当然だが、それが自治連合会傘下の住民全員に知らさせるとは限らない。そのことが筆者は不満だ。大きな問題がごく一握りの人しか知らされず、気がつけば大がかりな工事が始まっている。それでは地元住民が反対のしようがない。住民は黙って国のやることにしたがうべしで、それに自治連合会の会長や副会長が加担しているとなると、これは洒落にならない。何のための住民代表か。連合会は各自治会に速やかに地域の重要な動きについては報告する義務がある。それが正常に働いているとは言い切れないところがある。去年9月16日の台風18号がもたらした雨は、60年ぶりの大きな量で、わが自治会の旅館など数軒が床上浸水した。その様子が盛んにTVで紹介されたためか、国交省は向こう5年で170億円の予算を桂川流域に投入することを決めた。早速渡月橋や中ノ島、桂川流域が元どおりではなく、もっとすっきりと整備されることになった。だが、そのことも連合会住民はいまだに知らされていない。ある日突然河川敷に流れ着いた流木や、数十年は生え放題であった雑草や樹木がきれいさっぱり刈り取られた。それを見た住民が思ったことは、何か大きな事が起こらない限り動かない国の姿勢だ。毎年清掃していれば済む問題であるのに、数十年放置して、被害があってから慌てる。それはさておき、河川敷のゴミやさらなる枯れ木などの清掃が別の業者によって開始され、それは今も続いているが、数日前からは渡月橋付近の堆積土砂を浚える工事が始まった。今日はその様子を見に出かけた。黒い大きな袋が10個ほど川底に移動させられ、川の流れを変えている。今は渇水期であるので、浚渫にはつごうがよい。最初の2枚は今日撮ったパノラマで、最初の写真ではその黒い土嚢に白ペンキで書かれた数字の2と5の間に大きな管があって、そこから川の水が出ている様子が見える。浚った土砂をどこへ運ぶのか、いずれダンプ・トラックが頻繁にやって来てそれを搬出するだろう。
実は今日も友雲庵で会合があった。前回は非公式なもので、国交省の役人は出席せず、代わりに主に嵯峨地域の代表が集まり、勉強会を兼ねて大学の都市景観についての専門家を招いて、これから起ころうとしている嵐山の工事についてわかりやすく教えてもらった。そのような内容とは知らずに筆者らは出かけた。60年に一度ほどの大量の雨水を川岸から氾濫させることなく、うまく下流に流すには渡月橋や中ノ島をどのように改造すればよいかという話が2年前から国交省と地元の代表たちの間で話し合われている。その最新資料は40ページ弱の報告書で、それを筆者はFから去年9月に見せられた。丸秘文書かと思っていると、ネットで公開されていることを知ったので、早速わが自治会住民にわかりやすくまとめて伝えるべく、2ページの回覧文書を作った。ところが、Fはそれに待ったをかけた。住民に見せる前に、連合会会長、自治会会長に見せ、署名捺印をもらえばよいという意見をFはある人から聞いたのだ。その人は役所に勤めていて、役所を動かせば問題は解決するのであって、それには地元住民にまず知らせるという手間をかけなくてもよく、地域の代表者の署名捺印さえあればいいというのだ。筆者は不満であったが、Fが切り出して筆者が書いた文書なので、Fがいちおう主導している。早速文書を書き変え、連合会会長と自治会会長の署名捺印をもらいに行くと、案の定いい顔をされない。当然だ。署名捺印は責任を持つという意志表示だ。文書を役所に届けて変なことに巻き込まれるかもしれない。そう思われても仕方がない。筆者の考えはこうだ。2年前から主に嵯峨地区の代表者たちが国交省と会合を開いて来て、それが4回になっていて、今日が5回目であった。そういう会合にはわが自治連合会からは誰も参加していない。桂川は嵯峨と嵐山の双方の地区の間を流れているから、当然わが自治会や連合会からも誰か出席して、問題の成り行きを見守り、逐一住民に知らせる義務がある。それが今日を含めて5回の会合の内容が全く知らされていない。ということは、選ばれた人たちと国交省が密談して地域の景観に関係する重要な問題を処理すると思われても仕方がない。40ページ弱の報告書を見ながら筆者がもどかしかったのは、その会合の出席者を誰が決めて何人出ているかだ。それをFに何度も訊ねたが埒が明かない。それで次回の会合は筆者も参加したいとFに伝えていたところ、23日の夜に急に明日会合があると聞かされた。Fと出かけたのはいいが、午後2時からで、またFにその会合を教えた人は不参加であった。それに、前述したように、その日の会合は、勉強会で、国交省と話をするのに知識不足ではどうしようもないところから持たれたものだ。知識不足とは、毎回同じ人が集まるとは限らないからだ。中座する人もあるし、あまり問題に熱心でない人もある。つまり、国交省の言いなりになりやすい。そこで危機感が生まれ、大学の先生に問題点をわかりやすく指摘してもらうことになった。
24日は筆者は午後3時半に来客がある予定で、1時間だけ先生の話を聞くことにした。これがうまく行った。ちょうど先生の話が終わったのが午後3時であった。30に届かないような、まだ学生に見える女性だが、結語から見えたのは、当日参加した誰よりも危機意識が強く、地元住民のこの問題に対する自覚と結束を促す態度だ。彼女の話は「恐るべき」と表現するにふさわしい。あまりに問題が大きく、とても今日だけでは書き切れない。そして、前述した40ページ弱の報告書を筆者が地元住民用にわかりやすくまとめた文書はほとんど役に立たないことを知った。つまり、Fが「待て」をかけたのは結果的によかった。それに、自治連合会会長や自治会会長の署名捺印をもらわなくてよかった。Fが考えていたような簡単な問題ではなく、上流の亀岡や下流の桂地区やもっと下流も巻き込む話で、わが自治連合会や自治会だけが動いてもどうにも出来ないほど複雑でしかも巨大だ。それを3月末までこの「嵐山中ノ島復旧」のシリーズで取り上げて行くつもりでいる。さて、先の話に戻ると、連合会会長が教えてくれた渡月橋下の土砂浚渫は、いつから始まり、どれくらい深く掘り下げるかはわからない。そういう資料が連合会に届いているのかどうかも知らない。まず、これを筆者は知る必要があるが、それはひとまずおいて、渡月橋下を掘り下げると川の断面積が広がり、60年に一度の大雨でも地元は冠水せずに済む。どれほど深く掘ればよいかが、前述の40ページ弱の報告書に書かれている。2.7メートルだ。Fは地元で育ったので、60年前の渡月橋をよく覚えている。大きな橋脚の上から川の中に飛び込んでも頭を打たないほどに底が深かった。それが今はマイナスの深さ、すなわち土砂が数十センチ盛り上がっている。その状態で去年9月の洪水があった。すぐにでも渡月橋下の深さを2.7メートルにすればいいではないかと思うし、住民に知らせる文書にもそのようなことを書いた。だが、問題はそう簡単ではない。それは後日書くとして、渡月橋付近で川の幅は30メートル狭くなっている。そのためにその付近の地域が冠水しやすい。そこで川底の浚渫がまず最初の方法だ。一方、2、7メートルも掘ると橋脚の露出など、景観上好ましくないことも生じるので、1メートル程度に抑え、残りは川幅を広げることで対処出来ないかという案を国交省は提示した。そのことが40ページ弱の報告書に細かく書かれている。
川底を深く掘ると川幅はあまり削らなくて済む。このトレードオフの関係が地元と国交省の間でどう調節出来るかという段階に来ている。川底を1メートル掘ることに留めれば、川幅は30メートルほど広げる必要があり、渡月橋はその分延長することになる。そうなれば嵐山の景観は激変する。先に書いたように、そういう話し合いが国交省との間で過去4回開催され、かなり具体的な工事内容まで計画されていることは地元のほとんどの住民は知らない。国交省にすればネットで公開しているので、秘密裡とは言わない。また、国交省は会合の内容を地元に積極的に報告してくださいなどとは絶対に言わない。そこで、その重要な会合に出席している地元の代表とはいったいどういう連中であるかを、筆者はそのひとりに直接聞くことが出来た。簡単に言えば、桂川に関係していてなおかつ肩書きのあるような人たちだ。「桂川に関係している」とは、たとえば桂川に舟を浮かべて商売をしている人や、桂川から水を引いて農業用水路を管理している人、それに地元の旅館、商店主、そして天龍寺などで、地元代表として当然誰しもおも浮かべる人たちだ。それには筆者は文句はないが、何度も書くように、協議された内容が一切地元住民に報告されないのは納得行かない。その点に関しては、会合に出席している人たちの顔ぶれを教えてくれた人が言うには、「あれよあれよという間に4回も進んでしまい、地元に報告することを忘れてしまった」そうだ。それで、今後は地元にこの問題をもっと知ってもらう何らかの方策を講じるとのことだが、あまり期待出来ないように想像する。この問題は自治連合会に含まれる自治会のうち、わが自治会が一番大きく関係している。そのため、少なくてもわが自治会住民には敏感になってほしく、筆者は機会あるごとにこの問題を話している。今日はこのくらいにしておく。3枚目の写真は渡月橋の上から中ノ島下流を見たもので、去年9月23日に撮った。台風から1週間後だ。4枚目は渡月橋のすぐ近くの中ノ島の護岸際で11月11日の撮影だ。この場所は最初のパノラマ写真の中央下に見える。何年前か知らないが、護岸の一部を掘った後、同じ大きさの石がなかったのか、かなり小振りの石が30個ばかり使われた。それは不格好ではあるが、大きさの違い斑模様として見れば、それはそれでリズムがあって面白い。この護岸の際は、国交省の考えによれば、中ノ島を削ることによって消え去る。それは早ければ数年後かもしれない。