澄明度という書き方があるのかどうか、桂川の濁りがようやく台風18号以前の普段通りに戻った。透明度という言葉を使うほど濁りに無縁ではない日本の河川であるから、「澄明度」でいいのではないか。
先ほどのNHKのTVニュースが、今日から保津川下りが再開されたことを伝えた・その最初の船に客はわずか3人で、まだ客足が戻るのは早いようだ。さて、ここ2,3日、昼間は真夏の暑さで、家の中が暑いので、散歩に出たくなる。それでつい昼間から梅津のスーパーまで行ってたくさん買い物をした。冷蔵庫の中は食べ物がいっぱいで、夫婦だけの生活ではあまり減らない。そこで今日は梅津へ足を向けるのではなく、中ノ島に行った。あまりに近いので、筆者にとっては散歩と呼べるほどのものにはならないが、家の中でじっとしているよりかは運動になる。桂川の氾濫による中ノ島の被害が「その4」に書いたように、大半は復旧が終わった。後は細部を残すのみで、それら全部が元通りになるのは、やはり来年3月31日をめどにしているのかもしれない。たとえば今日小耳に挟んだが、中ノ島に3か所ほどあるトイレはセンサーが壊れたようで、閉鎖になっている。中へ入るなと書いた黄色いテープを、建物全体にぐるりと巻いてある。これも「その4」の写真で紹介したように、中ノ島のトイレが使えないことで観光客は困らない。すぐそばに臨時トイレが数個置いてあるからだ。こうなると、トイレの復旧は猛烈に急ぐ必要はない。そうして、最後に修復が完成するのはどこかと、そんなことを考える気分の余裕が出て来た。そして思うに、完全に中ノ島が元通りの姿になるかと言えば、案外見過ごされるものがあるように思う。その「物」の写真を先日撮った。中ノ島最下流のトイレ敷地内北側に設置される石碑だ。黒御影式で、墓石ほどの大きさがあるから、材料費だけでも数十万はする。これを地元のライオンズ・クラブが結成7周年目に、中ノ島公園内に松と桜を植樹したことに因んで建てた。この写真を今日は3枚目の右半分に載せる。左半分はその植樹された数本の桜から10メートルほど上流側に設置されていた方位盤で、嵐山から見える山などの距離と方角が図示されていた。この方位盤はどこに運ばれたのだろう。今は土台だけが元通りに据えられた。倒壊した様子の写真は、台風が過ぎた翌日の先月17日の投稿、つまり
「桂川の反乱後」に載せた。それから明らかなように、方位盤は土台の下流側に横倒しになっていた。また、情報を記した銅板が見えないので、それを再製作して嵌める必要上、方位盤の石はどこかに運ばれたのだろう。現在見える石の土台はところどころわずかに欠けている。その上に高さ50センチほどの方位盤の石が置かれるのであるから、欠けた部分はわからなくなるだろう。以前の状態を知らない人がこの赤茶色の石の塊を見ると、何のためのものかわからない。前にも書いたが、筆者はこれが設置された時、えらくよけいなものを置くものだと思った。ライオンズかロータリーか忘れたが、彼らは善意でやっているのは当然だが、ない方がすっきりしてよいと思う人もいることを想像することを忘れてもらいたくない。
それはさておき、この3枚目の写真の右に見える黒い石碑は、ほんの少し下流側に傾いている。てっぺんで8センチほどだ。濁流の威力によって基礎が洗われ、それがもう少し長く続くか、太い流木に衝突されると倒れたであろう。8センチの傾きは運がよかったのか、基礎のコンクリートが頑丈なのか、もし後者とすると、この傾きを元に戻すのは人間の腕力だけでは無理だ。筆者は戯れに反対側に押したが、びくともしない。そこで思うのは、この石碑も被害を受けたことで、8センチの傾きは復旧されるべきだ。だが、おそらくそのままだろう。それに、この石碑の傾きが台風18号によるものであることは筆者しか知らない。いや、ここで書いてしまうと数人は知る。とはいえ、その人たちは傾きを直せとしかるべき機関に電話をかけるといった行動を起こさない。せいぜい数年後に嵐山の中ノ島にやって来てトイレに入り、その裏手にこの石碑を発見し、わずかに傾いていることを確認するだけだ。それでいい。すっかり元通りになって台風の被害がなかったかのように思われるより、少しでもそれを思い出すよすががある方がよい。それで、この石碑の傍らに小さな立て看板を添えるのはどうか。「この石碑は2013年9月16日の台風18号に伴う桂川の濁流に洗われ、下流側にすこし傾きが生じました。それを元に戻さず、そのままにすることによって、同台風の被害を後世に伝えることとします」。それをライオンズ・クラブに費用を出してもらって行なうのはどうか。ちょっとした名所になりそうではないか。中ノ島はベンチも少なく、何も面白みのないところだ。それがいいと言えるが、歴史の蓄積を示すものとして、洪水に遭うたびに何か記念になる小さなものを増やして行くのはどうか。中ノ島の中央辺りに藤棚があって、その手前、つまり川から遠い川に比較的大きな休憩所がある。その内部の、水害に遭わない高みに嵐山の歴史などを紹介するパネルなどがあっていいではないか。そういうものにこそ地元のライオンズやロータリー・クラブがお金を使うのがよい。嵐山を描いた昔の、たちえば渓仙など日本画家の作品を陶板に複製させ、それを並べるというのもよい。嵐山は美術館と呼べる施設がなく、文化度がどの程度かを物語っている。
冨田渓仙は戦前の画家で、その家は中ノ島からよく見えた。筆者が嵐山に転居した30年前はまだそのまま家が残され、表札も冨田と書かれていた。以前にも書いたが、バブル期に南半分が他人のものになり、それから何度か持ち主が変わり、今は嵐山を売りにした何を売るのか知らないが、店舗になっている。ついでながら、
「桂川の反乱後」の最初に載せたパノラマ写真に、濁流の向こう岸右端近くに黒い四角の建物が見える。それが以前は和風建築の冨田家であった。また子孫が売らなかった北半分も近年様相を変えたのではなかったか。あまりその横の道を最近は通らないのでよくわからない。また、渓仙の家から歩いて2分ほどのところに桜湯という銭湯があり、渓仙はそこへ通った。その湯がずっと健在であったのに、数年前に廃業したようだ。ただし、煙突や建物はそのままになっている。この銭湯に寒い冬に自転車に乗って親子で何度か行ったことがある。銭湯ついでに言えば、わが家から徒歩2分のところにも銭湯があった。それがなくなって20年ほど経つ。その銭湯のタイル絵を今でもよく思い出す。かまぼこ天井に近い半円で、そこに桂川を下る筏が描かれていた。漕ぎ手はふたりで、筏は折れ曲がって長かった。その光景は、おそらくその銭湯の営業者が子どもの頃に目にしたものだ。渓仙もそんな絵を描いている。筏で亀岡など保津川上流地域で伐採した材木を運んだ。その終点は梅津で、その「津」は筏を集める港の意味でもあった。松尾橋辺りがそうで、そこらが材木でいっぱいであったので、四条通りはそれから北へ500メートルほどのところに西端があった。そしてそこから土手を下りれば、先日書いた山田橋で、それをわたれば嵐山地域のど真ん中に至った。筏で材木を運ぶ必要がなくなったと同時に、桂川は底が土砂が積もるがままにされ、普段はあまりの浅瀬のため、筏が下ることは出来ない。国土交通省は、今さら半世紀ほど前の状態にまで川底を掘り下げずに、川幅を30メートル広げ、渡月橋もそうしようと案を出している。そうなっても土砂は溜まり続ける。で、また川幅を広げ、しまいに桂川左岸すなわち嵐山東学区は全部川になるか、あるいはこれも先日書いたように土手を高くし続けて天井川にし、渡月橋はなくなって渡月隧道になる。それも面白いか。ま、3000年ほど先の話で、とっくに人類は滅んでいるか。
それはともかく、渓仙展の図録がたまたま目の前にあるので、そこから写真を1枚紹介しておく。渓仙が中ノ島橋のすぐ近くに立っている。同じ日に撮影したものは集英社の画集に何枚か載っている。橋は今は擬宝珠はない。また、渓仙の背後に見える山が嵐山で、すぐ後方は荒地になっているが、その後桜が数十本植えられた。この写真の撮影年月は不明だが、たぶん昭和1桁の年だ。10年としても80年前だ。渓仙は渡月橋を歩いて中ノ島に至り、それを南下して橋をわたった。そこは今は阪急の土地で、渓仙が立つ位置の背後も手前も桜が植わる。ただし、背後は先ごろ「風風の湯」という温泉が出来た。そのため、桜の木が10本ほどが切られた。樹齢70年ほどと聞いたので、渓仙がこの写真を撮って数年から10年ほどして植えられた。写真右手中景にこんもりとした木立が見える。そこが中ノ島だが、今は茶店などが林立してこのような鬱蒼とした樹木はない。渓仙の後方はるかに建物が見える。これはおそらく渡月亭だろう。渓仙の家が姿を消す様子や、また桜の林に温泉が出来る様子を見て来た筆者は、かつて桜湯の湯船に浸かりながら渓仙のことをあれこれ思ったことを昨日のことのように鮮明に思い出す。すぐ近くに「風風の湯」が出来たので、以前に増して大きな風呂に入ることが便利にはなったが、内覧会の当日に内部を見たのみで、まだお金を払って入湯していない。あまり風呂好きではないためもあるが、おそらく内部に嵐山に因むタイル絵などがなく、全くどこにでもあるスーパー銭湯の小型のような雰囲気であるからだ。せっかくの、かつて渓仙がすぐ前に立ったという土地に建設したのであるから、せめて嵐山に因む美術を何らかの形で取り入れてほしかった。そういう余裕が今はどの企業にもなくなっているのだろう。ほとんどの人が見てもわからないものに金をかける必要はないという考えだ。これを世知辛いと言う。昔も今もそうだが、まだ渓仙が嵐山に居をかまえた大正半ばはそうではなかったのではないか。今では渓仙を知る人も少ない。最後に今日の写真について。最初は今日撮った。中ノ島橋の上から下流側を覗いた。ブルが洪水で堆積した土砂をすくい、草木を刈り取っている。2枚目も今日の撮影で、ライオンズ・クラブが植えた桜。被害はないように見えるが、写真最奥の2本はかなり傾いていたのを元に戻され、赤土が新たに盛られた。そこから根が見えているが、洪水で根が露わになったせいか、葉は他の桜よりも枯れ具合がひどい。うまく再生すればよいが。5枚目は3枚目と同様、先月27日の撮影で、渡月橋のすぐ下流から中ノ島公園を見た。以前のように細かい砕石が敷き詰められ、この写真を見る限り、洪水に遭ったとは思えない。