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●『地図展2013 日本の世界文化遺産』
量して回ったとはいえ、伊能忠敬が日本のすべての道を歩いたということはない。「伊能中図」を見てわかるように、現在の地図と比べて日本の輪郭と内部の主だった道筋がほとんど一致しているだけで、山は無視して斜め上空から文様のように描いている。



●『地図展2013 日本の世界文化遺産』_d0053294_1584138.jpgつまり、等高線はない。山に分け入って、その正確な形を地図として表わすには人手も道具も足りなかったし、また熊や猪などの野生動物との遭遇もあって無理であった。だが、「伊能中図」の魅力のひとつは、山が緑色で俯瞰的に描かれていることにもある。その絵地図的なところは、前近代的で曖昧さを露呈しており、そこがいかにも江戸時代の産物で、展覧会における鑑賞物にふさわしいものとなっている。これがたとえばヤフーで見られる正確な地図となると、お金を払ってその展示を見に行く人はいない。かくて現在の地図は無味乾燥のものとなった代わりに正確さを手に入れたと言える。だが、それは性急な考えだろう。「伊能中図」は全体に緑と青が目立つ。もちろん緑は国土の大部分を占める山で、淡い緑は平地の表示に使われている。青は水面で、川、湖、海に充てられている。これは日本だけではなく、世界の常識になっているのかどうか。砂漠が大半を占める国では違うだろう。日本の山河は緑と青で表現するのが当然というのは、案外伊能忠敬の影響が大きいかもしれない。「伊能中図」は、赤が街道や寺社などの表示に使われていて、緑や青に混じって小さな「花」に見えなくもない。緑は「葉」で、そこに人間が作った「花」が咲いている。伊能はそのように表現したかったのかもしれない。この「中図」の嵐山付近をノート・パッドに表示させ、それを撮影した写真を昨日載せた。それが最も拡大かつ鮮明な映像で、ほかに方法がなかったからだ。博物館を出て烏丸通りを南下し始めたところ、大谷大学の正門付近で『伊能忠敬の日本図」展の大きな看板に遭遇した。ちょうどそこに京都大坂が拡大された写真が使われていたので、いちおう撮影した。ところが、その拡大図はかなり不鮮明で、帰宅して画像を調べると、ノート・パッドの画面を撮影したものよりかなり画質が劣った。それで、女性係員の目を盗んでそそくさと撮影したことがよかったと改めて思った。会場では図録の販売はあったと思うが、1図当たり畳2枚分ほどある「中図」の細部が図録の小さな写真で再現出来るはずがない。どうせ販売するなら、ノート・パッドで細部が見られるようになっていた「中図」のDVDだ。ただし、それは商品化されていないようだ。
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 当日の午後は京都駅で家内と会ったことは昨日書いたが、展覧会を見た後、食事し、喫茶店に向かう途中で、無料の展覧会に遭遇した。京都駅前の地下街のポルタの中央広場で開催されていた。それについて今日は書く。この展覧会でびっくりしたのは、つい先ほど大谷大学の博物館で見た「中図」の原寸大の部分図が無料で置かれていたことだ。印刷した「中図」がほしいと思っただけに、この偶然に驚いた。京都駅に出て地下街を歩かねば、手に入らなかった。この印刷物はA2サイズで四つ折り仕立て、両面印刷だ。表側に滋賀から大坂、奈良の近畿、裏面に富士山を中心に山梨と静岡が含まれている。また、印刷されたのは、見たばかりの日本写真印刷株式会社所蔵本ではなく、東京国立博物館所蔵の重文本で、右下に武揚堂が許可を受けて複製したものから抜粋したと断りがある。ぱっと見たところ、日写本と重文本双方に差はない。これではどちらが正本かはわからないが、昨日書いたように、来歴がはっきりしている東博本が重文指定されている。とはいえ、本当に東博本の来歴が明確なのかどうかは知らない。「中図」はパソコン画面では原寸大で表示することは出来ない。昨日の嵐山付近を中心とした地図写真で言えば、写真左下隅の愛宕山の頂上から、右下の「乙訓郡」の文字までは、実際の「中図」では5センチほどだ。いかに文字が極小で隙間なく書かれているかわかるだろう。であるから、画像が指の開きで自在に拡大縮小するノート・パッドで見ることは便利だ。ポルタで開催されたこの展覧会は男性係員が数人いて、親切に説明をしてくれた。最新の大きな日本地図は3D印刷によるもので、また床に貼られ、その上を自在に歩けるようになっていた。山の高さは海の深さは左右が赤青の3Dメガネをかけるとリアルに見える。若い女性たちがキャーキャー叫びながら見ていた。チラシ裏面の説明によれば、この展覧会は毎年場所を変えて行なわれているもので、今年は京都が会場となった。大谷大学での伊能図の展示と合わせたのかどうかだが、日本写真印刷が「中図」の複製を無料で提供しているからには、きっと同社の思惑が働いたに相違ない。ついでに書いておくと、同社は四条通りの大宮と西院の間にあって、その前を筆者はこの30年、何度往復したか数え切れない。それはともかく、せっかく同社が「中図」の複製を京都駅前で無料で配布するのであれば、なぜそのことを大谷大学博物館で紹介しなかったのだろう。せっかくのふたつの地図展が情報を共有すべきであるのに、お互いがお互いを無視した形であった。
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 さて、チラシの文面をさらに引用すると、「…この6月に「富士山」の世界文化遺産への登録が決定したことにより、改めて世界文化遺産への関心が高まっています、そこで、今回の展示では、全国の世界遺産13ヵ所について、ユネスコの世界遺産登録申請の添付図や、それぞれの文化・歴史的に貴重な地図などをパネルにより紹介します。…」とあって、京都に観光に来た人だけではなく、日本における世界遺産に興味のある人に興味を抱かせるようになっていた。これもついでに書いておくと、チラシ表側には13の日本の世界遺産の写真が並び、列挙すると、1「法隆寺地域の仏教建築」、2「姫路城」、3「古都京都の文化財」、4「白川郷・五箇山の合掌造り集落」、5「原爆ドーム」、6「厳島神社」、7「古都奈良の文化財」、8「日光の社寺」、9「琉球王国のグクス及び関連遺産群」、10「紀伊山地の霊場と参詣道」、11「石見銀山遺跡とその文化的景観」、12「平泉」、13「富士山」となっている。筆者は沖縄には行ったことがあるが、当時は首里城はまだ復元されていなかった。紀伊山地は高野山を知っているだけ、石見銀山、平泉、富士山は行ったことがない。もっと縁がなさそうなのは富士山で、高い山に登る趣味はない。これら世界遺産となった各地の古地図がたくさん紹介されたが、地図は多くの情報が詰まったもので、駆け足で見ては全体の雰囲気を感じるのがせいぜいで、地図に分け入って細部を楽しむことにはならなかった。それをするには、現物の地図を手元に置くか、原寸大の複製を入手するかだ。展示の中に、一目で吉田初三郎の地図とわかるものがあった。初三郎の鳥瞰図的な地図は、「伊能中図」の緑と青の効果をさらに誇張し、絵画的にしているが、伊能忠敬の地図のような正確さはない。それを犠牲にしながら、より便利な、また美的さを追求したもので、そういう鑑賞用の、また観光に便利な地図が伊能の後、大正から昭和時代に生まれたのは面白い。筆者は初三郎の「白浜図」を所有するが、それを買ったのは、いつか白浜のホテルに泊まることがあった時、それを持参し、現在とどのように宿泊施設が変化しているかを確認するためと、また白浜の見どころがどのように鳥瞰図に収まっているか、初三郎の視点を確認したいためだ。その機会はまだないが、初三郎の地図に描く現場の読み取り方を知るには、幾枚もある京都の市内図が便利だ。それら1枚はカラー・コピーされて河原町三条下がるの平安堂書店のガラス扉に飾られているし、またそこでは買うことも出来る。ついでに書いておくと、同店ではそのほかの京都市の地図もたくさん貼られ、それらを見比べると、市内がどのように変化して来たかがわかって飽きない。やはり、地図は自分がよく知る土地のものが市場面白い。それで、この展覧会では一番の収穫がやはり「中図」の複製だ。
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 「中図」はところどころに「丹波」や「摂津」など、大きく地名を書いてある。これはその下に相当する場所には人家がないことを思わせるが、現実は違ったであろう。たとえば、富士山を中心とした範囲を見ると、北東に「都留郡」の表示があり、また大月や上野原へと続く赤い街道の線も見える。ところが、秋山村がある山中の細い道は無視されている。伊能の時代、それがなかったことはなく、人も住んでいた。だが、あまりに山の中で、村があっても、日本全体の図を正確に表現するためにはひとまず省略してもかまわないとの思いが働いたのだろう。山中湖はかなり大きいはずなのに、「中図」ではそこを調査しなかったようで、湖の存在はかろうじて示されはするものの、その外形はぼかされ、またとても小さい。そして、「山中村」の表示のみは大きい。これが214枚に分かれる「大図」ではどうなっているか。それを確認しない限り、伊能らが山中湖を一周しなかったとは言い切れない。それはさておき、昨日の続きを最後にしよう。「中図」で京都嵐山周辺がどのように表示されているかを見ると、あまりにも情報が少ない。それを補うのが「大図」であろうが、それとは別に、おそらく「大図」に近いものを最近見つけた。地元の学区の有志が製作したものに、「嵐山歴史年表」がある。その最後に明治13年の嵐山東学区すなわち松尾大社から渡月橋に至る桂川右岸地域の古地図が掲載される。それの写真を撮ったので載せておく。わかりやすいように筆者が書き込みを入れた。地図は右が北だ。赤は道路で、山沿いに1本通っている。これはそのまま現在もある旧街道で、昔ながらの趣が残っていて、途中に西行の桜で有名な西光院がある。また、この旧街道に垂直に途切れた道が桂川に続き、そこで③「山田橋」に至る。⑦はその道を分断する形で出来た小学校だ。この垂直の道は現存するが、とても狭い。それがまたいかにも江戸時代の畔道らしくてよい。しかもその道はこの学区内ではやはり存在感があって、最も古い道である雰囲気が漂う。黄色を塗ったのは中ノ島だ。それが縦の破線で二分されているのは理由がわからないが、おそらく右側は川の増水でよく浸かった箇所ではないか。先週の台風で大きな被害を受けたのはまさにこの破線より右の部分で、現在護岸改良工事が進んでいる。水色の細い線は桂川から引いた用水路で、田畑を潤していた。また、現在もそのように使われている。なお、この土地は秦氏が開発したもので、松尾大社は渡来人あってのものだ。
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 2本の用水路は西が一ノ井川、東が二ノ井川と呼ばれる。わが家の真裏を流れるのは二ノ井川だ。この2本は保津川下りの船が揚げられる場所から道路をくぐってすぐに分かれている。コンクリートの暗渠になっていて、普段は水の流れが多く、轟音を立てている。この暗渠口は誰でも見ることが出来る。先週の台風の当日、筆者はこの2本の川が分かれる暗渠に向かって写真を撮った。それを今日載せる。写真左手に太い樹木が1本見えている。これは2本の川が分流してすぐの尖った三角州に生えている。撮影当日は堰が閉門され、川の水量は途絶えていた。写真からはその様子がわかる。なお、この写真は嵐山古地図で言えば、②と⑤の間くらいに位置するが、この地図は縮尺が正確ではなく、絵地図程度に思う方がよい。①は渡月橋、②はその小橋、④は橋の表示がないが、現在の松尾橋がある場所、⑤は阪急嵐山駅、⑥は松尾駅、⑦は前述のように小学校だが、地図の赤い道筋のうち、数字が被る部分は現在はない。ほとんど全地域が田畑であったのが、鉄道が走り、そしてオレンジ色で示した直線の自動車道が出来た。この道路沿いに家が建ち始め、現在では田畑はほとんどない。田畑がいくつかの村の名前で区切られているが、これは現在では町名になり、また自治会の区割り、そして自治会の名称にもなっている場合がほとんどだ。わが自治会はこの古地図では、「中尾下」と「西一川」に相当するから、自治会名はそのどちらかを使えばよかったようだが、「嵐山第一」を名乗っている。これは筆頭の地域という自尊の思いが含まれているだろう。それはともかく、伊能忠敬に限らず、嵐山から大山崎、高槻、茨木へと徒歩で向かう者は、必ずこの地図で水平に引かれる旧街道を利用した。筆者はほとんどこの道を歩くことはないが、毎年春に松尾大社を往復する子ども神輿では、この道を使う。車の往来が少なく、また途中で山沿いに寺が多く、鄙びた雰囲気がよい。この街道沿いに建つ家は旧家が多い。山沿いの道であるから、桂川が氾濫しても浸水の心配がなかった。ところが自動車時代になって、ここは山陰のような形になり、新しい自動車道が山陽の賑わいを呈することになった。とはいえ、地図で示すこのオレンジ色の道沿いにある店は、不思議なことにどこも長続きしない。人口が急に増えたのはいいが、減るのも早く、地元小学校では教室があまって来ている。将来は測り難い。
●『地図展2013 日本の世界文化遺産』_d0053294_204912.jpg

by uuuzen | 2013-09-25 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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