礫という文字は直径2ミリ以上の砕屑物を指すことを今調べて知った。もっと大きいものを思っていた。直径2ミリなら砂ではないか。せめて直径25ミリ以上としてほしい。
今日はホームセンターに自転車で行った。その自転車置き場の横に、その礫が3種ほど売られていた。防犯用品だ。それを庭に撒いておくと、踏めば音がする。最も大きな音がする粒の大きさと、元の石がいろいろと調べられているのだろう。そうして商品化されている。法輪寺の本堂前の境内はそういった礫が敷き詰められていて、誰もいない時に配り物を持参する時はその踏み音がとても大きく響いて、声を出さずとも奥では聞こえているのだろうなと思う。そして、正直なところあまりいい気がしない。とはいえ、わが家も裏庭に敷き詰めたい思いがないでもない。この音の鳴る礫は中ノ島公園にびっしりと撒かれている。それが先月の台風18号で全部流されてしまったので、突貫工事で新しいものが持って来られた。新しいので汚れがなく、以前よりかなり白っぽい。これが数年も経てば、礫の角が取れて音も小さくなるのではないだろうか。音が鳴るのは礫同士の摩擦で、そのたびに超極小の砂が生まれている。さて、今月末まで渡月橋や小橋の現況調査が行なわれるとのチラシが持参されたので、早速今日はそれを確認するためもあってホームセンターに行くことにした。それは丸太町通り沿いにあって、自転車で10数分だ。途中で渡月橋をわたるし、天龍寺の前も通る。昼間は大勢の観光客がいて、それに混じっていると、自分も観光している気分になれる。そうそう、帰りは渡月橋のたもとで高校生の男女が学級の集合写真を撮っているところに遭遇した。ベージュ色のブレザー姿で、関東から来たのだろうか。その様子を見た瞬間、遠い昔を思い出した。その場所の真向かいはお土産屋で、バス停がある。そこでバスを待ったことだ。40数年前のことで、家内と一緒だったと思うが、それはほとんど覚えていない。ただ、眼前に桂川が流れていて、観光客も大勢いたことだけを思い出す。別にどおってことのない記憶だが、その記憶と今日の同じ場所の光景があまりにそっくりで、時間が戻ったように錯覚した。40数年は18歳で殺される女子高生の命の倍以上なのに、過ぎてみるとそんなに長くは感じない。ほとんど一瞬で過ぎた気がするほどだ。人生とは何か、記憶とは何かと、自転車を走らせながら思った。40数年前、筆者は嵐山に住むことを夢にも思わなかった。それが今では自治会長までして地元に溶け込んでいる。
さて、これを書き始めた時はほっとした。今夜は10時から2時間もかかってパソコンのプリンターを動かした。先日からパソコンの調子がおかしく、それが一昨日直ったことは書いた。もうひとつ調子がおかしくなったのはプリンターで、インク切れでもなし、配線も正常なのに、うんともすんとも動かない。精密機器なので、こうなればお手上げだ。同じプリンターを2台持っているので、交換しても駄目、1時間ほど経った頃、たぶん血圧は200くらいに上がっていたろう。今夜中にどうにか印刷したいものがあった。あらゆることを試し、何度もパソコンを再起動し、ついにパソコンが自動的にドライヴァーをインストールするという表示をし、その後動くようになった。どういう理由かわからないが、ドライヴァーが壊れていたのかもしれない。動くようになったのは日づけが変わってからで、それで急いでこれを書き始めている。もちろん血圧も正常に戻ったと思うが、ストレスはこのようなことでも高くなる。相手が人間であればもっとで、鬱になる人が多いのもわかる気がする。それに、パソコン・ライフは案外ストレスを多く抱える。これは以前に書いたと思うが、柳沢淇園の書とされながら、実際はそうではない『雲萍雑志』にこんな話がある。時計がほしいという夫の考えに妻が反対するのだが、それは時間を気にすることになるからだ。時刻を知るには便利な道具だが、別の見方をすれば時間に振り回される。つまり、ストレスを抱える。そんなことではつまらないではないかという妻の忠告で、それに夫は納得する。一昨日は自治会内のとあるマンションで、毎年恒例の防災訓練があった。消防署員がこんな質問をした。「この中で携帯電話を持っておられない方、手を上げてください」 最前列に座っていたので後方はわからないが、筆者のみであったに違いない。台風18号が当夜、携帯電話に警報電話が何度も鳴ったらしい。筆者も家内も所有しないので、そのことがわからない。これは、いざとなれば情報不足で取り残され、被害を受ける可能性がある。筆者も家内も時代遅れで、携帯電話の便利な機能の恩恵を蒙っていない。それは携帯電話を持つ人からすれば憐れな姿だろう。だが、必要がないものは持たない。それを以前通っていた床屋の主人に言うと、反論していた。時代に合わせて持つべきものは持つというのがその人の考えだ。そういう生き方を否定しないが、ならばその人も筆者の生き方を否定すべきではないだろう。何が重要でそうでないかは全く個人の勝手であり、筆者は携帯電話でいつでもどこでも誰かから電話をかけてもらうことを許したくはない。筆者は1日の大半を家の中で過ごし、家の中には親子電話が3台ある。それで充分ではないか。その電話でさえも、かかって来る大半はどうでもいいものだ。電話がなくても生活出来る。災害の際に命を助ける道具になり得るとなれば、やはり持っていた方がいいのだろうが、『雲萍雑志』の先の話ではないが、あればあったでよけいなストレスを抱えることもあるはずで、筆者はなるべくそういうことを避けていたい。FACEBOOKも誘われたことがあるが、これは参加するつもりがない。他者とのつながりは出来れば実際に会った人に限りたい。
さて、渡月橋を北へ100メートルほどのところに美空ひばり館が以前あった。その名称が「館」から「座」になって10年ほど経つだろうか。めっきり客が減っていたはずで、今日は閉館の貼り紙を見た。建物を壊すのはまだもったいないので、そのまま利用してどういう施設がいいだろう。レストランにすれば大き過ぎるし、ホテルにはなりにくい構造だろう。展示場として使うのが一番だが、美術館にするにしてもどういう内容が似合うかだ。それに、美術館は儲からない。美空ひばりの知名度は年々低下して行く。新しい世代は新しい歌手を好きになるのがあたりまえで、嵐山に観光でやって来る人たちは圧倒的に若い世代だ。かくて美空ひばりの顔も曲も馴染みがない人がやがてほとんどという時代が来る。そう思うと、天龍寺といった寺はいつまでも新しい。ついでに渡月橋もだ。その周辺のあらゆる店などが新陳代謝を繰り返して行っても、変わらないままで残るものがあるのは何だか気分がよい。フィレンツェはいつ行っても昔のままの姿を見ることが出来ると言われる。京都もそんなところが多いのかどうか、なるべく自然は壊さないのがよいし、古いものは残す方がよい。先ほど40数年前のことを思い出したと書いたが、それはバス停の位置、人の多さ、嵐山や渡月橋が昔と変わらないからだ。変わったのは自分で、年齢が増えた。それは仕方ないし、またいいことではないか。店が新たに出来ては潰れて行くことも、見方によっては新鮮でよい。美空ひばりの人気は今後かなり下がっても、それなりに記憶されて行くし、遺品を展示する施設はまたどこかに出来る。嵐山にあったのがかえって不自然で、もっとふさわしい場所があるだろう。そう言えば、6,7年前だろうか、渡月橋北詰めを西に100メートルほどに建っていた「ホテル嵐山」がなくなって更地になった。そこに美術館が建つという噂を聞いた。資金繰りがおかしくなって頓挫したそうで、いまだに更地のままだ。建物がないのですっきりとしていいが、なければないでどこかさびしい。筆者は美術館がいいが、どういう作品を展示するかだ。これがつまらないものならば、嵐山の名を落とす。何でも商売であり、たくさんお人が入って台所が成り立つ。それで美術館は誰もが知っている画家の作品を見せることに意が注がれる。そんな画家はたくさんいるが、ほとんど未公開のまとまったコレクションがあるとは思えない。そこで公のコレクションを借りて来て展示する方法がある。京都市や大阪市から所蔵品を借りてもいいではないか。そんな発想がなぜ出来ないのだろう。
今日の写真の説明をしておく。ホームセンターからの帰り、渡月橋下流150メートルほどのところで自転車を停め、今日の最初の写真を撮った。たまには右京区側から眺めるのもいい。撮った位置は、冨田渓仙の家のすぐ近くで、冨田が家の前から見ていた光景と思ってよい。流れの向こう側、台風18号で被害を受けた河岸が見える。黒っぽく写っている部分だ。そこは大きな石を金網でくるんだ「蛇籠」状のものをたくさん敷き詰めただけの状態だ。立ち入り禁止となっているので、いずれコンクリートで隙間などを埋めるのだろう。2枚目のパノラマで、中ノ島公園に立った。あちこち作業員がいて、細部の修理やその吟味だ。左手のトラックは岸辺にベンチを新たに設置するためのものだ。ベンチはもっと最下流のトイレの前で3つほど土台が残ったままになっている。渡月橋に近いところにさてベンチがあったのかどうか記憶にない。この付近は屋台が2,3営業していたが、一作年あたりからそれが厳しく取り締まられ、姿を消した。ただし、五山の送り火といった賑わいの日には特別に許可が出るようだ。それらの屋台を常住させないために、新たにベンチを設けるのではないかと今日は思ったが、以前からあったものが洪水で流された可能性もある。だが、それでは4枚目の写真が解せない。真新しい礫を取り除いて、基礎を造り、そこにベンチを据えるようだ。写真に見えるコンクリートのブロックまで洪水で流されたと考えることも出来るが、たぶんそれはない。下流ではしっかり残っているからだ。3枚目はブロックを埋め込む前、最後の写真はすでにそれが埋め込まれている。またこの最後の写真には、渡月橋の下に黒い小さな人影が見えているが、実際はふたりで、図面片手にしきりに橋のあちこちを眺めていた。渡月橋の被害状況の調査だ。写真左端に見える自転車は筆者のもので、こういう場所まで乗り入れたのは初めてだ。中ノ島公園はいつの間にか石畳の箇所が増え、渡月橋からわが家まで、土を見ずに行くことが出来る。それは喜ぶべきことなのかどうか。雨天に足元が汚れなくて済むが、それだけのことだ。この都会化はここ10年ほどのことで、わが自治会に大きなマンションが建ったことに通じている。渡月橋から見る嵐山だけ残し、そのほかは時代の流れに任せるということなのだろう。その変化のわずかな期間を筆者はこのブログで披瀝している。それが一粒での砂ではなく、せめて一個の礫程度であってほしいが。