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●『天上の花園』
鄙も辺鄙、こんな人里離れたところにも人の暮らしがあるのかと思わせられるのが、この韓国ドラマで、一昨日放送が終わった。韓国では2011年の12月から放映されたようだ。筆者が見たのは全32話で、ネットでは全30話との記述もある。



それが本当と思う。筆者が見たのは毎回最初の5分ほどは全回の結末とだぶっていて、またコマーシャルも多かったから、2話分を引き延ばしたのだろう。ということはノー・カットが見られたのかもしれない。小さな子どもから老人まで、老若男女が登場して、毎回それぞれに光を当てて主役としながら、その置かれた事情から来る悩みを描き、またそれがやがては穏便に解決するというハッピー・エンド全開のホーム・ドラマだ。そのことはこのドラマの題名にも表われている。「天上」は天に最も近い場所であるかのような、江原道にある山の中の小さな村だ。村というまとまりもないかもしれない。家の集まりを映す場面はなかったと思う。最終回にほんの少しだけ山に囲まれたごく小さな盆地が映ったが、そこに家はなかったと思う。そのため、このドラマに登場するいくつかの家族の住まいがどれほどの距離を置いているのかがわからない。最もよく映ったのは村に一軒だけあるログハウスの喫茶店だ。それはこの番組のために建てたのではないだろうか。その内部はほぼ毎回映ったが、TV局のセットのはずだ。同様に主人公の老人男性の家の前庭もセットのはずで、地面に積もった薄雪を表わすのにスタッフが白い粉をどの程度どこへ撒けばよいか苦労したことがわかる。そのような粗を探せば、最初の数回にとても気になったことがある。ドラマは晩秋から始まり、雪の季節を迎え、そして山が萌える春で最終回を迎えるのだが、晩秋を示すのにオレンジと赤の混じったセロファンの楓の紅葉の造花があまりにわざとらしく執拗に近景に使用され、そのことで当初見る気がしなかった。ブラウン管時代とは違い、今はあらゆるものが鮮明に見え過ぎる。そのためドラマの制作者の苦労もわかるというものだが、画面を美しく見せるために、また季節感を表現するために造花の赤い紅葉の枝を頻繁にクローズアップすることはない。本物を使えばいいものを、それが手に入らないほど撮影が長引いた。第4回か5回か忘れたが、とっくに深い雪が降り積もった村であるのに、まだ鮮やかな紅葉の枝が画面の横手からにゅっと突き出ていた。カメラマンの助手が造花の枝を持って指示どおりに携えていた光景を想像し、興醒めした。そして思ったのは、このドラマはリアリズムの追求が目的ではなく、わざとらしい作り物、つまり現実にはあり得ないお伽噺を描くのだなということだ。題名からしてもそうだ。
 悪人がひとりも登場しないハッピー・エンドのお伽噺に意味がないかと言えばそうではない。このドラマに描かれる幾多のエピソードは、かなり無理があるにしても、俳優たちの熱演によって本当にあるべきことに思えて来る。つまり、俳優の演技という「作り物」が「リアリズム」を感じさせるのと同じように、このドラマに描かれる出来事はすべてあり得ること、あるいは目の前で実際に起こっていることに思える。そして、見終わった後、もう登場人物の姿が見られないことにさびしさを覚え、彼らがドラマでの姿のまま、同じ山奥でその後も暮らしていることを想像し、そのことに勇気づけられもする。それはどんなドラマでも持っている力であろうが、山奥の寒村を舞台にするという、今までにあまり見たことのない設定のため、忘れ難い作品となっている。美男美女の若者の恋愛をコミカルに描くのが韓国ドラマの本流となっているが、このドラマはどちらかと言えば年配者が見て面白いように作られている。それは甘いも辛いもよくわかっている人が見ても納得出来る設定であるからで、どの登場人物も深刻な問題を抱えている。それらの問題は韓国社会の現在の代表的なものを網羅していると言ってよいが、事情は日本でも同じで、筆者はよく知らないが、日本のドラマや小説、漫画を参考にして脚本が書かれたかもしれない。ひとつ大きく違うと思うのは、主人公のおじいさんチョン・ブシクの家の居間、鴨居にかかる木材の大きな扁額だ。そこには「心清事達」だったか、ブシクが自ら文字を彫って黒く塗ったとおぼしき字が書かれている。この扁額は毎回登場し、画面の中央上部に見えていた。また向かって左のドア横の壁には「大魂無辺」の4文字を染めつけしたタイルが木枠の中に飾られていた。それもブシクの好む言葉なのだろう。ブシクがハンコを器用に彫る場面があり、昔の文人趣味を引いた人物と言ってよい。また、こうした4字の言葉は昔の両班が好み、彼らの書斎などには似た言葉が盛んに書かれた。簡単に言えば儒教の精神だ。それがまだブシクの内面には生きていて、生活の信条としている。そしてそのことがこのドラマの背骨となっていて、きわめて韓国的な教えを描いている。そう考えると、日本のドラマや小説のリメイクとは考えにくい。日本の現代を描いたドラマで、主人公が一種座右の銘のように「心清事達」や「大魂無辺」を住まいのよく見えるところに飾ることがあるとは考えにくい。それをすると全く嘘っぽくなるほどに、日本の儒教と韓国のそれは質が違っている。ここが日韓のさまざまな摩擦の根本の理由となっているようにも思うが、今はそれには触れない。
 話は変わる。昨夜のネット記事に、現首相の奥さんが韓国ミュージカルを鑑賞してそれが楽しかったといったことをネットで意見したらしい。すると70件ほどの「首相の妻としてはあるまじき行為」といった意見が寄せられた。筆者は現首相は評価しないが、奥さんは立派と思う。内助の功をこれほどうまく発揮している例は珍しいのではないか。もし奥さんが韓国のドラマや文化を謗ることに片棒を担ぐとすれば、それこそ「あるまじき行為」だ。面白いものは面白い。楽しいものは楽しい。個人のそんな考えを否定するのはどうか。政治の前で文化の価値や意味などすぐに消し飛んでしまうとするのは野蛮以外の何物でもない。かつて日本は「アメリカ憎し」の思いからジャズを禁止し、アメリカ生まれの言葉をみんな漢字に置き換えたが、その「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の感情がネット時代になってからさらに拡大している気がする。その偉そうにした日本が、アメリカに戦争に負けたとなると、まるで飼い犬で、ジャズどころか、あらゆるアメリカ文化を歓迎して今ではアメリカの一州同然の国になっている。その反動もあって自主制定した憲法をという論議が再燃しているが、懲りない面々が政治を司っているから、右傾化の懸念を周辺国が抱くのは無理もない。話を戻して、このドラマは毎回教訓的なことをブシクが言ったり、行動するというのではない。前述のように、誰しもわけわりの暮らしをしている。ブシクは奥さんが呆れ果てて家を出てしまっており、娘もわけありの男と結婚して寄りつかない。また、先祖代々持っていた土地は村のうまく立ち回る一家に乗っ取られ、生活は楽ではない。そのようないわばだらしのない老人が、しだいに村民の尊敬を集め、娘は子どもを連れて戻って来て同居し、ついには奥さんもフィリピンから帰国して一緒に暮らすようになる。この家族の和解は、村民たちの和解にもつながっている。みんな仲よく暮らすというハッピー・エンドだが、現実問題としてそれが可能かとなると、そこに誰しも気づくのは経済的な問題だ。村民が充分自活出来て、しかも張りのある暮らしが実現しなければならない。それは日本のシャッター通りと呼ばれる商店街や、高齢化している地方の町にも共通する問題で、ただどうにか生きるのではなく、仕事で積極的に自己表現出来ることが理想だ。それをこのドラマは地方の特産物を持ち出すことでうまく物語の重要な部分を構成している。
 筆者は知らないが、五味子という秋に小さな葡萄のように鈴なりになる赤い実がある。それをブシクを初め村人たちは作っている。その畑を巡ってブシクとある人物との間で争いが起きる。それを描きながら、ブシクの過去が明らかにされる。ブシクには兄がいたが、結婚式を挙げたばかりの兄は朝鮮戦争に徴兵され、戦死してしまう。若い奥さんは再婚せずに村に留まりながら、夫の帰りを待っている。ブシクは密かにその兄嫁に思いを寄せるが、ある日痴呆症が顕著になり、やがて帰らぬ人となる。北朝鮮に近い山辺の村であるから、ブシクの兄のことは現実味がある。もうひとつ北朝鮮関係のエピソードが描かれる。村にはナムギルという40歳ほどの独身男が母親と暮らしている。母は息子の嫁を早く見つけたいと思っている。日本の山中の寒村も同様の問題を抱えているだろう。ある日、ブシクの娘ジェインが村の川で若い女性ミョンオクが入水自殺するところを救出する。その若い女性は実は妹を置いてひとりで脱北して来たが、働き口もなく、夢破れて死のうとしていた。その後村の食堂で働くことになり、ナムギルが一目惚れする。ところがナムギルの母は北朝鮮を嫌悪している。ジェインは脱北者であることを母に隠したまま結婚し、やがてそのことがばれるが、ジェインの悲惨な過去を知った母はジェインを受け入れる。このように、このドラマは、人は情にほだされるものという例をいくつも挙げる。表向きは偏狭であっても、人の優しさの前ではやがて笑みがこぼれる。そのことはこのドラマが厳しい冬を迎え、最後には新芽の季節に変わって行くことに暗示されている。話を戻して、ブシクは五味子の栽培にかけては名人で、村人からその秘訣を訊ねられたりする。同じように世話しているのに、なぜ畑によって甘味が違うのか。それをブシクは手間のかけようの違いと言う。人間も同じことだとブシクは言いたいのだが、ブシクの偏屈さに呆れて娘も妻も離れて行った。ところが、ふたりとも世間の荒波を味わって、結局はブシクのもとに帰って来るし、その山中での不自由な暮らしこそがよいと思うようにもなる。それはブシクという大きな魂があってのことだ。どんな辺鄙なところで、一緒にいて楽しい相手がいれば天国だ。それ以上何を望むものがあるのかという人間としての真実をこのドラマは繰り返しているに過ぎない。金があっても買えないものがあるし、必ずしも幸福とは限らないということだ。
 このドラマに登場する人たちは、みな現在の韓国における熾烈な学歴競争からは距離を置いている。どこの有名大学を出たかといったことは話題にならない。そのため、たとえばそういう大学を出ることこそ、人生の幸福への最短距離だと考えている人は、このドラマの登場人物を憐れむだろう。だが、今やソウル大学を出ても3人か4人にひとりは就職口がない。これは幸福を約束されたような者が早々と挫折を味わうことであって、このドラマの登場人物の誰かに感情移入することは出来るだろう。それは人生レースの敗残者としていう消極的な意味ではない。このドラマでは、貧しい村人がどうにかして胸を張って生きて行けるように特産物で工夫する話が背骨となっている。五味子以外に玉ねぎが育つ土地で、それをどうにか特産の商品に仕立てることが出来ないかと模索する。筆者はこのドラマで知ったが、玉ねぎでジャムが作られる。ネットで調べると本当で、イタリア料理ではよく使われるらしい。ジャム作りをちょっとした趣味にしている筆者は今食しているリンゴ・ジャムやマーマレードがなくなると玉ねぎジャムに挑戦するつもりでいる。どんな甘さなのか、今から楽しみだ。さて、村民が力を合わせて玉ねぎジャムを作ったはいいが、販路をどう開拓するかだ。それに資金も必要だ。そこには人の出会いが欠かせない。ブシクは過労から倒れて入院する。そこで知り合った年配の患者は大金持ちであった。先に退院したブシクのもとにある日その男性は訪れる。その後いろいろとあって、玉ねぎジャム製造と販売のための資金を1億ウォンも提供する。彼はブシクの人柄に惚れたのだ。金持ちであっても孤独で、ブシクを羨ましいと思う。その資金をもとにソウルに支店を出すことにする。その人選が問題となる。村には誰もソウルに詳しい者がいない。ブシクの娘ジェインは一時ソウルにいたが、今では土地勘がない。そこで韓国ドラマらしい御つごう主義が登場するのだが、ジェインの夫カン・テソブは再婚で、金にだらしがなく、女優で元の妻チン・ジュホンとジェインの間を行ったり来たりしながら、また一方では別の女にも接近している。ジェインは元妻との間の子と自分の子をふたり連れて村に戻り、そこで喫茶店を経営しているシン・ウギュンから慕われる。テソブと離婚したジェインはウギュンの求愛に素直になれず、そんなところにまたテソブが茶々を入れにやって来るが、ブシクのアイデアもあって、テソブがソウル支店を任されることになる。調子のいいテソブであるので、販路拡大はうまく行くかもしれない。このように、登場人物の人間模様をいろんな角度から描きながら、どの試みも成功するという筋立てで、現実はそのように甘くはないが、我を張らず、相手の立場になりながら、仲よくすることを心がけると、そこは天国の花園のような生活が開かれるということだ。30話はちょうどいい長さで、これ以上長くするとわざとらしさが増して嫌味になった。ここでは到底書き切れないほどに心温まる話が盛りだくさんで、また笑いが基調になっているところがよい。登場人物が立腹する場面は多いが、それ以上に目立つのが、俳優たちが余裕で演技し、「ねえ、あなたもわかるでしょう」といった共犯関係を視聴者と形成している場面だ。それは一種のわざとらしさだが、それは仕組まれたもので、わざとわざとらしくしている。その一例を最後に書く。最終回でナムギルの母がブシクが病院で知り合った大金持ちから求婚され、結婚式を挙げる。ナムギルの母は初めて見た俳優だが、とても強烈な脇役で、このドラマに大きな花を添えている。「花」と表現するにはあまりに酷いスタイルと顔だが、文字どおりに「花嫁」姿を披露し、また求婚される場面は誰しも大笑いで、喫茶店の店主のウギュンは声を潜めて笑う場面がある。その姿はドラマを見る全員の思いを代弁しており、作り物であるお伽噺の頂点となっている。ソウルで商売で大きく成功した老人が、いくらさびしいからと言って、辺鄙な村の老女と結婚したいと思うだろうか。だが、そんな高齢者同士の結婚が非現実的とは限らない。さびしいのは何歳になっても同じだ。あるいは独り身の高齢者ほどそれは深刻だ。造花の紅葉した楓で最初は拍子抜けしたが、回を重ねるごとに面白くなった。韓国ドラマに拒否反応を示す人が見ればよいと思う。
by uuuzen | 2013-05-11 22:59 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
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