辞書を使ってまだ使っていないこのブログの冒頭の一字を探そうかと昨夜思った。何度も書くように、最初の一字さえ決まれば後は勝手に話が進む。今日も冒頭の一字を探すのに苦労しそうな感じがして、5分ほどあれこれ試したが見つからない。
それで漢和辞書に載る画数の少ない漢字から順に見て行き、まだ使ったことのない字を見つけようかと思ったことを思い出し、早速「辞書」の「辞」を今までに使ったかどうかを、毎日1字ずつ増えているメモ帳を調べてみると、これが運よく使っていなかった。それで今日は「辞」から始めるが、書き始めた途端、「辞令」や「辞職」を思い出した。家内は今年還暦になるので、約款によって退職するが、最近はその話をよくする。家内が仕事しなくなると、年金がもらえるまでの間、どうするかだ。先日ネットに書いてあった。定年を迎えた夫婦が死ぬまでのおよそ25年間、どれほどの蓄えが必要か。1億数千万円と計算してあったが、60を少し超えた夫婦が年金を含めてそれだけのお金を手にすることがどのくらいの割合で手にすることが出来るだろう。一流企業を勤め上げた人ならわかるが、そうでない人はその半分も無理ではないか。1億数千万と計算した人はきっと優秀で、年収はトップ・クラスなのだろう。それだけ確保出来る人は定年直後の生活レベルを生涯まっとう出来るとして、そんな大金にはるかに手が届かない人はさてどう老後を過ごすか。今は名称が変わった「オレオレ詐欺」で千万円単位のお金を奪われる老人がある。彼らの中にはそのお金を老後の費用として虎の子のように大事にしていた人もあるだろう。どうにか困らずに老後を送れると思っていたことが、一瞬にして大金を失う。詐欺に遭ったことは自己責任で、それはあまりのお人よしか頭が悪いことと他人は言うかもしれない。どう表現するのも勝手だが、人生はどのようになるかわからない。1億数千万が充分確保出来る老人でも、25年の老後を無事にまっとう出来るかと言えば、そんな保証はどこにもない。それはあたりまえであるから、せめて他人に世話にならないように、1億数千万の金額を死ぬまでの25年の間に支出出来るように計画を立てて若い頃から準備しろと言う。そうしておいて不測の事故が起こり得るが、そこまで計画しておくことは出来ない。で、そんな出来事に遭遇すればその時々に対処するしかない。であれば、その不測の出来事が生じる年代をもっと下げて、定年より前と考えることは出来る。筆者はとてもこれからの20数年の間に1億数千万を確保し、また使い切るほど経済的には恵まれていないが、その貧困状態を、金持ちが津波やオレオレ詐欺に遭って財産を失った状態と同じに考えれば、多少はわが身の貧しさを嘆かずに済む。確かに生きて行くにはお金が必要だが、60を少し超えた夫婦が平均寿命をまっとうするとして、1億数千万支出するのが平均などと言われると、筆者はつい反抗したくなる。はははは、今「犯行」の文字が最初に出た。実際1億数千万にほど遠い老人は、こぞって銀行を襲うか、「オレオレ詐欺」に参加して老人から金を奪う犯行を考えるだろう。それは社会に対する反抗でもある。
昨日からTVを賑わしているのが、藤圭子の自殺だ。62というから、筆者より1年早く生まれたか同年生まれだ。お金には困っていなかったようだが、わからない。というのは大金を持って外国へよく行き、そこでカジノに出入りしていたらしい。寂しさをギャンブルで埋めていたのかもしれない。そうなるといくらお金があってもすぐになくなる。数万でも数百億でも同じで、ギャンブルで成功した人はいない。勝っている間にやめればいいが、やめられない。勝てばもっとしたくなる。そしてついにやめるのは資金が底をついた時だ。彼女の死因はいろいろとあるだろうが、ギャンブルも面白くなくなったか、それをやる経済力がなくなったことが大きな理由ではないか。62歳で死ぬことが早いか遅いかと言えば、平均年齢で言えば早い。だが彼女は死がやって来るまでゆっくり待っている気になれなかった。待てなければこっちから出向く。それはごく普通のことだ。死を恋人のように思うことは間違いだが、恋人よりもっと律儀で、確実に向こうからやって来てくれる。それはさておき、彼女のように大金を常に持っていた人は、老後に必要な1億数千万は問題ではなかったはずだが、そのような平坦な老後を思い描くことが出来なかった。あるいはしたくなかったのだろう。それはごく普通の幸福な家庭から見れば不幸だが、世間でよく言う「太く短く」を自認していたならば、それはそれで満足した人生であった。ならば、老後を過ごすのに必要な1億数千万を確保出来そうもないと考える多くの老夫婦はどうしようか。彼女のように潔く高いところから飛び降りる勇気もないし、また他人に迷惑をかけるのもいやとすれば、どういう人生があるだろう。電気やガス、水道を限界まで始末し、さらに食べるものを削る。たぶんそんなことしか支出を抑える方法がない。そんな面白くない人生、さっさとやめてしまおうと思う人は自ら死を選ぶし、それでも生きていたい人は生活保護にでもかかるか。それが無理なら、餓死するか。どっちにしても、持たざる者は老後は楽しくない。そんな状態で平均寿命が伸びるのは残酷だ。何だかここしばらくはこんな暗い話ばかり書いている気がする。もうすぐ62になる筆者は本格的にこれからを心配しているかと言えば、全くそんなことは何も考えていない。まるで他人事で、そのことを家内が心配する。「自分たちはもう老後なのよ」というわけだ。
今日は午後6時頃に自治会長がやって来た。白のワイシャツに黒のズボンで、役所勤めからの帰りにわが家に立ち寄った。明日と明後日は地蔵盆だ。明日の朝6時半に法輪寺の境内に集合してテントを3つ立てねばならない。そのうちのふたつは家屋の床組と同じほどの頑丈なものを組み立て、その上に張る。会長が心配して訪れたのは、天気予報だ。今日は午後に大雨が京都でも降るという予想であった。午後7時にムーギョに買い物に行こうとしてわが家から100メートルほど歩いたが、空にあまりに多くの雷が光る。少し夕焼けが出ていて、雨は降りそうになかったが、ムーギョを往復する間に強く降るかもしれない。それで買い物を諦めて家に戻った。それから30分ほどして雨が降り始めた。それが夜通し降ると明日の早朝のテント張りは難しい。ところが、雨は30分ほどで終わった。ほんのおしめり程度で、今月は京都ではごくわずかしか雨が降っていない。少しの雨でも降れば涼しくなるかと思えば、湿度が高く、また部屋の温度計は35度を指しているから、最近の猛暑と何ら変わりがない。午後8時20分に京都に竜巻注意の予報がTVで流れた。めったにないそんな予報など不要と思うが、気象庁はこんな予報でも出せますよといったように自己主張するにはいい日と考えてのことだろう。ともかく、竜巻のタも訪れず、また雨も少しだ。この調子では明日はまたカンカン照りで、例年のごとく地蔵盆は盛況になる。それにしても朝6時半の集合はつらい。それを思ってここ10日ばかりはほんの少し寝るのを早めている。それで数日前から6時半に目覚める。明日はそれを30分早めて6時20分には家を出る。となれば、今日は日づけが変わる前にこれを投稿して早く寝るしかない。ところが、今日の写真は6枚もある。これは書くべき文章の段落数が5か6、あるいは7を意味している。7は無理なので、最少の5にしようと思いながら書いているが、これが3段落目なので、どうにか0時までには布団に横になれそうだ。ここで書いておくと、今日の写真はどれも去年の今日、8月23日に撮った。前回書いたように、今回で去年撮った写真は紹介し終えた。と言いたいところだが、先ほどヤフーのマイ・ボックスを調べると、去年2月撮影の3枚を見つけた。これらは本来「その254」で紹介すべきものであった。今さら番号をずらせないので、この3枚はよい機会を見つけて投稿する。
さて、家内が明日から3日間、今年最後の夏休みとなっている。残念ながら明日と明後日、筆者は地蔵盆で忙殺される。3日もあればどこか一泊旅行でもしたかったが、地蔵盆は今年4月の段階で日が決まっていたのでどうしようもない。筆者がいなくても動くが、今年は筆者がすべき特別の仕事があって、両日とも休むことは出来ない。明日の朝がとんでもない大雨ならばどうか。そのことを心配して会長が訪れた。筆者の記憶では地蔵盆の早朝に豪雨であったことはない。そのため、テントを張ることは出来た。それが出来れば後は豪雨でもどうにかなる。実際数年に一度は雨に祟られる。そうなるとテントを雨が上がって充分乾燥するまで境内に張ったままにしておく。問題は明日だ。これを書く今は雨はないが、深夜にまた降り始めないとも限らない。とにかく明朝の6時半に境内に集合し、その時豪雨であればどうするかを決めようと言った。集合するのは、各種役員と組長の計30人ほどだ。半分は女性で、テント張りは出来ない。また男性の半分以上は高齢者なので、テント張りは毎年重労働になっている。テントだけなら簡単だが、前述のようにふたつ並べて張るテントの下には高さ50センチほどになる床組みをまず設置する。根太1本で10万円ほどする本格的なものだ。この組み立てを自治会内の大工さんが無料奉仕してくれていたが、去年を最後に体調を悪くし、今年は指導だけになるだろう。さほど難しい作業ではないが、男手はあるほどによい。筆者の予想では、明日の集合時には雨は上がっている。テント張りは1時間もかからず、大半の人は一旦帰宅するが、8時にLPガスのボンベを2個業者が境内に配達してくれる。その受け取りは筆者の担当で、8時過ぎまで帰宅出来ない。会長をしていた去年までの4年間は、朝6時20分に家を出ると夜9時頃まで帰らなかった。昼休みの間もひとりでテント下に詰め、大きな鍋に炊いたおでんを見張ったりした。今年は会長にその仕事の半分は委ねられるから、どうにか6時に起床しても、寝不足分を昼頃に一時帰宅して取り戻すことが出来る。老人になるとあまり眠られなくなるという。筆者は毎日7時間は眠っているうえ、昼間は暑くてもうたた寝をしてしまう。
ガス・ボンベの話で思い出した。先日福知山市の花火大会で大きな事故があった。最初はLPガス・ボンベが爆発したと報じられたが、後にガソリンを詰めた缶であることがわかった。屋台は河川敷の土手となった階段に最も近いところに並んでいた。階段に立てば花火はよく見えるのだろう。有料のそうした席に最も近い無料の場所が、ちょうど屋台の裏に当たっていた。ガソリン缶は人通りの多い屋台の表ではなく、裏手に置くのは当然だ。ところが裏手にも人がいて、缶からの出火をまともに受けた。運が悪いとしかいいようがない。大勢やって来た人の何人が屋台からの出火に大やけどを負わされることを想像したろう。福知山市も花火大会を賑やかなものにするため、出店はなくてはならないものといういわば習慣にしたがった。ところがこの習慣がこういう事故により、一気に改められる可能性が大きい。規模は違うが、原発事故と同じだ。屋台で思い出した。今年の祇園祭は屋台の数がかなり減っていたのがわかった。烏丸通りは南は五条警察の前まであったのが、今年は四条より南を眺めると暗かった。つまり、四条から南の屋台は姿を消した。その理由を一昨日ネットで知った。屋台は暴力団との関係が噂され、どんどん縮小の方向にある。それにこれも先日報じられたように、屋台のくじ引きに当たり券が入っておらず、そのことを疑った大人が警察に通報し、調査の結果、訴えた人の主張通りであった。これに対して、屋台の主は、安価なくじで何万もする高価な商品を持って行かれれば商売にならないと言い、しかもそういうくじに当たらないことで子どもは大人になって行くとも語った。「大人買い」という言葉がここ10年か20年の間に登場し、子どもが楽しむものを万単位でまとめて買う。屋台のくじをそのようにして買って当たりくじが入っていないことを疑ったのだが、何だか買う方も売る方もいじましい。これは昨日のニュースに、どこかの大きな出版社が読者が当たる景品を実際は送っていないことが暴露された。これは出版社のいじましさを露呈させ、筆者はがっかりした。こういう行動は本質が「オレオレ詐欺」と変わらない。たかが景品と言うなかれ。「当たります。送ります」と公に発表していながら、商品は用意せず、送りもしないでは、全くの詐欺だ。そういう会社のやり方に胸を痛め、辞表を出しても、悪者にされるのは当人で、大きな組織は正義を主張する。大きな組織とはいえ、景品担当者は個人であろうし、会社の権威を笠に着た勘違い野郎を辞職させるしか方法がない。