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●『神父授業(恋する神父)』
この映画は今年の夏、新聞広告に何度か大きく載った。従姉から借りた録画テープの中の1本にこれがあった。タイトルは『神父授業』で、おやっと思ったが、内容は『恋する神父』と同じことがわかった。



●『神父授業(恋する神父)』_d0053294_1504254.jpg1週間ほど前にざっと観たが、気になってもう一度昨日観た。いろいろと興味深い点がある。韓国のキリスト教事情を知らないとこの映画の本当の面白さはわからないだろう。その意味で日本にはないタイプの作品で、また誤解もされやすい。さきほどブログであれこれと調べると、この映画の結末の捉え方が筆者とは正反対で驚いた。クォン・サンウ演ずる主人公の神学生ギュシュクが最後に恋を取るか神を取るかだが、どう考えてもこれは神を取ることで物語が終わっていると思う。ところが、筆者が調べた限り、ほぼ全員がこの映画は神学生になることを諦めて恋を取るという受け止め方をしている。映画が曖昧な描き方をしているのでどっちとも取れるが、神学生が恋を取って神父の夢を絶ち、神に感謝しながら生きて行くという話ではさっぱり面白くない。ラヴ・コメディとされているが、軽い内容の映画ではなく、恋に苦しむ、そして肉欲を断ち切る若い男の苦しみが背後の大きなテーマとなっている。そういう深刻な内容であるからこそ監督はさらりとコメディ・タッチにした。昔なら純文学作品の映画化のように、もっと別の描き方をしたはずだが、それでは時代に合わず、ギュシュクの苦しみはかえって理解されにくい。明るく、そして軽く描くことで、逆にギュシュクの凄まじいはずの心の葛藤が暗示される。この映画の面白味はその暗示の描き方にある。したがって画面に見えているものだけで判断すれば誤りをおかす。カットの次の瞬間に登場人物たちがどう発言し、どう行動しているかを読み取る必要がある。そこがTVドラマとは大いに違っているところで、省略が効き過ぎているために、考えることの苦手な人はさっぱり面白くない作品になる。「言わぬが花」という言葉があるが、正にこの映画にはそれが多く、仄めかしの美がわからない人には理解出来ない。実によく出来た映画で、笑っておしまいでは済まず、韓国の宗教事情、さらには韓国人の今を知るうえで必見の作品と言ってよい。次にあら筋を書く。
 神学生のギュシュクとソンダルは、失態を仕出かしたために田舎の教会での1か月の霊性教化訓練を命ぜられる。この教会に赴いたふたりの前にアメリカ帰りの若いお転婆な娘ボンヒが現われる。教会の神父の姪だ。帰国したのは結婚しようと考えている男がいるためだが、すぐに振られてしまう。教会は保育園を経営しており、子どもたちがはしゃぎ回る1か月の教会での生活の中で、ギュシュクは徐々にボンヒに魅せられて行く。そしてついに1か月が終わる頃、ボンヒはよりを戻した男と一緒にアメリカに旅立とうとする。それを言う直前、ボンスはギュシュクの心を察して、自分のことが好きではないのかと問うと、ギュシュクはボンスがアメリカに行って結婚することに対して祝福の言葉を言う。そしていよいよギュシュクとソンダルが神父になる儀式を大聖堂で受けることになって田舎の教会を出るが、その前にギュシュクはボンスにそっと自分の愛を告白するためにペンダントをわたす。それは中を開けばボンスだけが理由を知るような仕組みがしてある。言葉では直接言わず、そしてもう結婚でアメリカに行ってしまって二度と会えない彼女に、最後にそのようにして愛を伝えるギュシュクだが、神父になる直前でもあり、罪を冒した意識にさいなまれる。そのことをソンダルに言うと、それは罪ではなく愛で、神も誇りに思うはずだと慰める。ここから荘厳な神父になる儀式の場面が続くが、これはなかなか見物だ。そして司教が「キリストに献身する証として主や人々に奉仕するため、独身制を守りますか」と神学生ひとりひとりに言葉を発して行く。ソンダルはすぐに返事をするが、ギュシュクは涙を流して返事をしない。同じ質問を二度されても返事をしない。ここが曖昧な受けとめ方をさせる重大な場面だが、ギュシュクはボンスが渡米したと思っているわけで、結局「はい」と答えたはずなのだ。涙を流して黙るギュシュクから場面が切り変わり、空港のボンスと結婚相手が映る。男は飛行機のチケットをボンスに手わたし、自分のプロポーズは受けないのかと訊ねる。ボンスはこれには答えず、ひとりで残って先ほどギュシュクから手わたされたペンダントを開く。そしてギュシュクの愛を知る。急いで大聖堂に行くと、すでに儀式は終わっていた。それで田舎の教会に着くと、そこに普段着のギュシュクがうなだれて座っている。アメリカにいったはずのボンスに驚くギュシュクだが、神学生が着る服はとにかく不便で、ボンスに近づく足枷にもなっていると言う。ボンスは近寄ってギュシュクを抱擁する。場面が変わり、ソウルの街を見下ろす高台にふたりはいる。ギュシュクは胸に神学生の衣服を抱えている。そしてボンスに「もう少し待てないのか」と言う。この言葉をどう解釈するかだが、筆者はそのままアメリカに発とうとしているボンスをもう少し一緒にいようと引き止めている言葉だと解釈する。ふたりは神に語る言葉があると言い、ギュシュクは「どこにいてもどんな姿でも、変らず君を愛します。デオ・グラシアス」と唱える。ここで映画は終わる。この最後の言葉も曖昧だ。訳し方にも問題がある。ボンスと一緒になって、「どこにいてもどんな姿でも、変らずあなた(神)を愛します。デオ・グラシアス」と受け取ることも出来るからだ。そうなると、映画の結末は正反対なものになる。だが、筆者は後者とは考えない。
 結婚が許されないカトリックだが、ひとりの女性をずっと心に秘めて愛し続けることまでは否定していない。愛の形にもいろいろあって、今の若者ならばつい肉欲に走ってしまうのが当然と考える向きもあるが、そんな見方ではこの映画の味はわからない。ギュシュクはボンスに恋をしたが、彼女がどこにいてもずっと愛し続けると神に告白するのは、肉欲を断ち切った思いからであり、それだけ純粋に、大切に愛をずっと育んで行くということだ。そういう決心をしたおかげでギュシュクは本当に人の心がわかる神父になれるという暗示は美しい。誰でも純粋な気持ちで思いを宿す人物はある。手すら握ったことはなく、たった一度しか顔を見たことがなかったとしても、その人のことをずっと死ぬまで思うことが出来るのが人間だ。そんな人物を嘲笑する人がきっとあるが、それはそれだ。だが、そんな人が思うほど人間の世界は単純ではないし、特に宗教に身を捧げようとする人物においては、凡人が考えられないほどの固い決心はある。蛇足かもしれないが、ここで先日書いた聖衆来迎寺を創建した源信の母親とのエピソードを引用しておく。『今昔物語集』の「源信僧都母尼往生語第三十九」からだ。『今は昔、横川の源信僧都は大和国葛下郡の人である。幼いころ、比叡山に登り学問をしてりっぱな学僧となったので、三条大后宮主催の法華八講に召された。この八講が終って後、ご下賜になった数々の献上物を少し取り分けて、大和国にいる母のもとに、「これは后合様の御八講に伺っていただいたお品です。初めていただいたものですから、まずお目にかける次第です」といって送ったところ、母の返事に、「お送りくださった品々は喜んでちょうだいいたしました。このようなりっぱな学僧におなりになったことは、この上なくお喜び申します。しかし、このように、御八講などあちこち伺ったりなさるのは、そなたを法師にしてさし上げたわたしの本意ではありません。そなたは光栄に思っておいででしょうが、このばばの気持ちには反したものです。ばばが思っていたことは、わたしには女の子はたくさんいるが、男の子はそなた一人だ。それを元服もさせず比叡山に上らせた以上、学問をしてりっぱな才知を身につけ、多武の峰の聖人のように尊くなって、ばばの後世を助けてもらいたいと思っていたのです。ところが、このような名僧になってはなやかにあちこちと顔を出されのは、期待に反したことです。わたしも年老いたし、生きているうちにそなたが聖人におなりになるのをこの目で見てから、安心して死にたいものだと思っていたのです」と書いてあった。僧都はこの手紙を見て涙を流し、泣く泣くすぐにまたこの返事を書いた。「源信は絶対に名僧になろうなどという気持ちはなく、ただ、母尼君の生きておいでになる時、このように高貴な宮様たちの御八講にも参上したしましたということをお聞かせ申そうと思う一念で、取り急ぎお知らせしただけですが、今このような仰せを承り、わたしとしてはまことに肝に銘じ、ありがたくうれしく思い申し上げます。それで、仰せに従いこれから山籠りを始めて、聖人になったなあ、もう会ってやろう、とおっしゃる時にお訪ねいたしましょう。そうでない限りは決して比叡山から出ることはいたしません。それにしても母とは申せ、なんとりっぱなお導き手でいらっしゃることでしょう」と書き送った。その返事に、「やっと安堵の思いをいたしました。これで安心して冥途にまいれます。返すがえすうれしいことに存じます。決して修行をなおざりにしてはなりません」とあった。僧都はこれを見て、二度の母の返事を法文の中に巻き込めておき、ときどき取り出して見ては泣いていた。…』(淡交社刊 古寺巡礼 近江1「聖衆来迎寺」より)
 ボンスは天真爛漫な女性として描かれている。ハ・ジオンは適役だ。だが、実際問題として考えると、ギュシュクには毒のある存在で、妖婦と言ってよい。キリスト教絵画には聖シントワーヌの誘拐を題材にしたものがある。それは聖人にまとわりつく妖怪を描いたもので、聖人は誘惑に負けないようにひたすら祈っている。ちょうどそれを思い出した。それで結局この映画が、ボンスの魅力に屈することなく、愛は愛として伝えてそのまま神父になるギュシュクであると察知出来る。ボンスの女としての魅力はしつこいほど仄めかされている。そんな若い女性を前にして誘惑の心に負けないでいるためには、男はなかなか辛いものだが、このあたりまえの、人間として誰しもある欲望を、カトリック信者としてどう対処するか、その最初からわかっている答えをどうスマートに映画に描くか、そこにこの映画の見所のすべてがある。神父の道を捨てて女に走るという物語ならば、わざわざこんな映画を撮ることはしないだろう。また、破戒の物語であれば、コミカルに描写しては冒涜的になる。映画でも描かれていたように、神父になる直前の神学生が大聖堂に到着した時、あたりには1000人を越えるほどの人々の渦だ。この聖堂は水原にある勧善洞聖堂とのことだが、ソウルの明洞だけではなく、地方にもこうした立派な聖堂があることに今さら韓国のカトリックの重きを知るが、まるで有名大学の試験に合格した者を祝うかのように、大勢の人々が自分の知る神学生が晴れて神父になる日に集まって来ているのだ。この状況を知らないとこの映画を見誤る。つまり、それだけ周りから期待されて勉強を続けて来た神学生たちなのだ。それが最後の最後で神父の夢を諦めて女に走るだろうか。それはあり得ない。第一、ギュシュクはそんな精神軟弱な男としては描かれていない。葛藤を越え、そしてボンスへの愛は愛として心に秘め、彼女を生涯心の中で見守るという大きな愛を得て、前以上に神父になることを誓うのだ。そしてそういうギュシュクを黙って見守るボンスはボンスで、また成長して元の生活に戻って行くことが暗示される。ボンスは案外、源信の母のような思いに至ったのかもしれない。きっとそうだろう。肉体が結ばれなくても、そういう男女の関係はあるだろう。むしろ、その方が永遠の愛の形と言えるかもしれない。成就されないものがある限り、夢想はずっと続き、愛は凍りついたように同じ形のままとどまる。それは神父にとって欺瞞か。そうではない。神父とて人間であり、人間の中に生きて、彼らの悩みを聞き、そして時には彼らを癒す役割をする者であるので、人間的にむしろ大きく悩んだ方が包容力のある神父になると言える。人間のさまざまな感情がわからなくて、どうして人々を導くことが出来るだろう。その意味でギュシュクの前に突如現われたボンスは、神からの使いであったとみなすことが出来る。その試練を乗り越えさせるべく、ギュシュクに対してつかわした存在なのだ。それをギュシュクは見事に受け止め、そして神が望む方向で通過した。映画の最後に至ってキリスト教における法悦をよく表現し得ている。単なるラヴ・コメディではなく、これは精神の勝利を謳う実に清く美しい内容の映画だ。それゆえ『恋する神父』という邦題は全く陳腐であり、『神父授業』こそがこの映画の本質をより言い当てている。授業は受けて合格点を得る必要があるものだ。ギュシュクは誰よりもそれに合格したのだ。
 ボンスが水着を着て教会のそばの芝生で寝そべっているシーンがある。それを聖堂の修理工のふたりが高台からいい眺めとばかりに見つめているが、ギュシュクは神の前であられもない格好をするなと干したシーツでボンスを隠す。修理工はセリフもなく、全くのチョイ役だが、ひとりはあのチョ・ジェヒョンであることがすぐにわかった。いかにも彼らしいひょうきんな役だが、ほんのわずかな出演であるのが惜しい。細部がなかなか凝った作品だ。ボンスの若い肉体を神の恩寵と言う場面があるが、妖婦であるか神の恩寵かは、男の対し方次第であり、ギュシュクの妄想を察する鑑賞者としては、男と女とでは受け止め方も異なるし、また世代によっても、性質によっても違う。そのため、この映画はさまざまな受けとめられ方をするに違いないが、監督がカトリック信者であることを考えると、自ずとこの映画の正しい受けとめ方はあるだろう。途中でミュージカル風に教会の中で登場人物たちがゴスペルを歌い踊るシーンがある。これはよけいな場面と言えるが、コメディを装うためには必要なサービスとみなされた。何しろよりたくさんの若者に観てもらって興行的な成功を収める必要がある。それは案外カトリックの世界も同じで、そうした世知辛い経済事情はこの映画でも随所に描かれていた。カトリックの世界を描きながら、そのような卑近な日常生活のさまざまな描写がかえって現実味をよく伝えて好感が持てる。これは日本の仏教でも同じことだ。この映画の中で田舎の人々が神父に、「寺に鞍変えするぞ」とか言う場面がある。信仰世界での競争がなかなか厳しいことを伝えているが、人々にすればキリスト教でも仏教でも、自分たちの生活により役立ってくれる方がいいのであって、ドライな人々と言えばそうなのだが、実際こうなのだろうなと思わせる。そしてその方が生活の中ですっかり溶け込んでいるキリスト教を浮き彫りにする。宗教はそれが理想なのだ。葬式専門となってしまったような日本の仏教とはそこが大きく違う。日本とは桁違いにキリスト教徒の多い韓国であり、そんな事情をある程度知って観ればもっと面白い作品だが、残念ながら、人気俳優の話題にのみ終始して、肝心な見所は押さえられていない気がする。
 この映画の監督ホ・インムは熱心なカトリック信者とのことだ。この映画を作るに当たって1年もの間、何十人もの神学生から話を聞き取った。またクォン・サンウとソンダル役の男優は役に徹するために、この映画の撮影でも使用された大邱の洛山聖堂で寮生活をし、朝5時から夜11時まで掃除や食器洗いをしたとのことだが、映画の撮影が終わった後、クォン・サンウは洗礼を受け、フランシスコという洗礼名を授かった。アフリカの飢餓に対して寄付するなど、すっかりカトリック信者になったが、それはみなこの映画との出会いがあったからだ。そしてもしこの映画が、恋に悩む神学生が神父の道を諦めて結婚するという結末とするならば、クォン・サンウは信者になることもなかったように思う。確かに神父になる直前の学生が自己欺瞞を悔悟し、それで神父の夢を捨て、なおかつ神を常に思って生きるということはあるかもしれないが、神父を目指す者は神父、俳優を目指す者は俳優として生きながら、なおかつ神の加護に感謝するというのがこの映画の言いたいところで、であるからこそ、クォン・サンウも洗礼を受けた。監督も、恋の試練を越えての神父になる若者の物語を描くことで、カトリックへの理解が深まり、そして出来れば信者も増えればよいと思うのが本心であるはずで、結局はこの映画で何度も発せられた神に対する感謝の言葉「デオ・グラシアス」を言いたかったのだと思う。映画の最後の最後でまたギュシュクがこの言葉を唱える。それは愛する女に出会えて結ばれ、そしてそのことを神に感謝して神父の夢を諦める者の言うこととすれば、それはそれでより大きな神の存在を示しはするが、奔放な女性の魅力にただ参ってしまった世間知らずの男の物語となって、大聖堂での豪華な式典を撮影した意味も欠ける。ここはやはり、ギュシュクがより成長して神父になる話と見たい。
by uuuzen | 2005-10-12 20:32 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
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