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●『ペイネ 愛の世界旅行』
というあまり使わない漢字は「勁草書房」に見覚えがあるが、先ほどネットで「美しくて勁い日本を取り戻そう」といった題名の記事を読んだ。「勁い」は「つよい」で、「ぴんと張りつめた」状態を言う。



男根の勃起を思えばいい。「勁草」と書いておきながら、「勁根」ではまた下品なことを書いてしまったが、それはさておき、「美しくて勁い日本を取り戻そう」という題名からして、文章の書き手の言わんとしていることはわかる。ざっと斜め読みしながら、書き手が美しくないことを改めて思った。「国を憂う」姿は一部の人には美しく見える。だが、筆者にはそのことを知りながら憂う自分の姿に酔っているように見えてさっぱり美しいと思わない。「美しくて勁い」からは、厳格な規律を思う。筆者はそうした規律があった時代に少年時代を送った。当時が今に比べて美しいとも別に思わないが、「折り目正しい姿」というのはわかる。中学生の筆者は、ズボンを毎晩布団の下に敷いて折り目をつけ、運動靴は常に真っ白、白シャツは糊を利かしてアイロンをかけた。学校の指導ではなく、母からそうするように教えられた。筆者のTシャツ嫌いは、糊を利かしてアイロンをかけるような服ではないからだ。それほどに筆者は規律が厳しかった時代の影響を受けている。それでいて、当時だらしない格好をしていた連中が不良であったとは全く思わないし、今の日本の規律が曖昧でだらけ切っていて、美しくも勁くもないとは思わない。いつの時代でも立派な人はいる。その割合は大差ないだろう。「美しくて勁い」などと書く人は、筆者から見れば、まず立派な人の部類に入らない。自身の本質が美しくも勁くもないから、そんな標語を掲げて人の注目を集める。「国を憂う」形はたくさんある。「美しくて勁い日本を取り戻そう」などと書く連中が本当に憂いを持っているのかどうかは疑わしい。彼らがかえって国の品位を貶めている場合がある。「美しくて勁い日本を取り戻そう」と題して書く連中こそ下品で、国を謳い文句にしているだけに、売名行為の中でも最も悪質だ。それにしても「美しくて勁い」とは何だ。それに今の日本がそうではないとすれば、いつの時代がそうであったと言うのか。繰り返すが、こんな形容詞の日本にしたいと主張するほどの厚顔なジャーナリストがいるために、日本は美しくも勁くもない。さっさとメディアから姿を消してほしいが、一方で熱烈に指示する人たちがいて、最近はNHKの討論番組で支離滅裂なことを言って恥を晒していた。
●『ペイネ 愛の世界旅行』_d0053294_23503280.jpg

 今日取り上げるフランスのレイモン・ペイネのアニメ映画では、フランスやイタリアから見た日本像が紹介される。製作は1974年だ。これを一昨日にようやく見た。当時をよく覚えている筆者は自分の20代を思い出してなおさら懐かしかったが、伊仏からの日本像がこの程度かということに少々がっかりし、また納得もした。欧米による日本のイメージは74年以降少しずつ変わって、この40年の間にアニメや寿司が代表的なものになったであろう。寿司はたぶんに回転寿司によって世界に広まったから、寿司の前にロボットのイメージが強いはずだ。ロボットは「機械的で画一的な」という表現がふさわしい。それは好意的に見れば「勤勉、効率的」で、悪意に取れば「非人間的」だ。日本は74年当時から今に至るまで、欧米からの眼差しはさほど変化していないだろう。つまり、「ロボット」で代表されるのが現代日本で、そこにはいい面もわるい面もある。さて、「世界旅行」は地球を一周することと捉えていいが、この映画は「愛の」がついていて、愛情表現のさまざまな世界を旅行すると思われそうだ。だが、それでは倒錯的な愛も取り上げねばならず、成人指定作になってしまう。その点からしてこの映画の邦題はあまりよくないが、74年公開時のパンフレットの表紙を見ると、「の」は別の書体になっていて、「愛から見る世界旅行」と捉えられる。誰でもそう思うので問題はないとして、「世界旅行」が問題だ。世界に今どれほどの数の国があるのか知らないが、真の「世界旅行」と言うのであれば、すべての国を回らねば、漏れた国から文句が出そうだ。ところがオリンピックでもすべての国の参加は無理で、人間はなかなかひとつにはなれない。それで「世界旅行」とはいえ、必ずいくつかの国を選んで回って来ましたということになる。ヨーロッパには関心はあるが、日本以外のアジアはさっぱり面白くないという人もあるし、その反対もある。個人ではそれでいいが、劇場で公開する映画で「世界旅行」を謳うからには、大多数の人が満足するように国や地域を選ぶ必要がある。その一方で製作者の国が中心に描かれるのはやむを得ない。この映画は伊仏共同で作ったため、どうしても両国の場面が多くなる。あるいはそれをヨーロッパに広げてもよい。そして伊仏はカトリックの国であるから、その点も強調される。
 ヨーロッパがアジアに憧れを持ったのはシルクロードの昔からと言ってよく、その後大航海時代を経てオリエンタリズムのブームがあり、明治に入って浮世絵の流出からジャポニズムが湧き起こる。ごく普通の欧州人はジャポニズムも中国趣味もさほど区別がつかず、日本人も中国人も鼻が低くて目が吊り上がった顔をしていると思っていたし、今もそれはさほど変わらないだろう。日本からすれば「中国と一緒にしてくれるな」と言いたいところだが、日本人にイギリス人とフランス人の区別が即座に出来るかとなるとはなはだ疑問で、こうした問題はお互い様だ。今後、文化のさらなる交流によって、欧米人による日本人の典型的な顔のイメージがもっと多様になって行くはずだが、さて74年から40年ほど経った今、日本人の平均的な顔が実際にどれほど変わったかと言えば、そんな短期では変わりようがない。したがって、この映画で登場する日本人の顔は今でも西洋では通用するものであり、また日本も受容すべきものに思える。その日本がどのように描かれているかと言えば、まず登場するのがキモノだ。ペイネが創造したこの映画の主人公のカップルの名前は、男がヴァレンチノで女がヴァレンチナだ。まるで双子だが、服装の違いで男女とわかるのであって、顔はよく似ている。このふたりが日本に来て最初にキモノに遭遇し、それを喜んで羽織る場面は、本物のキモノを知っている者からすればきわめて奇妙なものだが、70年代になっても伊仏では日本の代表的な美がまずキモノであったことを示し、その染色に携わる筆者は嬉しい。ただし、この40年でキモノ業界は壊滅的と言えるほどに縮小した。代わりに現代美術が盛んになり、それが欧米に認められ、今仮にこの映画をリメイクしたとして、日本の場面でそうした芸術が取り上げられるかとなると、まず無理だ。伊仏が認めるほどの美術の世界的才能が日本からは生まれておらず、今後もその可能性が大きい。それほどにヨーロッパの美術は自分たちが普遍的なものを作り上げて来たという自負があり、そのことはこの映画からもよくわかる。では彼らが日本にかなわないものは何か。それがキモノだ。何しろ絵画のように人の手で生地に絵を染めて行く。この映画はその手間のかかった、また着て美しいキモノをよく知り、またヨーロッパにはないその造形美に文句なしに賛辞を捧げる。それを欧州人の40年前の古い、時代錯誤の感覚と捉えてはもったいない。自然になくなって行くものは仕方がないかもしれないが、自ら棄てて行くことは顧みる余地がある。そんなことをこの映画は教えてくれる。
●『ペイネ 愛の世界旅行』_d0053294_23505077.jpg キモノを羽織ったふたりが次に見る日本の姿は、顔がTV画面になったスーツ姿のサラリーマンの隊列だ。それは顔がなく、ロボットのように勤勉な日本人像だ。高度成長の真っ最中の当時の日本は、伊仏からそのように映った。顔のTV画面に現われるのは「NHK」の文字で、これはペイネの個人的な趣味なのか、映画製作に携わった人たちの意見の一致なのか、ともかくNHKが有名であったことはわかる。日本を代表するTV局であり、誰もがそれを見て行動の規範としているとでも言いたげな場面だ。ほかに日本人の正面顔が写し出される場面もあった。それは吊り上がった目ら細い髭からして、どう見ても典型的な中国人の顔だが、ヨーロッパ人には区別がつかない。この点はいくら口を酸っぱく主張しても無理だろう。また、日本を紹介する場面で流れる音楽にも中国的な音色やメロディがある。プッチーニは『蝶々夫人』で日本的なメロディを多用したが、そこに中国的な匂いが混ざっていないかと言えばそうではない。それと同じことがこのアニメ作品にも言える。ヴァレンチノとヴァレンチナはいかにもイタリア人の名前だが、ふたりの故国はフランスで、この映画でも最後にそこに戻る。イタリアとフランスは隣り合わせに位置しながら、文化も芸術も大いに違う。それがペイネを中心としてこのような映画を作ったことが面白い。同じことが日本と中国でなぜ出来ないのか。日本と韓国はサッカーのワールドカップを共催したが、それは欧州の考えとして自然なものであった。隣国同士が仲よくしないで、どうして遠くの国とそれが出来るだろう。ヨーロッパから見て、日本や韓国、中国はそれぞれ独立しながらも同じ圏内にあるはずで、それは日本、韓国、中国もそうだ。それが歴史認識の問題で今なお同じ考えを持たず、欧州からすればきわめて時代から遅れた地域に映っているのではないか。最初の段落で触れたジャーナリストは大の中国嫌いで、そのために韓国とは仲よくしようと言っているが、本音は韓国も大嫌いだ。その韓国が中国と仲よくやって行こうと外交を始めた。また中国の経済発展ぶりは凄まじいものがあって、40年前の日本以上だ。この映画を今リメイクするならば、中国にもヴァレンチノとヴァレンチナが降り立たねばならない。逆に言えば、74年当時、アジアでは日本のみがそれとはっきりわかる形で好意的に取り上げられていて、この作品が日本で絶大な人気があることの理由の幾分かはそこにあると思える。
 先日富士山が世界遺産になった。この映画でも富士山は描かれる。そういう外国の固定的な見方を察して、日本が富士山を世界遺産として認定してもらいたかったところがなきにしもあらずで、この映画に描かれる日本のイメージに日本はあまり幻滅しないでおくべきだ。紋切り型のイメージであっても、世界に日本が紹介され、観光客が増えることは歓迎すべきだ。欧米人にとって日本のシンボルはキモノに富士山、そしてロボットだが、今の日本はキモノをすっかり忘れ、代わりにアニメを前面に押し出している。中国が今後世界からどのようなイメージを抱かれるかと言えば、ひとつは高度成長期の日本と同じで、ロボットかもしれない。あるいはロボット先進国の日本はそれを奪われたくなく、東京の「ロボットレストラン」のように、これからもロボットを用いた先駆的な文化なりも発信し続けるかもしれず、そうなれば中国がどのように代表的イメージを固めるかが見物だ。これは些細な問題ではないように思える。ある国や地域を思い浮かべた時、真っ先に何かが、そしていくつかが出て来るのは喜ばしい。「フジヤマ、キモノ、ゲイシャ」が「アニメ、フジヤマ、ロボット」に変わったとすれば、それだけ日本は文化が変わって来た、つまり停滞がなかったことであって、そのように代表的なイメージを持たない国は、たとえばこのアニメ映画では採り上げられる術がない。こう書けば、この映画は若い男女が世界旅行ながら、誰もが共有している各地各国の絵はがき的なイメージに出会って行く観光映画と思われそうだが、それは半分で、もう半分は「愛」から見ればマイナスの要素を描き、人間世界が必ずしも手放しで喜べるものばかりで成り立っていないことを示す。そのことは74年という時代を知る必要がある。筆者はそれがわかるが、その後に生まれた世代は意味不明な場面が少なくないだろう。筆者は74年当時この映画が公開されたのは知っているが、ずっと気になり続けて2001年の再公開版のビデオを買ったのが数年前で、それを見たのが一昨日だ。感想を一言すれば、ほとんど想像どおりでありながら、取り上げられている各国の歴史文化に大人びたものを見た。映画のパンフレットには、「あなたは登場人物の何人と出会い、いくつのパロディを発見しましたか?」と題して、ていねいに各場面を説明してある。これを読まねば知らないままであることも多々ある。これは伊仏では常識でも日本ではそうではないことが多く混じっているだろう。たとえば、映画のほとんど最初、ヴァレンチノとヴァレンチナは天国の楽園で恋人の代表的なカップルのカードを神から見せられる。アダムとイヴやロミオとジュリエットは誰でもすぐに思い浮かべるが、そうした有名な恋人列伝にヴァレンチノとヴァレンチナも入っているという、ペイネの自負だ。それはいいとして、パンフレットによればその恋人カードに、文豪ダンヌンツィオの小説「リミニのフランチェスカ」に登場するパオロとフランチェスカが混じっている。ダンヌンツィオは名前だけは知っているが、小説を読んだことはない。伊仏人にすれば常識であることが、アジアではそうではない。そのため、この映画を100パーセント理解して楽しめるのは伊仏の、しかも74年に成人であった人たちのみではないか。これはきわめて偏った国の視点で描かれたもので、すぐに時代遅れになってしまう要素を多く含んでいることになりそうだが、題名にあるように本質は「愛」であって、それは普遍だ。
●『ペイネ 愛の世界旅行』_d0053294_23511035.jpg

 数年前に買ったビデオを今頃見る気になったのは、ちょっとした気まぐれで、あまり理由はないが、この映画の主題歌がちょうど梅雨の晴れ間にぴったりで、毎年今時分になると思い出す。それに、ここ数年、串田孫一のペイネについて書いた本を事あるごとに思い出しては買って読もうとしながら、まだその機会を得ず、気になっていることを少しでも減らすために一昨日思い切って見た。伊仏製作であるのに、ヴァレンチナとヴァレンチノは英語を話し、それがかなり違和感があった。2001年に再公開したのは、同年9月11日のアメリカでの衝撃的な飛行機によるテロがあったせいか。この映画ではそれを思わせるような場面があってぎょっとさせられた。最後のパリでの場面で、遠くにエッフェル塔が見える市内に、1棟だけだが、ニューヨークのかつての貿易ビルと同じ形をした建物がそびえ、それが一瞬のうちに瓦解する。その場面が何を意図しているのか、もう一度じっくり見直さねばわからないが、それほどにこの映画は次々と場面が変化し、ふと気を抜くと意味がわからなくなる。これはどの場面も重要でありながら、どう解釈するかは個人に任せるようなところがあるからだ。そこが日本のアニメとは大違いではないだろうか。静止画面が多用されて、動きの多い、たとえば現在のディズニーのCGアニメと比べるといかにも安っぽく、また70年代を感じさせるが、それがかえって味わいがある。ビートルズのアニメ『イエロー・サブマリン』から数年しか隔たっていないのは納得で、同作に刺激を受けての製作でもあるだろう。また、この映画ではビートルズらしきロックの4人組がイギリスの場面で登場し、「愛と平和」を唱えていたジョンとヨーコの影響を大なり小なり受けていることも思わせる。それから一歩前進しているのは、たとえば冷戦構図を描き、アメリカのニクソン大統領とソ連のブレジネフ書記長を登場させていることだ。また、74年はニクソンの盗聴事件が明るみになって、たとえばザッパも曲の歌詞にそのことを盛るなど、世界的な話題であったが、そのニクソンの悪行をこの映画も描きながら、笑いを誘っている。ソ連がなくなって今は冷戦構図が解消したかと言えばそうではなく、この映画に少しだけ登場する毛沢東の中国が大きな力を持って、世界の勢力地図が変化を来している。つまり、すぐには理解出来ない人物や物事が描かれているが、ヴァレンチノとヴァレンチナはそんな世情を見ながら、また時にはその場に巻き込まれながら、いつも寄り添って手をつないでいる。ジョンとヨーコの愛と平和のメッセージをもっと世界的かつ歴史的に広げて讃えてみようというのが、この映画の目的で、その愛と平和の根本は手に手を取る恋人であるというペイネの信念はどこまでも正しい。
 筆者がペイネの描く男女が好きなのは、何と言っても洒落たそのセンスだ。この映画のヴァレンチノのように、男性はいつもボーラーハットにダーク・スーツで、彼は色気たっぷりの女性の腰を抱く。この映画でヴァレンチナは超々ミニで、たまにパンティが覗く。その大人びたところは、子どもではとても理解出来ない前述のダンヌンツィの小説に登場する悲恋のカップルといった知的な素材とともに、ヨーロッパの余裕といったものを感じさせる。儒教的な韓国や日本ではまずそんな色気は教養的アニメでは不可能だろう。だいたいフランス人は、愛は性愛でもあると考えるし、それはイタリアでも同じだろう。カトリックの国がそうであるのは面白い。この映画のイギリスの場面にはエリザベス女王ではなく、ヴィクトリア女王が登場していたが、彼女の時代は、性を隠すべきものとして捉え、ミニ・スカートからパンティが見えるなどとても考えられなかった。そのことをペイネは半ば皮肉ったのかもしれないが、ビートルズらしき4人を登場させることで、イギリスも愛を謳歌する国であることを言いたいようだ。カトリックで言えば、この映画ではカトリックの尼僧が神父によってスカートをまくし上げられ、黒いビキニのパンティが丸見えになる場面がある。ポルノの世界ではカトリックの尼僧はひとつのカテゴリーになっているほどで、それらはカトリックを謗るためにプロテスタントが撮影しているかと言えば、案外そうでもないように思う。スケベエな神父も当然いるということを伊仏の人たちはよく知っていて、またそれもある程度は仕方ないことと達観しているようであることもこの映画からは想像出来る。ペイネに言わせると、そうした性癖もまた愛の形であり、男が女の股の間に関心があるのは普遍的なことなのだろう。映画の最後では人々の行進があって、地面から彼らを見上げる構図になる。スカート姿の女性はみなパンティ丸見えで、そこでも男たちはぎょっとしながらもにやけることになる。愛は微笑ましいものだ。恋人同士を笑顔にさせる。そしてふたりはふたりだけの世界に突き進む。この映画の最初で筆者は涙を思わず流しそうになった。タイトル・ロールの下、暗闇の中をヴァレンチノがヴァレンチナの手を取ってふたりが左から右へと走り去って行く。言うなれば、「カップル・オン・ザ・ラン」、まるで駆け落ちだ。番の鳥は羽に羽を取ることは出来ないが、手を握れる人間は手をつないでどこまでも走って行く。それは勁い愛のなせる技だ。人種や国籍を超えて、誰しも相手を見つければそれが実現する。
by uuuzen | 2013-06-29 23:51 | ●その他の映画など
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