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●『菊花の香り』
先日深夜放送でしていたのを録画した。この映画以外に、手元に録画した韓国映画は3本ある。毎日忙しいので観る暇がない。だが、今日は仕事の合間にこれを観る気になった。



●『菊花の香り』_d0053294_15305640.jpg数日前に冒頭から15分だけ観ていたが、いつまでも中途半端にしておくのがいやなので、思い切って今日の午後に最初から観た。ところが途中で1時間ほど眠ってしまった。それだけ映画に興味がなかったかもしれないが、実際のところは睡眠不足のためだ。このブログも今日は時間がないのでどんな内容にししようかと迷ったが、奮い立たせてワープロに向かい、観たばかりのこの映画について書くことに決めた。もう一度最初から観て気がついたが、最初の地下鉄のシーンのエピソードがこの映画のほのぼのとした印象を代表している。酔っぱらいのおっさんが地下鉄の車内で横になって眠っていて、その近くに主人公の大学生イナが乗り合わせて立っている。車内は比較的空いているが、座席は全部塞がっている。そこに女性がふたり乗り込んで来る。ひとりは妊婦、もうひとりは若い女性で、これがヒロインのヒジェだ。ヒジェは妊婦に座らせるために酔っぱらいに声をかけ、足を押し退けて妊婦と座る。酔っぱらいは「アンパンが食べたい」などと言いながら、別に暴れるわけでもなくそのまま目覚めて座り直す。この様子の一部始終を見ていたイナは暴力的な出来事がなかったことにほっとし、そしてヒジェと同じ駅で降り立つ。これがイナとヒジェの出会いで、イナはヒジェにひとめ惚れする。酔っぱらいが暴力沙汰を仕出かさないことで、この映画がそうしたアクションとは無縁であることがまずわかる仕組みだ。映画の題名は以前からよく知っていたが、ちょっと中国映画っぽい感じがある。そして韓国映画とわかってからは、菊は日本では抹香臭い象徴の花であるので、きっと悲劇を描いた映画であると思った。結果的にそれは当たっていたが、日本と韓国とでは菊のイメージに共通性があるのだろう。いや、ヨーロッパでも菊は明るいイメージで捉えられる花ではない。ところで、酔っぱらいがアンパンという言葉を発したのには興味を持った。TVドラマ『ピアノ』ではパン屋が重要な設定として登場していたが、その中にアンパンがあったかどうか。そう言えば、何度か韓国に行ったことがあるのに、アンパンは食べたことがない。韓国では日帝時代にアンパンが入ってそのまま同じ言葉で通用しているに違いないが、韓国では日本生まれの日本と同じ発音で通じている物事を、日本から来たとは思わず、韓国が生んだと信じている場合がいろいろとある。そこには日本文化の流入を拒んでいた時代の名残と言うべきものがそのままあるが、日韓併合期における文化流入の韓国のその後を思いもかけない形で映画がドラマが提示してくれることがある。そしてそれらの事物が韓国でどのように受容され、また変容しているかを知ることは、日韓両国の比較を垣間見るうえで少なからず役立つ。アンパンがそのままで通用しているなら、漫画のアンパンマンはきっと韓国で受けると思うが、もう韓国に入っているのだろうか。映画とは直接に関係のないこんなことを思ったせいで、あまり映画の世界に浸り切ることが出来ずに途中で眠たくなったのかもしれない。
 さて、地下鉄で出会った後、イナとヒジェの次の出会いはすぐにやって来る。イナはアメリカで育って帰国したばかりでソウルのある大学に入っているが、同じ大学の同じサークルの先輩として偶然ヒジェがいた。ヒジェの女友だちのソンミはイナに初めて出会って、たちまちほのかな恋心を寄せるが、イナはヒジェが好きで、ヒジェは年下のイナのことが眼中にない。夏になってサークルは海辺の田舎の小学校で合宿をする。地元の小学生たちを教える中、ちょっとした事件が起きてヒジェは海で溺れ、それをイナが救う。イナの看病のおかげもあってヒジェは回復し、イナはヒジェに強引にキスをして愛を告白する。ヒジェはイナの恋心を一時的なものとして認めず、ふたりはそのまま別れて社会人になる。ヒジェはかつて溺れた経験があるため、泳ぐことを極度に恐れているが、この海辺は映画の最後でも登場するところ、ひとつの大きな布石となっている。こうした布石は、TVドラマでは放送回数が長いので、よほどうまく描かないとあまり効果的ではないが、2時間以内でまとまる映画では、どの場面もそれなりに意味があって用意されているはずで、あらゆる場面のあらゆる素材を象徴として読み解くことも出来る。この映画の場合、海はイナにとって初めて恋心を告白した思い出の場所という程度の意味だが、これは密かに思いを寄せる人と一緒に、団体にせよ泊まりかけで日常とは違う場所に出かけた経験を持つ人ならば誰しも思い当たるはずの切なくも嬉しい経験で、それが開放的な海ともなればさらに感情も高まって印象深いものになるであろうことがよくわかる点において、実にうまく設定された場面となっている。この海辺の合宿では、もうひとつ重要な布石が用意されている。それは学生たちが共同で手漉きの紙を作るシーンだ。韓国にも日本の和紙と同じようなものがあるのは当然だが、それが和紙と同様に高価なものになっていることもまた充分に想像出来る話で、それでもヒジェはこの手漉きの紙でつずれ絵本を作りたいと夢を持つことになる。このエピソードはそれ自体ではよくあるような出来事で、観ていても別に意識にさほど残らないが、ヒジェにとってのこの海辺の合宿での経験がその後にどう影響するかを予め観客に見せる意味では欠かせないものとなっている。つまり、物語の起承転結の承の部分であるこの合宿のシーンは、ごく些細なことでもみな意味があって、後になってそれらがつながって来るように設定されている。それらの布石がわざとらしく描かれていない点がなかなか巧みで、韓国映画の質の高さをよく示す例となっいる。
 大学時代の片思いがどれほど長く続くかは人によってまちまちだが、この映画でのイナはとにかく純情で、卒業してヒジェとは別々の道に進んでからもずっと変わらない思いを寄せている。ところがヒジェは別の男性と婚約し、その男性と自分の両親と一緒に車に乗って走っている時、事故に遇ってしまう。ヒジェ以外の3人は死に、ヒジェも怪我をするが一命は取りとめる。生き甲斐をなくしたヒジェは孤独に児童本の編集仕事をこなして生きているが、女医になって大学時代のソンミはそんなヒジェを見て心配している。イナは夜のラジオ番組のディレクターになっていて、放送で採り上げるはがきの文面を自分で書き、その番組をヒジェが聞いてくれる日を待っている。もちろんイナは仮名で投稿し、その内容はソンミから聞き出しているヒジェの様子を思ってのものだ。そのイナの書くはがきの内容がリスナーの評判を呼び、番組は有名なものになっているが、ソンミが聞かせようとしてもヒジェは興味を持たない。このあたりの話の流れはかなり現実離れしていて、いかにも作り話の映画と思わせるが、番組を利用してイナが哀れな境遇に陥ったヒジェに思いを伝えるという設定は、何だかネット時代ならではの若い世代がやりそうなことで、それはそれで若者には共感を得るかもしれない。しかし、イナはソンミと結託してヒジェに会うべきで、もっと直接的にヒジェを慰める、あるいは改めて恋心を告白すべきではないだろうか。それではロマンティックな映画にならないので、こうしたストーリーにしたのであろうが、ちょっとじれったい。また、ソンミもイナのことは最初に会った時から好きで、ソンミとヒジェは恋敵と言ってよいが、そこはふたりとも大人でしかも友情が勝り、あくまでもヒジェを思って尽くす。自動車事故によって映画の起承転結の転となる設定は、韓国ドラマならではの常套手法で、これは少々辟易するが、音楽や画面のあまりどぎつくない描写のために、淡々としたあたりまえに起きる事件としてねじ伏せている。そしてこの最初の大きな悲劇がそれだけでは終わらず、そのまま映画の結びのさらなる悲劇につながって行くところは、まさに菊花の死の香りで、主人公の死で締め括られる他の韓国映画、たとえば『八月のクリスマス』や『ラスト・プレゼント』を即座に連想させ、この映画がそうした路線にそのまま乗って作られたものであることがわかって、感動がやや減じてしまう。イナとヒジェは結婚生活に漕ぎつけるが、初めて出会ってから7年経っていた。ようやくイナの純情が実を結んだ形だ。相変わらずディレクターを続け、リスナーのはがきを読み上げる番組は人気を博しているが、今度はヒジェが仮名で投稿し、それをイナにわからせるという設定は、こんな夫婦が現実にあるのかなとかなり違和感を持つ。同じ家で生活しながら電子メールで会話する夫婦があるほどで、それを考えればあり得ない話ではないが、イナとヒジェのふたりはなぜお互い遠慮しているのか、もっと直接ぶつかれよと旧世代に人間は思ってしまう。しかし、主人公のふたりは割合どこにでもいるような顔をしている点で、あたかもありふれた菊の花のようにさらりと映画は進み、激しい感情のぶつかり合いがほとんどないことに納得させられる。だが、映画のキャッチ・コピーなのか『世界で一番愛されたひと』という文句は安っぽくていただけない。いかにも軽い若者に受けそうな表現で、この映画の良質の部分を台なしにしている。
 イ・ジョンウク監督の第1作目ということらしいが、こういう力作で登場する新しい監督が韓国には少なくないようで、韓国映画の底力を見る思いがする。韓国では2003年2月に封切られたが、映画の終盤には秋の紅葉が美しく撮影されていて前述の海辺のシーンとの対比がよく出ているが、映画後半が秋になって行く点でも「菊花の香り」とはうまく通じている。また、このタイトルは映画の最初から最後まで何度か主人公たちが効果的に口にすることで、映画自体の香りの表現を代弁している。映画に限らず、芸術作品はみなこの香りが命だ。どのような香りがするかで人は記憶する。この映画では鼻で感じる直接的な香りという意味で主人公たちは使用しているが、映画ではそうした香りはなくとも景色や情感によって香って来る何かがある。そして、この映画の場合、それはごくかすかな、人間というものが運命的に所有するはかなさであって、そのはかなさを凝視することの中に人生があるのだということを示している点で実によく成功しており、この映画のタイトルは映画に登場する象徴の中で最大のそれになっていることに気づく。原作はキム・ハインという人の同名の小説で、韓国ではかなり売れたそうだが、物語の内容を適切に題名がシンボライズしていることにもよるだろう。それは『八月のクリスマス』といったあまり意味のない意外性や、『ラスト・プレゼント』というありきたりの即物性とは大きく違っている。淡々とした日常の中に人間の予想もつかない変転が生じ、それでも人間は生きて行くのだということをうまく描いている点で、この映画は予想出来る悲劇の終末に向かって進みながらも、その先の希望が明確に描かれており、結局のところは酔っぱらいが呑気に「アンパンが食べたい」というような何でもない日常がそこにあることを再確認させる。観客は涙を流してカタルシスを覚え、それから一旦覚めた後は、また日常のありがたさを思って生きて行くことになる。落ち込んでいる時にこの映画を観るとさらに落ち込むという人があるとすれば、それは映画の大切な点を何ら感得していないと言ってよい。最後に登場する海辺や手漉きの紙で作られた絵本の登場は、人間にとっての大切な思い出の場所やあるいは本当に成し遂げたかったことの成就として、映画を観る者に一抹の安堵を伴う運命観といったものを伝える。どんな個人にもそのような大切な人との思い出の場所や形見といった物はあるはずで、それらは当人たちにとってしか意味をなさない、それこそはかない香りのようなものだが、実は最もはかないはずの香りが最も長く人の心に残ると言えまいか。この映画はそんなごくごくかすかなことを知らせようとしていると同時に、映画そのものがその香りを保持することで長く人の心に残ると言える。
by uuuzen | 2005-09-28 23:52 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
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