祝いの意味ではないが、月も替わったことであるし、投稿回数の区切りの意味も多少込めて今日はGOOGLE EARTHからダウンロードした航空写真を3枚載せる。これは昨夜気づいた。
ここ1か月ほどはグーグル・アースを見ていなかったため、わが地元の京都嵐山の航空写真がいつ新しくなったのか知らない。以前のものはこのカテゴリーの
「その1」や
「その2」に載せた。当時のパソコンはWINDOWS95で、グーグル・アースが利用出来ず、ヤフーから取った。そのため、何年の撮影かわからないが、最低でも5年前だ。ほんとど同じ地域を今日は載せるので、比較してほしい。5年前は緑が多かった。それが瓦屋根の灰色に変化した部分が増えた。その勢いが留まらないのは、先日から書いているように、ほぼ駅前と言ってよい800坪の土地にマンションが建つ。その区画を今日の最初の1枚に黄色で示しておく。この写真はわが自治会の7、8割の範囲を含んでいる。さて、ここ3年、駅前広場、ホテル、温泉と順番に駅前に大きな建設工事があって、温泉は昨日竣工した。「桜の林(東)」とあるのは、「(西)」に温泉が建ったからで、ひとまず東側は以前のまま保存されるようだが、樹齢70年とされる桜は枯れるに任せられていて、無残な姿を晒している。2枚目の写真に見える瓦屋根の大きな建物は、新しく出来た温泉施設で、屋根のあちこちに人や材料が点在しているのが見える。3枚目は左手に大きく見える緑が料亭で、撮影された今年4月24日はもう引っ越して誰もいなかったと思う。この日は確か郵便局への往復の間、上空にヘリコプターが長らく飛んでいた。桜が終わり、新緑にはまだ少し早いのに、なぜかと思った。それがグーグル・アースに使う航空写真の撮影だったとは。この新しい写真がアップされたのはごく最近のことのはずで、次回はまた5年か6年後になるだろう。3枚目の料亭の800坪の土地は、緑が多く、鳥もたくさんいた。それらがどこに飛んでいったのか。昨日わが家のベランダの屋根にあまり聴かないきれいな声の鳥がしきりに鳴いていた。それは料亭の樹木を棲家にしていたのではないだろうか。800坪の3分の2ほどが庭で、鳥にとっては天国であった。少しくらい木を残すのかと思っていたが、これが無慈悲と言えるほどに徹底して何もかもなくなって更地になった。土の下にいるムカデも大慌てで逃げ出したろう。それに蝉も来年はコンクリートに覆われて地上に出ることが出来ない。窒息死する数年分の蝉を思うとこっちまで息苦しくなる。航空写真で緑が多いのは何となくほっとする。それが灰色に変わることは、そこに人間の生活があるから、本当は喜ぶべきことだが、それがなぜ灰色なのか。それは人生を象徴しているようにも思え、苦い味が口の中に湧いて来る。緑が灰色に変わることは、そこに金が動き、人の欲望が渦巻いていることでもある。昨日、山科区で子どもが3人いる30代半ばの奥さんが車の中で絞殺された姿で発見された。今朝彼女の写真がTVに出た。わが自治会にもたくさんいるような、なかなか清楚な感じで見入ってしまった。どういう理由で事件に遭ったのか、見知らぬ者の犯行でないとすれば、ごく普通に見える家庭に恨みが襲ったわけで、いやな感じがする。同じ種類の小鳥が殺し合いをするだろうか。人間が動物の中では最も野蛮なのかもしれない。先日MIHO MUSEUMへの往復の送迎バスの中で大志万さんと隣り同士になって話をした。彼女は今が人間の歴史の中で一番人の安全が守られていると言った。日本や先進国を見ているだけならそうだろう。だが、人間に恨む思いは消えず、それによる殺人はなくならない。
変な話になってしまった。少なくても5年ぶりに見るわが自治会の航空写真に、少々愕然としたからだ。きれいな建物がたくさん出来ることは見栄えはいいのだろう。だが、筆者のようにもうすぐ62になるような年齢では、多少垢がついたような建物が懐かしくてよい。そうそう、昨日の昼、20分ほどうたた寝をした時、変な夢を見た。夢はみな変であるから、それを強調することもないが、筆者にとってはなぜそんな夢を見たのかわからないから変だ。筆者はひとり暮らしをしている。家内は死んでいないのか、どこか買い物か旅に出ているのか、姿は見えない。それに筆者は今これを書いている京都ではなく、生まれた大阪に住んでいる。生まれた横丁が出て来た。筆者が生まれた家は人手にわたったが、まだそのままあると思う。そこに戻りたいとは全く思わない。それなのに、その家が出て来た。そして筆者は隣り合った2軒を所有している。これは詳しく書くとややこしくなるが、筆者は生まれた家に5年ほど住み、その後、つまり小学1年生からはそこから3軒西の家に移った。それはとても大きな火事があり、工場の周囲の家屋も、すなわち筆者が生まれた家も燃えた。どういう権利関係があったのか知らないが、同じ土地に建った家に住まず、3軒隣りに移り住んだ。その家は奇妙な形をしていて、同じ玄関がふたつあって、2軒が内部でつながっていた。2軒のうち西側の家で暮らしていたが、2年ほどして東側に6,7人の家族が入って来た。ガラスの扉1枚で隔てられた形で、それを開けない限り、双方の家族はプライヴァシーが保てた。また、ガラス扉の向こうはモルタル敷きの通路になっていて、わが家の団欒はいちおうは向こうにあまり聞こえないようになっていた。その隣りの家族の兄弟はみな筆者より年配で、ほぼ全員が働きに出ていたので、あまり親しくなることはなかったが、おとなしい家族であった。そして1年ほどして出て行った。東京オリンピックより前のことで、当時間借りはよくあった。ともかく、その一家がいなくなってしばらくすると、わが家族は今度はその家にまた引っ越した。そして東の家には別の家族がやって来て、ガラスの扉は頑丈な仕切り壁に作り変えられ、2軒は分離した。わが家は父親がおらず、母はその重なる転居を忌々しく思っていたが、その理由を筆者が深く知るのは成人してからだ。それはともかく、夢に出て来たのはその2軒続きの家で、筆者は東の方、つまり小学1年生になる直前に火事に遭い、その3か月ほど後に入った新しい家にひとりで入って行く。昔と内部はあまり変わらない。誰もいないのでさびしく感じているところ、ガラスの扉の向こうから大きな人の声が聞こえる。TVの音だ。誰かいるのかと思ってガラス扉を開けると、誰もいない。筆者はその2軒を所有していて、ひとりで暮らしている。近所は見知らぬ人ばかりだ。夢の中で、これは筆者が老いて京都を離れ、また大阪の生まれ育った場所に戻って来たことかと思っている。梅雨の小雨降る午後で、家の中はとても暗くて古い。それがとても悲しく、苦々しい。そう思っているところで目覚めた。この夢の出所に思い当たることがある。先日の区民体育祭で、ある70代の男性と少し話をした。その人は自治連合会傘下のとある役割の会長を長年担当しているが、その後釜になると目されていた男性が、90代の寝た切りの母親の面倒を見るために副会長を辞した。毎晩2時間おきに世話をせねばならず、彼は70近いと思うが、独身で、ここ1年でげっそりと痩せた。その姿が痛ましく、筆者はたまに出会うと、看病はもちろん大事だが、看病する者が倒れれば看病される方も困るので、身体には大いに気を使ってほしいと毎回伝える。彼は去年空きになった隣家を購入し、表は玄関ふたつだが、仕切り壁を取り壊して内部をひとつにした。そして、新しく出来た空間に母を寝かせているという。その2軒つながりの家の前を通るたびに、筆者は昔大阪で暮らしていた家を無意識の内部で思い出しているのかもしれない。