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●「MAIN TITLE FROM “DOCTOR ZHIVAGO”」
れ合う場面がどうであったか思い出せない。映画『ドクトル・ジバグ』は1965年のアメリカ映画で、今はタイにいるはずの友人Fは昔、最も好きな映画と語っていた。筆者は封切りでは見ずに、そのFの言葉を覚えつつ、映画館での上映を何年も待った。



●「MAIN TITLE FROM “DOCTOR ZHIVAGO”」_d0053294_1301112.jpgたぶん家内と見たと思うが、それがいつのことかわからない。70年代半ばか80年に近い頃であったか。途中休憩を挟んで3時間の作品で、強く印象に残る場面がいくつかあった。特に覚えているのは医師のジバゴがロシア革命を経てソ連になった時代、どこかの大きな街で市電かバスに乗っている時、窓の外に何年も探していたララを見つけてからだ。ジバゴは心臓を病んでいたのか、慌てて市電を降りたはいいが、ララはジバゴは気づかすに去り、ジバゴは路上に倒れて息絶える。次に印象的なのが、ジバゴとララとの間に出来た子どもが10代半ばのかわいい娘に成長し、ダムでジバゴの兄と出会い、兄はバラライカの演奏が上手なその娘を見て、『血は争えない』と思い、ララの子であることに納得する場面だ。もうひとつつけ加えておくと、ララの夫であったか、若い男が革命に身を投じ、人が変わって行くところだ。彼が機関車に乗り、眼鏡の片方が光って白くなっている場面を覚えているが、ララとの愛よりも権力を取ったという設定だ。先日書いたプロレタリアの絵画や文学と同時代の話で、貧しい人たちのために正義感の強い若者が革命のために立ち上がったというのはわかる。この映画はまだソ連があった時代の製作で、しかも欧米を市場にしているから、若き革命家を否定的に描いているところがあると言ってよいが、原作のパステルナークの小説ではそこはどうなっているのだろう。たぶん映画と同じで、革命によって権力を獲得して行くことの虚しさを描いているだろう。共産主義でも身分の上下はあって、支配する者とされる者がある。パステルナークはそのことを見通していて、それで当時は評価されなかったのかもしれない。ソ連にすればこの映画は苦々しいもので、資本主義社会がいいように解釈して描いていると思ったのではないか。そういった情報はその気になればこの映画が封切られた当時でも得られたかもしれないが、今ではどうなのだろう。ロシアが舞台になっているのに、同地でのロケは出来ず、また俳優たちはみな英語を話しているから、当時からそれなりの違和感があったが、原作がロシア人作家ということがわかっているので、その違和感をかみ殺して見た。それに、景色や服装など、極力ロシアに見えるように工夫されていたので、筆者の記憶の中ではほとんどロシア映画に思えている。
 ただし、見た感想は、感動はしたが、生涯見た映画で最高とまでは思わなかった。それは今でもそうだ。Fが感動したのは、たぶんにヒロインのララを演じたジュリー・クリスティーの野生的な美しさだろう。ロシアにも彼女のような顔をした女性はいると思うが、この映画での彼女の後ろをアップしたヘア・スタイルは何となく60年代風に思えた。今日掲げるコンパクト・レコードのジャケットではジバゴの顔ははっきり見えているのに、ララは口元を隠していて、こんな写真しか使えなかったのかと文句を言いたくなる。それはともかく、ジバゴの妻とは全く違うタイプの女性で、ジバゴが熱を上げたのもうなづける。ジバゴには貞淑な妻がいたのに、それを捨ててのララとの逃避行で、野戦病院での医師と看護婦という関係ではそういうことも起こりやすかったであろう。ふたりの愛は成就せず、ジバゴが路上で息絶えた時、ララは粗末な身なりで透視遠近法が極端に効かされた街角の向こうに後ろ姿のまま消えて行く。そのことでララの末路も暗示されている。その点も原作ではどうであるかが気になる。ララが若い男と腕を組んで歩いているところをジバゴが目撃するということでもよかったはずで、むしろその方がジバゴの哀れさが際立つが、ララが愉快に過ごしているという結末ではソ連は夢溢れる国にとって、西欧諸国としてはそう描きたくはなかったであろう。ともかく、何年も探し回っていたララを、最期に少しでも見られたジバゴは幸運だ。野垂れ死にと言ってよいが、男はみんなそうだ。ララはジバゴがいなくても娘がいた。女はそれでひとまず満足出来るのではないだろうか。この大作をもう一度見ようかと10日くらい前に思った。中古ならば2枚組のDVDが1000円未満で買える。だが、たぶんこれからも買わないと思う。映画館で一度だけ見た時より大きな感動はないに違いない。家庭でいくら大きく画面を引き伸ばして見ても、映画館のスクリーンとは感動の質が違う。
●「MAIN TITLE FROM “DOCTOR ZHIVAGO”」_d0053294_1291648.jpg

 先日ヤフーで邦画の『失楽園』が無料で見られた。これは10年ほど前か、映画館で家内と見た。セックス場面でよく覚えているところが1か所あって、それを確認したく、パソコンで最初から最後まで見るともなく見た。すると、その目指す場面はなかった。DVDは封切り版とは違っているのだろう。筆者が覚えているその1か所は、0.3秒ほどの長さであったか、死ぬことになるふたりの最後の性交場面にはふさわしくない笑みを男優が浮かべるところだ。それは役から外れた態度ということでカットされたのだろう。その映画の中で最もよく覚えているのは、主人公の男性の同僚が激しい恋をしたいと洩らす場面だ。仕事に追われ続けた生活で、思い返せば一度も激しい恋などしたことがなかったという無念さの吐露だ。そういうことを思う中年サラリーマンが多いのか少ないのか知らない。筆者はそんなことを考えたことがないが、それはその映画の主人公の男性も同じで、目下不倫の大恋愛中で、同僚が羨む日々を過ごしている。ところが妻が気づき、離婚、そして不倫相手とは心中を選ぶ。同じ不倫映画でも、『ドクトル・ジバゴ』は身分社会が崩れ去る激動の時代だ。しかもジバゴの妻は貴族の娘らしく、夫の行動を知ってもじたばたしない。それは夫に対してもう冷めているからではなく、日本で言えば武士の妻で、いつどうなってもその状況を受け入れる用意があるという肝の据わり方だ。ではジバゴは全く自分勝手で、ただの女好きかということになるが、今ならそう見る人が圧倒的に多いだろう。パステルナークの分厚い原作小説を、5,6年前によく行った古本屋で100円で見かけた。長らく売れなかった。買ってもよかったが、読む気がしなかった。映画とはかなり内容が違うであろうし、映画のような感動はもたらしてくれないと思ったからだ。今日少しネットで調べると、小説ではジバゴは愛人の子として育ったという設定だ。それで良家の娘と結婚しながら、恵まれないララに恋をしたことに納得が行く。一夫一妻性が守られるべき社会であっても、男女の関係は複雑で、簡単に割り切れない場合がある。であるから小説も書かれるが、先の『失楽園』で激しい恋をしたいと言ったサラリーマンは、一夫一妻性のごく平凡な家庭で育ったのだろう。その平凡さはまともで、それが崩れると社会がおかしなことになるが、まともなサラリーマンが不倫をしたがるところに、人間のどうしようもない本能が現われている。それは赤い赤い血の騒ぎだ。はははは、今日はソ連の赤、男女間の情熱の赤で、ここ数日書いている赤にまつわることにつながっている。それはどうでもいいが、Fがこの映画を絶賛したのは、熱烈な恋愛をおぼろげに希求する若さのなせるわざで、また男は恋の成就の果てに野垂れ死にするという動物的現実のためもあったろう。昨夜のTVで、どこかの清流で鮭が産卵する様子を見た。産卵の時を知っている雌雄は、そのことにすべての時間を捧げる。人間も同じと思えばよい。そして男はあちこち女を求めてふらつく。
 「ララのテーマ」と題する映画音楽が60年代半ば以降に大いに有名になって、今の若者でも一度は聴いたことがあるだろう。確かにいいメロディだが、映画を見て驚いたのは、もっと別のメロディがあったことだ。そこで中古レコード店でシングル盤を探し、4曲入りのコンパクト盤を買った。シングル盤もあったかもしれないが、B面が筆者の聴きたい曲ではなかったのかもしれない。ともかく、4曲入りのA面2曲目「メイン・タイトル」が、映画で何度か聴いた目的のメロディを含んでいた。全体で2分40秒ほどと短い。これは当時のシングル盤の長さで、それを意図してこのような長さにしたのだろう。中間部に「ララのテーマ」を含むが、それ以外の前後のパートは物悲しさと健気さを感じさせる民謡的なメロディだ。映画では最初や中間の休憩時、そして最後など、何度かその旋律が流れた。もちろん、ラジオでかかる「ララのテーマ」にはそれがなく、「ララのテーマ」だけ聴き知っていると、映画を見た時に驚く。映画にはむしろ「メイン・タイトル」の最初と最後に奏でられるメロディが実によく似合っていて、いかにも大河ドラマに浸っている気分にさせる。このメロディを作曲家のモーリス・ジャールはどうして思いついたのだろう。何かヒントになった原曲のようなものがあるのではないか。ロシア民謡か、ロシアの作曲家の作品から学び取ったものか。日本の戦後すぐくらいの映画に使われてもいいような雰囲気で、日本の音楽も参考にしたと思える。「ララのテーマ」よりかは覚えにくく、また暗くて古風な感じはいかにも60年代的で、そのため「ララのテーマ」よりかは印象に残らず、またヒットもしなかった。筆者としてもすぐには思い出せず、レコードを聴くと、『そうそうこれこれ』と納得し、映画を思い出して泣き出しそうになる。それほどに感動的で、映画にはぴったりしている。この映画は革命に背を向けて女への愛に走った医師の物語で、ソ連時代にパステルナークは評価されなかった。『戦争と平和』など、ソ連は超大作映画を60年代に作ったが、今のロシアがこの小説を映画化すればどうなるのかという楽しみがある。その場合、モーリス・ジャールの作曲以上に感動的でいつまでも人に記憶されるような作品が書かれ得るかという興味あるいは心配がある。原作はどうか知らないが、ララはバラライカの名手であるらしく、その楽器がこの映画音楽にも目立って使用された。レコード・ジャケット裏面の解説から引用しておく。「録音はジャール自ら、110人編成のシンフォニー・オーケストラを指揮、さらに24人のバラライカ楽団をはじめ、日本の筝、三味線、オルガン、チェレスタ、電気ピアノ、ツィターを使用し、6チャンネル・ステレオで録音されたこの音楽は、まさに映画音楽史上に残る、名作、名演といえましょう。」 こういう感動巨編の映画は60年代は多かった。それらを映画館で味わった筆者は幸運であった。それにしても、ジバゴとララはお互い一目惚れであったのだろうか。そのことを確認するためにDVDを買おうか。
by uuuzen | 2013-12-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
●『ルドゥーテのバラ図譜展』、... >> << ●『フェルメール 光の王国展』

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